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奈良県 不退寺 業平寺 なりひらてら

不退寺 業平寺 なりひらてら
住所:奈良市法蓮町517   
宗派:真言律宗西大寺直末
本尊:聖観音菩薩立像(業平観音)
☎:0742-22-5278


拝観料:600円

 所用時間30分 

特別公開26年5月28日にいきましたた。


駐車場:門前駐車場10台
西名阪自動車道「郡山I.C」から国道になり24号線を北進し20分(10㎞)


春季特別公開


春季秘宝特別展「伊勢物語」のモデルとなった歌人在原業平が建立したというこのお寺。


56歳で生涯を終えた不遇の歌人のお姿をご覧になり、平安の世に思いを馳せていただけます。5月28日の業平の命日には、業平忌として、あやめ、かきつばたが飾られ、午前11時から法要が営まれます。法要の後28日のみ、多宝塔特別開扉と伊勢物語(鎌倉時代末期頃の写本)の公開があります。


『大和國金龍山不退寺縁起』によると、第51代平城天皇は大同4年(809)に弟の嵯峨天皇に御譲位され、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、「萱の御所」と呼称された。


その後、第1皇子阿保親王とその第5子在原業平朝臣が共に居住せられ、業平朝臣は承和12年(845)仁明天皇の詔を奉り、承和14年(847)平城天皇の旧居を精舎に改め、自ら聖観音像を刻まれ、父阿保親王の菩提を弔うと共に衆生済度の為に「法輪を転じて退かず」と発願し、金龍山不退転法輪寺と号して仁明天皇の勅願所となった。


略して不退寺、業平寺とも呼ばれる。


 『三代実録』巻4、貞観2年(860)10月15日の条によると、平城天皇第3皇子真如親王の御奏請により、平城旧京の水田55町を超昇寺と共に施捨されたとする記事があり、これが正史における初見で、かなり広大な荘園があったらしいが、平安時代末期、養和元年(1181)平重衡による南都焼討のために諸堂が炎上し、鎌倉時代、西大寺の興正菩薩叡尊により再興された。



 中世には南都15大寺の一つで、中世から近世にかけて西大寺と興福寺一乗院の末寺になり、二重の支配を受けた。寛正5年(1464)にはいずれかの堂宇が焼失した。『大和名勝志』によると、かつて浄名院・不動院・長老坊という塔頭があったらしいが、江戸時代中頃には廃絶したらしい。



 江戸時代、慶長七年(1602)徳川幕府より御朱印50石が安堵され、元和3年(1683)には二町四方七堂伽藍であった。寛政3年(1791)の境内図には本堂、多宝塔、南大門、鐘楼、鎮守社、庫裏が描かれている。


文政元年(1818)の『阿保親王御廟詮議』によると、当寺は幕末から無住で、西大寺三光院の住職が兼務をしていたらしい。


 阿保親王は在原氏、大江氏、毛利氏の先祖だと言われているが、特に長州毛利氏が所縁の寺社を明治時代まで手厚く保護していた。当寺においても明治18年(1885)毛利氏品川弥二郎(内務大臣)が瑞景寺の庫裏を寄進して、現存している。



 明治6年(1873)から大正12年(1923)までは完全に無住で、西大寺住職が兼務していた。


大正12年に松村龍祥が住職となり、浄財を集め伽藍を復興しようと努力していた頃、昭和5年(1930)4月久邇宮邦英殿下(京都青蓮院門跡)の御来山を仰ぎ、御言葉添によって国庫補助が下り、昭和5年に本堂が昭和9年(1934)には多宝塔、南大門解体修理された。



昭和38年
(1963)松村圭淳が住職となってから境内庭園の整備が進み、約500種類以上の植物に囲まれ、年中花の絶えない南都の古寺です。


本堂
単層本瓦葺寄棟造 桁行5間 梁間4間 鎌倉時代後期 重要文化財
内部は内陣と外陣に分かれ、その境に吹寄菱欄間(業平格子)と木連格子を入れている。須弥壇上中央に本尊聖観音菩薩像、その周囲に五大明王像、地蔵菩薩像を安置しています。


須弥壇の左右に小部屋があり、東小部屋に神仏習合名残りの伊勢太神宮を奉安し、西小部屋に阿保親王坐像と平城天皇、伊都内親王の尊儀が祀られている。



昭和5年の解体修理の際に天井裏などからこけら経が発見された。


多宝塔
桟瓦葺宝形造 鎌倉時代中期 重要文化財
初層のみで上層と相輪を欠いている。建立当初檜皮葺の二層構造であったことは『不退寺伽藍図』や『大和名所図会』からわかる。内部の壁板には真言八祖が彩色されているが、剥落が激しい。



昭和九年の解体修理時に発見された飛檐垂木墨書によると、多宝塔には安浪(快慶)作の千体地蔵が安置されていたらしい。


当寺最古の建造物で、5月28日の業平忌のみ開扉されます。


南大門
本瓦葺切妻造四脚門 鎌倉時代 重要文化財


南都十五大寺の一つとして法灯盛んであったことを感じさせる壮大な門で、左右に御所塀が付いている。


身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中央冠木の上に束を中心にして笈形風にいろいろと装飾しているのが特徴である。昭和9年の解体修理時に棟札が発見され、正和六年(1317)鎌倉時代末の建築であると確認された。


庫裏

本瓦葺入母屋造 江戸時代
瑞景寺の庫裏として安政4年(1857)に築造されたが、明治初年に廃寺同然となっていた不退寺に対して、明治18年(1885)長州毛利家の品川弥二郎が当寺の庫裏として寄進したものである


聖観音菩薩立像
平安時代(藤原時代前期)木造彩色 重要文化財 像高1・9㍍


寺伝によると、業平朝臣御自作といわれ業平観音と呼ばれている。また『和州寺社記』によると「住持一世に一度開帳」とあり、近世まで秘仏であったらしいが、明治以後はずっと御開帳されています。


桂材の一木造で、宝冠帯が大きくリボンを着けた観音像である。全身胡粉地の上に極彩色の花紋装飾が施され、復元するとかなり艶かしい観音像になるので、業平朝臣の理想の女性ではないかと思われる。


現在は彩色が剥落して木地が所々見えて痛々しい。なお、業平朝臣は「馬頭観音、聖観音の化身」と言われていて、愛知県東海市富木島町の宝珠寺、愛知県知立市八橋の無量寿寺と在原寺に業平朝臣自作の観音像が伝えられている。


五大明王像
平安時代(藤原時代後期)木造(檜材の寄木造)彩色 重要文化財
不動明王 像高87㌢ 降三世明王 156㌢ 軍荼利明王 158㌢ 金剛夜叉明王 149㌢ 大威徳明王 139㌢



五大明王は古代インドで独立に成立したヒンズー教の神々であった。その後中国において護国経典である『仁王経念誦儀軌』によって、中央に不動明王、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王という配置で組み立てられたものである。



平安時代初めに弘法大師空海が中国から五大明王を請来し、京都東寺の講堂に安置され、平安時代の彫像で、奈良において現存しているのは当寺だけである。



一般に五大明王像は慈悲相で容易に教化しがたい衆生を導くために憤怒の形相が激しいが、当像は躍動感が無く、穏やかに表現されている。



不動明王を除く四大明王は迦楼羅炎と踏割蓮華が欠如しており、大正3年の修理の際に岩座に変更された。不動明王は玉眼が嵌め込まれているので、平安時代末期から鎌倉時代初期に彫像されたのではないだろうか。



阿保親王坐像
鎌倉時代 木造彩色 玉眼嵌入 奈良県指定文化財 像高104㌢
本堂内陣西小部屋の中に平城天皇、伊都内親王の尊儀とともに安置されている。


桧材の寄木造りで、精密な彩色が施されている。胎内に何か文字らしいものが書かれているが、まだ解読されていないようで今後に期待したい。


鎌倉時代後期から室町時代中期にかけて彫造されたものと様式上考えられていますが


阿保親王は在原氏、大江氏、毛利氏の先祖だといわれているので、これらの氏族が阿保親王の遺徳を讃えるために彫造したものではないだろうか。特に毛利氏の家紋である一文字三ツ星は阿保親王が逝去後に追贈された一品を象ったものである。


八相涅槃図

江戸時代 紙本著色 掛幅装 184×188㌢本堂内陣東奥の壁には『八相涅槃図』があり、裏面の墨書によると、享保酉年つまり享保14年(1729)奈良市大柳生町の西福寺で、涅槃講を始めるにあたり、紙本着色で描かれた画像で、大正12年(1923)西福寺が廃寺になった折り、当寺に寄贈されたものす。



涅槃図は2月15日の涅槃会・常楽会の法要に使用されるもので、その日にしか画像は掲げないが、当寺の涅槃図は年中掛けたままでだそうです。


興正菩薩像
江戸時代 紙本版彩色 掛幅装 86×31㌢
鎌倉時代初期、不退寺は真言律宗西大寺の興正菩薩叡尊によって中興された。


真言律宗は弘法大師空海を高祖とし、興正菩薩思円上人叡尊を宗祖としている。密律不二の教義に基づき、真言密教の奥旨を伝え、戒律を修し済世利人の聖業を期することを主旨としている。


叡尊は生きとし生けるものは宇宙の根源的な大生命である大日如来の顕現であることを説き、ものの生命を尊び、身を修めることの大切さを説かれた。


また光明真言による滅罪生善安楽の功徳を強調され、毎年西大寺では10月3日ー5日まで昼夜不断の光明真言土砂加持法要が厳粛に執行されている。


鎌倉時代北条氏の帰依を受けたためにその勢力範囲は広く、北は福島県から南は熊本県まで広範囲に渡り、約90ヶ寺の末寺で構成されている。奈良市内には11ヶ寺あり海龍王寺、般若寺、元興寺、福智院、白毫寺など有名な寺院が多い。  


           
叡尊の生涯を探っていくのに最も不可欠な文献は『金剛仏子叡尊感身学生記』で、三巻から成る叡尊の自叙伝である。同記には不退寺の名は全く出てこない。


しかし、叡尊が菩薩戒を授けた弟子の中に不退寺僧6人の名前があり、西大寺西僧坊造営に不退寺僧が一二人合力していることからわかるように、西大寺との関係は親密であった。


石造物
立石…鎌倉時代 花崗岩製 高197㌢
当寺では立石(たていし)と呼んでいる笠塔婆が本堂の前に建っている。もとは一条通りにあったが、防犯・管理のために昭和50年頃境内に移転した。


四方に梵字が薬研彫りで、刻まれている。上段に宇宙を表すという五大の真言、中段に金剛界四仏の種子、下段の南面に光明真言、北面に大随求小咒、東面に十三仏、西面に三帰依真言と大日真言、一番下は蓮台である。西方は少し剥落している。もとは頂上に笠と宝珠がのっていたと考えら
れています。 

石棺

古墳時代 砂岩製 刳抜式割竹形 縦長271㌢
境内中庭に五世紀の石棺が置かれています。


当寺西方に築造された平塚古墳から幕末に出土したもので、発見当初は蓋(亀の甲羅形)や副葬品があったらしい。


一時、付近の薮の傍ら(本堂の後)に移す。近隣の農民が石棺を砥石の代わりにして鎌を研いだために、表面が窪んでいる。


蓋は割って各自持ち帰ったといわれといし。(刀鍛冶が刀を研いだのではないかとも言われている)その後、不退寺の境内へ石棺を移転したという。


昭和43年国道24号線バイパス工事事前発掘調査により、奈良時代の遺構の下から古墳を検出する。小字名をとって平塚古墳と名付けられた。
当古墳はJR関西線と国道24号線になり跡形もない。



百人一首で知られる在原業平の歌碑


 ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
  からくれなゐに 水くくるとは
           在原業平朝臣
歌意味
 神代の昔でさえも聞いたことがない。
 竜田川が(紅葉を散り流して)
 紅色に水をしぼり染めにしているなどとは



『伊勢物語』で知られる在原業平の歌碑


於ほ可たは 津きをもめて新 古礼曽こ能
   徒裳れは 人のお伊登奈る毛乃


               在原業平朝臣         
おほかたは 月をもめでじ これぞこの
積もれば 人の老いとなるもの



 私はたいていの人が言うように
 月の美しさを誉めたくない。
 (平安時代、世間の人は月を愛でなかった)
 それはこの月が積もり重なって
 人は年をとってしまうからである。


最後迄お読み頂きありがとうございます。

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