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四国八十八ケ所 車で遍路の記録/ 第19番 立江寺・第20番 鶴林寺 ・第21番 太龍寺

                             2021年1月掲載
                      2021年5月23日 記事一部訂正・写真追加
19番 立江寺
「黒髪お京肉付鐘の緒伝説」が残る阿波の関所


住所:徳島県小松島市立江町若松13番地
宗派:高野山真言宗
創建:伝:天平19年(747)
開基:伝:行基、聖武天皇(勅願
御本尊:延命地蔵菩薩
☎;0885-37-1019
駐車場:有料 30台
宿坊があります。お泊りの方は電話で予約してください。


真言:おん かかかびさんまえい そわか
御詠歌:いつかさて 西の住居の わが立江 弘誓の船に 乗りていたらん


関所寺
四国八十八ヶ所霊場には、各県に一カ所ずつ「関所寺」とされている札所があり、「お大師さまの審判を受け、邪悪なものは先に進めない」とされています。


各県の難所になっている札所で、土佐の国は27番札所「神峰寺」
伊予の国は6番札所「横峯寺」讃岐の国は99番「雲辺寺」そして、阿波の国は19番「立江寺」が最初の関所としてそれに当たります。
心がけの悪い遍路は山門から先に進めないといわれています。


立江寺以外の三カ寺は、山登りを伴うわかりやすい難所なのですが、立江寺は海に近い平地で険しい道のりではないのになぜ関所寺とされているのかは、伝説の黒髪お京肉付鐘の伝説が関係しているようです。


聖武天皇(在位724~749年)の勅願により、行基が開基しました。


行基は白鷺に導かれてこの地にやってきたといいます。
光明皇后(701~760年)の安産を祈願し、約6センチの小さな金色の地蔵菩薩を刻み本尊として安置しました。


後の弘仁6年(815年)、弘法大師が四国霊場開創の際訪れたとき、本尊があまりにも小さいので紛失を心配して、等身大の延命地蔵菩薩を刻み、その胎内に行基が刻んだ小さな像を納めました。


創建当時は、現在地より少し西の清水の奥谷にありましたが、天正年間(1573~1592年)に焼失しました。
その後蜂須賀家政が現在地に移転し再建しました。

かなり太い

本堂

その時の髪の毛がついた鉦の緒が本堂に安置されています。


寺宝の絹本着色釈迦三尊は、鎌倉時代の作で国の重要文化財に指定されています。

本堂の格天井には東京芸大の教授であった西村公朝氏の指導により、芸大卒の画家達が描いた花鳥が美しい



大師堂

弘法大師像

多宝塔
大正7年 1918年、上重 銅瓦葺、下重 本瓦葺、一辺 5.59m)
塔の内部は、四天柱があり須弥壇上に多宝塔を置き、なかに五智如来を安置する




肉付き鐘の緒の黒髪洞
大師堂右手にある小祠。
不義をしたお京という女がこの寺に詣り懺悔すると、お京の髪の毛が逆立ち、鐘の緒に巻き上げられて残ったという伝説のお堂。
なお、その時の髪の毛がついた鉦の緒が本堂に安置されています。


石州浜田(現在の島根県浜田市)城下通り町三丁目桜井屋銀兵衛にお京という娘がおりました。


お京は、16歳の時、大阪新町へ芸者に売られ、そこで芸妓として務めるうち、要助という者と契りそめ、22歳の時、大阪を脱走し生国浜田へ立ち帰り、親に頼みて要助と夫婦になりましたが、お京の心様が最も悪しく慣れるにつれ、我儘増長し、鍛冶屋長蔵という密夫をつくってしまいました。これを夫要助に嗅ぎつけられ、二人とも散々に打ち叩かれ、邪見のお京は長蔵を手引きして、夫要助を打ち殺してしまいます。
お京と長蔵の二人は、故郷を逃げ出し、讃岐丸亀(現在の香川県丸亀市)へ渡り心中しようとしましたが気後れして心中することができず、後生のため四国巡礼の遍路に出ました。


享保3年(1718)、阿波の国(現在の徳島県)にある19番札所立江寺にお参りし、本尊の地蔵尊を伏し拝まんとするや、忽ち、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きついてしまいました。苦痛のお京を見て、長蔵は狼狽し、住職に救いを求めました。


住職は罪障の報いであろうと思い、二人に今までの行いを問いただしました。お京は仏罰の恐ろしさに、全てを懺悔しました。すると、不思議にも、お京の黒髪は肉とともにはがれ、辛うじて命は助かりました。
その後、二人は改心し出家して、田中山(立江寺より北へ500メートル現在のお京塚)というところに庵をむすび、一心に地蔵尊を念じ生涯を終えました。
お京の黒髪付の鐘の緒を立江寺の堂(黒髪堂)に納め置いたのは、亨和3年(1803)の春だという。
          ウェブサイト空海 四国昔話八十八ヶ所巡り より




ホームページ



19番:立江寺から13.1km
20番 霊鷲山 宝珠院 鶴林寺 
第一番札所から150.7㎞
住所:徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14番地
宗派:高野山真言宗
創建:伝:延暦17年(798)
開基:伝:空海(弘法大師)、桓武天皇(勅願)
御本尊:地蔵菩薩
☎:0885-42-3020
駐車場:有料(志納金制)、普通30台
交通機関
JR徳島駅→徳島バス勝浦線「生名」下車→徒歩7km


真言:おん かかかびさんまえい そわか
御詠歌:しげりつる 鶴の林を しるべにて 大師ぞいます 地蔵帝釈


今日も、塔中7寺末寺15寺を持つ大寺として存在します。
平成22年に周辺の遍路道が「阿波遍路道」として国史跡に指定されました。


このお寺にも奥の院がありますが、四国別格二十霊場と言って、四国八十八ケ所と合わせて108ケ所となるのです。


鶴林寺は桓武天皇(737~806年)の勅願寺だったが、弘法大師がこの地を訪れたとき、つがいの白鶴が小さな黄金の地蔵尊を羽に包んで守り運んできたといいます。


そこで弘法大師は自ら霊木に3尺(約90cm)地蔵菩薩を彫り、その小さな黄金の地蔵尊を地蔵菩薩の胎内に納め本尊にしました。そして、寺名を鶴林寺と定めました。


付近の山容が、釈迦が説法されたインドの霊鷲山に似ているところから、山号をつけたと伝えられています。


その後は、皇室をはじめ武家の帰依も篤く、平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。


阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573?92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れてました。以後、蜂須賀家の保護を受けて隆盛しました。


「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。
鶴林寺は標高570mの山頂にあります。
ここも難所です。


狭い山道を車で行きましたが、徒歩で登るとかなり険しところです。
一に焼山、二にお鶴、三に太龍寺と阿波の難所に数えられています。
参道には、室町時代の年号を刻んだ丁石が11基残っています。


山門
山門山号扁額『霊鷲山』
ガイドブックによるとこの奥に阿吽の像(運慶作と伝えられる仁王像)があるらしいが見えない。

山の上の寺、軽四であえぎながら登っていった。とんでもないカーブは切り返しをしないとあがれなかった。山頂まで約4キロの急勾配の参道が続き八十八か所のうち焼山寺に次いで2番目の難所。山門には仁王ではなく木彫り鶴の像が左右にあった。


木彫りの鶴

こちらは、口が開いています
阿吽ということです。

本堂
本堂に行くまで階段があります。何段あるのか数えませんでした。
本堂前には鋳造の鶴が左右にあった。これらの鶴も右はくちばしを開け、左はくちばしを閉じている。
これらは神社、お寺のお約束の状態。
 納経料と駐車料金300円(赤い紙に金色で鶴が描かれた交通安全のステッカーが貰えた。
駐車料金を支払うと1枚もらえます。
 
希望者は頭蛇袋(または白衣)に鶴の御朱印を押してもらうことができる(200円)。


第39番札所の延光寺で亀の御朱印も頂くと鶴亀となるのです。


本尊の地蔵菩薩は、一木造りの平安期の仏像で、国の重要文化財に指定されています。
別名を、「矢負い地蔵」と呼ばれ、猟師が猪を射た矢を身代わりになって受けたといいます。


猟師は殺生を悔いて自殺しました。山門の近くに猟師塚があります。
この鶴林寺は地元では「おつるさん」の名で親しまれています


三重の塔
三重の塔も素晴らしい。塔には彫刻がされていた。四隅の力士像、中央のから風の彫刻。
四国では最古の三重の塔だ。ここから太龍寺が見えるらしいが見えなかった


大師堂


丁石 11本あります

六角堂
弘法大師作の地蔵尊を祀られています。


忠霊塔、護摩堂、(写真ありません)

水呑大師
弘法大師が杖でついて
水が噴出したとの伝説があります。
弘法大師の伝説で、水がまつわる話が多いですね。
それだけ当時の人々は水に難儀をしていたのです。


文化財
木造地蔵菩薩立像(国の重要文化財)
絹本着色釈迦三尊像(国の重要美術品)
地蔵来迎図(県文化財)



第20番から26.4km
21番 舎心山 常住院 太龍寺 
第一番札所から150.07㎞
海抜600mの太龍寺山の山頂近くにあり「西の高野」と呼ばれ真言宗準別格本山の格式をもつ名高い寺である。四国霊場第21番札所で792(延暦11)年、弘法大師の創建と伝えられている


住所:阿南市加茂町竜山2
宗派:高野山真言宗
創建:伝:延暦12年(793)
開基:伝:空海(弘法大師)、桓武天皇(勅願)
御本尊:虚空蔵菩薩
☎:0884-62-2021
駐車場
ロープウェイ利用の場合 無料 普通150台 マイクロ10台 大型10台
・ロープウェイを利用しない場合 普通50台(500円)※マイクロ・大型は麓まで(境内まで1.5キロ)
徒歩では、中腹の駐車場から坂道を登るのに30分も要するようです。
交通機関
徳島バス丹生谷線「和食東」下車→徒歩10分→「太龍寺ロープウェイ」


真言
のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おん あり きゃまり ぼり そわか
御詠歌:
太龍の 常にすむぞや げに岩屋 舎心聞持は 守護のためなり


 太龍寺は延暦17年(798年)、桓武天皇(在位781~806年)の勅命により、阿波国司・藤
原文山が伽藍を建立し、弘法大師が刻んだ虚空蔵菩薩を本尊として開基しました。
若き日の弘法大師が一人の僧に出会い、虚空蔵求聞持法を授けられた際に「阿波国大滝岳」や「土州室戸崎」で一心不乱に勤行しました。


この地(大滝岳)は、弘法大師が19歳の時に山岳修行したところとして有名です。
その後、一時荒廃しましたが弘法大師が52歳のとき、淳和天皇(在位823~833年)が、さらに後には白河上皇が東寺の別当長範に命じて再興させました。


太龍寺は標高618mの大龍寺山頂近くにあります。
3kmの急な参道は、第12番・焼山寺、第20番・鶴林寺と続いてきた「阿波の三難所」の最後の難所です。


20番から21番への道はナビの通り向かう山道をくねくねと狭い、地図では広い道で
あるがナビは山道を示している。広い片側1車線道路が続くものの、途中から狭路。公共事業が途中でストップしたと見受けられる。狭路を抜けると今度は舗装がされていない比較的道幅の広い道が続く。また少し狭路に入り、これを抜けると太龍寺であった。


道の駅「鷲の里」ロープウエイの駅もここから入って行く。赤い橋を渡ると乗り場、
「JAF」のカードを出し割引を受ける。


ロープウエイを利用し参拝
ロープウエイの床が開けられており(格子状の床)、そこから快い風がくる、のぞくこともできたがやめておく、どこかの子供がのぞいてはしゃいでいた。
ロープウエイから途中に弘法大師が「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を習得したという舎心嶽(しゃしんがたけ)が見える。ちなみに「虚空蔵求聞持法」とは虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるというもの。小さく見えるが2mの大きさと
聞きました。


何故虚空蔵菩薩なのかというと、弘法大師が虎年生まれで、虎年の守り本尊が虚空蔵菩薩だからだ、という説がある。虚空蔵求聞持法とは、法に則って虚空蔵菩薩の真言を百万回唱えれば、見聞したところ一切を忘れないという秘法です。

また、日本オオカミの鋳造が5匹いた。
ロープウエイの所要時間10分位


弘法大師像


 ロープウエイを降り右手にグルと廻ると正面に出る。真っ直ぐの石段が待ちかまえていた。ここで、他のお参りに来ていた方に夫婦の写真撮影をお願いする。




仁王門
金剛力士像は鎌倉時代の作品で、徳島県では最大にして最古のものです。


中門
鐘楼門となっています。
この鐘を衝いてから中に入ります
ここからまだ階段が待ち受けています

彫刻が綺麗

多宝塔

多宝塔では地元の人が絵を描いていた。多宝塔について話しを聞きました。
(1774年建立)
階段を下り鐘楼門・六角経堂を見学し、ロープウエイで下山。


大師堂
独立した立派なものです。


相輪塔

納経所の右側、持仏堂の天井には龍の絵が描かれています。
すごい迫力です。


大師廟


 大師堂は高野山奥の院と同じような、配置になっており、西の高野山と呼ばれる所にもなっているとのこと。また拝殿の彫刻はこっている。
グルと廻り、上に登って多宝塔経由で、本堂へ。本堂の前に大木を輪切りし内側をくり抜いた年代物の杖立があった。


帰路
ロープウエイから鶴林寺の三重の塔が見えた。


 15:40分:22番平等寺へ立ち寄る時間はあったが疲れたのでお寺の標識(右折)のみ確認しそのまま通過、自宅へ帰るため高速道路ICへ向かう。途中でガソリンを入れようとしたがGSは道路の反対側ばかりで結局入れることはできずICに乗る。心細いまま(ガソリン残量のメモリは残り半メモリを切っている。)淡路島の高速を走行し途中のSA(淡路島)で入れたがやはり1L当たり13円も高い、Uターンしてでも一般道でガソリンを入れる方が良かった。ここで食事を採る。帰宅したのは、22時20分であった。




第22番へ約11km



次回は22番 平等寺から 41番延光寺についてお話します。

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