京都 血天井の養源院
養源院
住所:東山区三十三間堂廻町656
山号:南叡山
宗派:浄土真宗遣迎院派
創建:文禄3年(1594年)
開基:成伯法師
本尊:阿弥陀如来
京都 相国寺の塔頭です。
桃山御殿 血天井、宗達筆襖、杉戸絵が良いですね
行き方
お車の場合は、三十三間堂の裏側、智積院の前の道路を右折しすぐ左折します。
駐車場:門を入り左側に3台程度駐車できます。無料
公共交通機関の場合
行き方:京阪電車 七条下車 徒歩約7分
市バス 博物館三十三間堂前/東山七条下車 徒歩約3分
京都国立博物館・三十三間堂・方広寺・豊国神社・耳塚・智積院など近くに多く観光地があるので半日かけて散策するといいと思います。
養源院総門
総門を入ると石段があります。ここは使用されていません
養源院の前の三十三間堂の裏門
遠く突き当りが南大門
養源院 門
この門を車で入りすぐ左が駐車場でした。そこから奥に進むと先ほどの石段があります。
写真はここまで
室内撮影はできません。
秀吉の側室だった淀殿(浅井三姉妹の長女)が秀吉に頼んで、父・浅井長政の二十一回忌のためにと1594年に創建した寺院です。「牡丹の間」は秀吉の学問所であったといわれています。
その後徳川秀忠の正室お江(浅井三姉妹三女)により再興された徳川家の菩提所となりました。豊臣家に創建されながら、徳川家の菩提所となる不思議な因縁の養源院。1616年には崇源院(お紅)により、淀殿と淀殿の第二子である豊臣秀頼の菩提が弔われました。1619年には落雷が原因の火災により消失していますが、2年後には崇源院の願いにより江戸幕府が再建しています。これは、崇源院が江戸幕府第二代の徳川秀忠の婚姻相手だったためです。ここで気になるのが、秀忠とお紅の位牌です、「菊」「葵」「桐」の3つの紋があるのです。3つの紋を同時に見るよう所は他にはありません。また徳川家2代目忠秀から14代家茂までの位牌が安置されています。
「菊」は天皇家の紋、「葵」は徳川家の紋、「桐」は豊臣家の紋。お江はのちに天皇家へ嫁ぐこととなる和子を生んだことで、天皇家とも深くかかわることになります。
血天井
慶長5年(1600年)、石田三成を阻止するよう命を受けた徳川家康の家来、鳥居元忠を筆頭に伏見城を守る約2000名に対し豊臣方の武将・石田三成を筆頭に4万の軍勢が攻める戦い。10日もの間攻防戦が続きましたが、最初は約2000名いた兵士たちも380余名となり、力尽きた鳥居元忠らは「中の御殿」に集まって自刃、伏見城は落城。
ところがその亡骸(なきがら)は、関ヶ原の戦いが終わるまで、残暑の残る夏の2ヶ月ほど伏見城に放置されていました。その間におびただしい血が床板に染み付いていてしまい、洗っても取れなかったそうです。その床板を外し、供養として養源院の天井に使ったものが「血天井」なのです。本堂左右と正面の廊下にあります。
本堂の天井は家康方の重臣鳥居元忠の自害した跡といわれている血痕がくっきりと残っています。足、頭の位置などがわかります。
京都市内には他にも血天井がある所は、源光庵には足跡がくっきりとあります。ここも訪れましたので後日記事にします。大原三千院の前を通り奥に宝泉院がありますが、ここにもあります。
ここも行きましたので後日に。他にも正伝寺などがあり、県外では大阪府や徳島県・岐阜県にも存在するそうです。しかし私は訪れたことはありません。
ぐいす張りの廊下
本堂の廊下はうぐいす張りでキュキュット音がします。この廊下は、江戸時代初期に活躍した彫刻家・左甚五郎の作。夜間の侵入者を防ぐ装置です。京都のお寺、二条城も同じ工夫が施されています。忍び足で歩くと最も音が大きくなるそうです。が、あまりにも多くの人がいて良く聞き取れませんでした。
天才絵師・俵屋宗達
本当の魅力的なところはやはり、俵屋宗達の絵画。伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、本堂の襖12面、杉戸八面の象や獅子、麒麟などを図案化した構図・表現は素晴らしいものです。
写真はありません。ポストカード購入しましたが保管場所がわからないので、拝観したとき頂いたものを掲載します。
養源院の庭園
小堀遠州が作庭したものと伝わっています。小堀遠州は遠州流で知られる茶道の祖ですが、近江小室藩初代藩主であり建築や作庭などでも知られている人物です。小堀遠州の父である小堀正次は、浅井長政・豊臣秀吉に仕えていました。この庭園は、東山連邦の阿弥陀ヶ峰を遠景としています。阿弥陀ヶ峰には豊国廟があり、そこは遺言により豊臣秀吉が眠る場所です。
残念ですが、写真撮影はできませんでした。
梵鐘 製作年代不明
梵鐘奥の石仏群