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京都 祇王寺 奥嵯峨におる静かな草庵

 

山門


祇王寺
住所:京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
電話:075-861-3574
駐車場:5台程度
公共交通機関で
 京都駅―(JR嵯峨野線 園部行)―嵯峨嵐山駅

ここは祇王寺ではありませんが、右手にありました宝實閣檀林寺(嵯峨天皇の皇后)禅の発祥遺跡を表す「山城の国一ノ寺 檀林寺」と刻まれた大きな石標があった。


当寺は、平安時代の初め、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ、786-850)が創建した寺院に由来します。皇后は、容姿美しく婦徳に秀で、学芸を愛され、橘氏の学校として学館院を設けたといわれています。

表門


祇王寺を左に行くと約400mで滝口寺です。私たちは行きませんでした。


苔むした庭園が素晴らしいです。

祇王寺は竹林と楓に囲まれた草庵で、『平家物語』にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られています。


祇王寺は昔の往生院の境内にありました。往生院は法然上人の門弟良鎮によって創建されたと伝わり、かっては広い寺域を占めていた往生院も後年は荒廃し、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになったのです。





祇王姉妹の墓(左)と平清盛の供養塔(右)


祇王寺墓地の入口にある碑には「妓王妓女佛刀自の旧跡 明和八年辛卯正当六百年忌 往生院現住尼 法専建之」とあって、この碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八月十五日寂」と刻まれているのは祇王のことと思われます。


吉野窓 草庵の控えの間にある大きな窓を吉野窓といい、影が虹の色に見えることから「虹の窓」とも称しています。 仏殿にあります。昔コーヒーのCMにも出ていました。


四季折々の美しさがあるそうです。
この吉野窓は 吉野太夫ゆかりの寺にもあります。  


吉野太夫はこの吉野窓に完全ではない自分の姿を映し、自らを戒めていたそうです。


吉野太夫は寛永八年(1631年)二十六歳の時に本阿弥光悦の甥の子で京都の豪商・灰屋紹益(はいやじょうえき)の妻となりましたが、僅か十二年後の寛永二十年(1643年)に三十八歳の若さで亡くなり、遺言により常照寺に葬られました。


常照寺の茶席「遺芳庵」では、毎月第一日曜日に吉野太夫を偲んで釜がかけられ、多くの茶人で賑わっています。



祇王寺は明治初年に廃寺となりましたが、残された墓と仏像は旧地頭の大覚寺によって保管されました。大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ、再建を計画をしました。


元京都府知事北垣国道氏が祇王の話を聞き、明治二十八年に嵯峨にあった別荘一棟を寄付したのが現在の祇王寺の建物です。現在、祇王寺は真言宗大覚寺派の寺院で、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院ともなっています。


平家物語 悲恋の舞台
平家全盛期だった頃、『祇王』という白拍子(平安後期に流行した歌舞を演じる芸人)がいました。祇王の歌と舞いはそれはとても美しく、瞬く間に評判となります。



時の権力者、平清盛の耳にもその噂は入り、祇王を呼び寄せ、舞いを披露させました。その見事で気品のある舞いはもちろんのこと、祇王の美しい容姿に惹かれ、二人は恋仲に落ちます。清盛は祇王を西八条殿に住まわせ、そのうえ母や妹の面倒までみるほど寵愛し、都の人々がうらやむくらい、何不自由のない生活を送っていました。


そこへ、仏御前という白拍子が現われます。仏御前も評判がとても良く、清盛に舞いを見せたいと願い出るものの、清盛は祇王より素晴らしい舞いをする者はいない、と門前払いしようとしました。わざわざ遠くからやってきた仏御前を見かねて、心優しい祇王が清盛を説得します。


気乗りのしない清盛でしたが、見事な歌と舞いに瞬く間に仏御前に心を奪われたのです。そして、「舞いを見せたかっただけなので私が帰ります」という仏御前の言葉に耳を貸さず、それまで寵愛していた祇王を西八条殿から追い出してしまいます。


さらに、心を痛めた仏御前も御殿を出て行ってしまいます。清盛は仏御前に懇願して御殿に戻ってもらいたい。そこで祇王に「仏御前に舞いを見せ、慰めてやって欲しい」と使いを出しました。祇王は断ろうとしますが、母に哀願され、御殿に出向き、仏御前の前で舞いを披露しました。清盛の無神経な態度と、仏御前の下座におかれる屈辱とで、祇王は自害しようとするものの、母の説得により思いとどまります。


この一件で、祇王は、妹と母と共に世を捨て、仏門に入ることを決心しました。祇王21歳、妹の祇女19歳、母の刀自45歳のときでした。3人は髪を剃り尼となって、今の祇王寺の地にあった小さな庵で念仏三昧の静かな日々を送りました。


月日が経ったある秋の夜、庵を訪ねる者がいました。そっと覗くと、そこには髪を剃った仏御前が立っています。祇王の運命を自分と重ね、世の無常を思い、出家し尼になったとのことです。このとき仏御前は17歳でした。


こうして清盛と関わった4人の女性は、仏道に励み、往生を遂げました。
祇王寺の本堂には、祇王・祇女・刀自・仏御前・清盛の木造が安置されています。

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