京都 落柿舎(らくししゃ) 松尾芭蕉ゆかりの地 嵯峨天皇皇女の墓
落柿舎(らくししゃ)
住所:京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20
建立
江戸/1751~1830
木造平屋建、茅葺一部瓦葺、建築面積58㎡
1棟
駐車場:ありません
民営駐車場利用
公共交通機関
市バス「嵯峨小学校前」下車、徒歩約10分
(京都駅前より市バス28系統に乗車)
京都バス「嵯峨小学校前」下車、徒歩約10分
嵯峨小倉山の敷地中央に南面して建ち、寄棟造茅葺です。東端を狭い土間とし、床上部は西端南側を四畳半の主室として西面にとこがありとこ脇も備えているほかに二畳部屋と三畳部屋がある。
ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安四年(一六五一)~宝永元年(一七〇四))の閑居の跡として知られている。
当時、庭にあった四十本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて柿を買い付けていた商人を気の毒に思ってその買値全て返金した。これが落柿舎の名の由来である。
今でも、庭園にはたくさんの柿の木があり、秋には多くの身をつけます。中でも注目してもらいたいのが、本庵の前にある高い柿の木。係りの人聞くと樹齢300年を数える古木だそうです。
松尾芭蕉も晩年、元禄二年(1689)に初めて落柿舎を訪れて以来、計3度足を運びました。元禄四年(1691年)に訪問した際には、この場所で嵯峨日記を執筆した。
一休み
落柿舎の門をくぐると、目の前に現れるのは茅葺屋根が印象的な本庵。
どことなくひっそり佇む本庵の姿は、私の父の故郷もこの様な感じ、故郷は門を入ると右側が牛小屋、左が農機具と、使用人の住む住居があった。今はもう跡形もなく、檜造りの豪邸、従兄は剣道道場の師範。
私は、初段です。
ここの、本庵の内部は、土間と玄関の他に四帖半と三帖の部屋がそれぞれ一つずつ、二帖の部屋が二つという構造になっています。質素の作りです。
これは、本庵の玄関先にかけられている蓑と笠。かつては、庵主の在宅・不在を外に知らせるために蓑と笠をこうしてかけていたのだそう。現在では、このように常に玄関にかかっています。
本庵を見ると、玄関に囲炉裏がある。そのかたわらには一足のわらじがおかれている、昔の生活を垣間見るようである。右手には台所があり、その奥にはかまど。
庭園にはししおどしがありました。ししおどしが放つコーンという音は、静寂に包まれた落柿舎の敷地内に響き渡ります。庭園の奥の方にはベンチも設置されているので、一服するのも風情がある。秋には美しい紅葉もあるそうです。
落柿舎の庭園にある句碑。向井去来が詠んだ「柿主や 梢はちかき あらし山」という句が記されています。安永元年(1772年)に俳人・井上重厚が建てたもので、洛中で最も古い句碑だといわれている。
同じく庭園にある句碑で、松尾芭蕉が詠んだ「五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡」という句が記されています。
この句は、芭蕉がこの地で執筆した嵯峨日記の最後に書かれたもの。この他にも庭園には高濱虚子、昭憲皇太后、下平可都三などの句碑が並んでいます。
嵯峨日記
江戸前期、松尾芭蕉の日記。一編。宝暦三年(一七五三)刊。元祿四年(一六九一)四月一八日から五月四日の間、京都嵯峨にある向井去来の別荘落柿舎(らくししゃ)に滞在中つづった日記で、芭蕉の日記としては唯一のもの。文学作品としての構想のもとに、落柿舎での生活、感想、門人たちとの交渉などを発句、連句、漢詩などをまじえながら記述する。
庭には去来のよんだ
柿主(かきぬし)や
梢(こずえ)はちかきあらし山
の句碑がある
去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かって武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。
その句
鴨なくや弓矢を捨てて十余年
はよく知られている。
ここを訪れた時、ちょうどTVロケ中、犬のまめ助がいました。
落柿舎を出て左に行きますと、西行井戸がありました。
近くの二尊院に西行法師庵跡がありました。
同じように落柿舎を出て右手に行きますと。
嵯峨天皇皇女のお墓です。
落柿舎近くの常寂寺の近く、土佐四天王の銅像を妻が見つけました。
右から中岡慎太郎、坂本龍馬、武市瑞山、吉山寅太郎
この像は、高瀬川の土佐藩役邸近くにあったのを移転したそうです