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京都  法住寺  後白河上皇の宮廷「法住寺殿」

法住持
住所:京都府京都市東山区三十三間堂廻り町655
宗派:天台宗
本尊:不動明王
創建:989年
開基:藤原為光
駐車場:ありません。
行き方は、三十三間堂と同じ


鬼瓦 通常は左右を向いているが、この鬼瓦とは別に正面を向いている瓦があった。
鬼瓦と一体なのかな。


留蓋瓦も宝珠となっている、珍しい。

山門の扉の彫刻
菊の花の中心に「三巴」の紋
昭和天皇ご即位の時造られたもの。もったいないと周りに二枚の葉を配した。

天井の梁にも見たことがないものがある、調べたが不明。(少し赤身がある所)


石庭  本来は護摩壇


鯱鉾のしっぽが左右違います。
前には三十三間堂があります。




後白河天皇法住寺陵 中には入れません、ここから拝みます。


平安時代中期に藤原為光によって息女低子と夫人の菩提を弔うため創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」とされました。
法住寺合戦は1183年11月に起こります。後白河上皇は御所だった法住寺の武装化を始めます。当時、平安京の武力と言えば木曽義仲軍だけだったのですが、意外にも後白河法皇は多くの兵力を集めることできたのです。しかし、法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちにあい、武力で幽閉した後白河法皇に自らの要求を強引に押し通し、望んでいた征夷大将軍の役職に就きます。後白河法皇を抱え込むことに成功した木曽義仲は、後白河法皇を連れて一度北陸に戻り、再起を図ろうと考えたのですが、当時の日本では「後白河法皇を強制的に味方につける=木曽義仲は官軍」となり、天下に号令できるはずでした。しかし、その後の木曽義仲は北陸には向かわず、そのまま平安京入りをしようとする源義経・源範頼軍に戦を仕掛けてしまいます。こうして、源平合戦の舞台は宇治川の戦いへと移り変わります(宇治川の中州に史跡があります)。数年後白河上皇も崩御(119年3月)すると、法住寺は後白河上皇の御陵をお守りする寺として江戸時代末期まで存続、明治時代に御陵と寺が分離されました。天皇陵は三十三間堂の東側にある。東山を背にして西を向いています。宮内庁管理になっています。


法華堂内には、運慶作の像があります。
また、浅野内匠頭と大石内蔵助はじめ四十七士の義士木造が安置されている。それぞれ名前が記されていました。


サザエさんの作家長谷川町子さんの菩提寺です。
正門(法住寺門)の提灯には「サザエさん長谷川町子菩提寺」の札が掲げられている。境内には長谷川直筆のサザエ・ワカメ・タラちゃんを描いた色紙が展示されて

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