ほんわか人生の旅

全国各地の観光 古典文学 映画観賞 健康

京都府  神童寺  法隆寺より古い建築 愛のキューピット

記事内容が壊れたため、一部記事修正をしました。
2021年9月20日リライト再公開します。


神童寺
京都府木津川市山城町神童子不晴谷112   ☎0774-86-2161
山号:北吉野山
宗派:真言宗智山派
創建:飛鳥時代  595年
開基:聖徳太子
本尊:蔵王権現像 


拝観料:宝物殿500円  9:00~16:00 珍しい仏像を見たい方にはおすすめ
駐車場:山門前に駐車軽四1台  現在は公民館前に駐車することができます。


神童寺公民館☎0774-86-2800
 
このお寺は観光ではありません。境内は自由ですが、本堂、収蔵庫の拝観は電話してから出かけてください。


大型バスは腰折れ地蔵の前に駐車。徒歩約10分 


少し下ったところに道路の幅がかなり広いところがあるので(2車線+大きな側道)
そこの脇に停めていくといけるかもしれません。


この前の道は古来の伊賀街道。 南へ蛇行する木津川沿いではなく、桜峠を越えて恭仁京があった瓶原へと抜ける峠越えの道となります。
家並みは古く旧街道の雰囲気が残ります。
訪れる人はあまりないようです。
屋根瓦には菊の紋章があります。


寺伝によれば、推古天皇4年(596)聖徳太子の創建といいます。また天武天皇4年(676)役小角(えんのおずね)が来山して修行中、童子と化した子守(こもり)・勝手(かって)・金(こん)精(せい)の三神とともに一体の蔵王権現の像をつくり、本尊として安置したとのが起こりと伝え、寺号もこれに因んで神童寺と名づけたといわれます。


神童寺はその後、衰退期を迎えたが、興福寺の僧願安によって復興し、山岳修験の道場として、北の鷲峰山から尾根伝いに行場が開かれ、不動明王が祀られた。


園城寺の黄不動、高野山の赤不動、青蓮院の青不動と並び称される、平安時代の白不動明王立像がそれで、他に密教由来の仏像を多く安置されています。


改称、泰澄、行基、良弁など多くの僧が修行したところです。


山門
興福寺の一乗院からの移築で、山門に鯱(しゃちではないかも)があるのは珍しい。


本堂(蔵王堂)(重文)
室町時代の建立(応永十三年 1406年再建)。蔵王権現像を本尊としているので、蔵王堂ともいいます。


十三重石塔 (鎌倉時代後期、花崗岩)
十三重石塔は、本堂に向かって左手奥に立っている


地蔵石仏(室町時代後期、花崗岩)
本堂に向かって左手横から鐘楼へと登る道の途中、覆屋内に安置されています。


此処を上がっていきます。



収蔵庫 
室内は写真撮影できません
収蔵庫の前には護摩壇がありました。
護摩壇の四角い場所は住職がお座りになられます。
室町時代の作だそうです。


昭和43年(1968)に竣工した四柱造り、鉄筋コンクリート製の建物で、阿弥陀如来坐像[重文・平安]を中心として多くの重文の仏像を安置する。他に伎楽面[重文・鎌倉]、版本「大般若経」約六百帖、紙本著色「神童寺伽藍図」一幅等、多くの寺宝があります。
小さなお寺ですが収蔵物が多いのです。

収蔵庫前にあります
四角いところは住職が座りゴマを焚く場所です。


鐘楼
収蔵庫に対面しています。


「神童寺縁起」と役行者
「神童寺縁起」の役行者にまつわる内容のあらましは、次のとおりです。「推古天皇四年(五九六)に聖徳太子が開創し、千手観音を本尊として、大観世音教寺と号した。のち白鳳四年(六七六)に役行者が来山し、石南花の大樹のもとで修行していたところ、吉野の子守・勝手・金精(こんじょう)の三神が童子となって現れ、この木で霊像を彫刻することを勧めた。


これに従って役行者が蔵王権現像を彫刻したが、その時に天八百日尊(あめのやおひのみこと)と天三下尊(あめのみさがりのみこと)と称する神童二人が助力したので、たちまち霊像が完成した。聖徳太子創建時の本尊千手観音を祀る本堂とはべつに、蔵王堂を建立して蔵王権現像を安置されています。


役行者に助力した二神童は伽藍擁護の神として寺の側の天神社に祭り、また霊像を刻むことを勧めた子守・勝手・金精などの吉野の神を寺の鎮守として勧請し祭った。


そしてこれを機に、寺号を神童教護国寺(じんどうきょうごこくじ)と改め、これ以後は大和の吉野山と南北相対しているので、北吉野山と号されました。


治承四年(1180)に源平合戦の兵火によって焼失したが、建久元年(1190)に源頼朝が復興した」


本堂
蔵王権現
3メートル近くあります。
縁起では役行者が祈り出したということになっていますが、役行者が活躍した七世紀には、蔵王権現という尊像そのものはまだ存在していませんでした。この尊像は神仏習合思想のもと平安時代中期(十世紀ごろ)の成立と考えられ、その成立とあわせて金峯山で、蔵王権現は役行者が祈って出現させたものであるという考えが生まれました。


縁起の本尊にまつわる記述は、金剛山において成立したこの伝承に基づいたものです。神童寺で蔵王権現が本尊とされた時期は、縁起の基本が成立したと考えられる鎌倉時代初期のことと推定されます。現在の本尊像は、現在の本堂(重文)が再建された十五世紀初めごろ頃に再興されたものと思われますが、類例の中でも大きく立派な像です


役行者(スーパーマン?)
七世紀後半ごろに実在した人物です。平安時代初期に成立した仏教説話集「日本霊異記」に収められた役行者の伝えによると、大和国葛木)上郡茅原村(かみのこおりちはらむら、現在の奈良県御所市茅原)の出身で、葛城山で修行し、不思議な術を身につけたといいます。その力の一つとして、鬼神を駆使して、葛城山から吉野金峯に橋を架けようとしたという話があります。


この計画が朝廷に知られ、「謀反」の疑いによって捕らえられ、伊豆島(伊豆大島か)に流されました(流罪になったことは、奈良時代の正史である「続日本紀」にも記載されています)。


役行者は伊豆に流された時も、海の上を走ったり、鳳凰のように飛び立ったり、昼は命令に従って島に居るものの夜は富士山へ行って修行したなどという超人的な能力をもっていた人物であることが描かれています。このように役行者は、山中での修行によって、道教の仙人のような力や、神秘的な呪術を身につけた超人として、後世にまで伝承されていきます。


のち平安時代以後に、山岳修行を重んじる真言宗・天台宗の発展と、古来の山岳信仰が相まって修験道が成立発展すると、役行者は山伏にとって理想の修行者、修験道の開祖として崇められるようになります。


修験道の行場などとして活気を帯びていた各地の霊山でも役行者が登ったなどという伝説がつくられていきました。神童寺の縁起もその一例といえます。


また神童寺には、もと開山堂に祀られていた役行者と、その従者である前鬼・後鬼の三体の像があり、開山堂跡に建てられた収蔵庫入口正面に、今も大切に祀られています。役行者像は、行者の自刻、脇侍の前鬼・後鬼像は醍醐寺を開いたことで著名な理源大師(りげんだいし)聖宝が彫刻したものと縁起では伝えていますが、本尊像と同じく室町時代前期のものとみられます。


役行者像が木の洞の中での修行中の様子を表していることは他の類例と比べても珍しく、また三像とも彫刻技術的にも大変優れていることや、特に前鬼・後鬼像の大きさなどから、現存する全国の役行者像の中でも注目される存在として知られています。


不動明王像
この不動明王像は、怒りの形相の中にも不思議な雰囲気をたたえた像として、神童寺を訪れる参拝者の間でも人気が高く、よく知られています。
この像は、寄木造りで像高162センチ、平安時代後期の十一世紀の造立とみられており、大正二年に旧国宝に指定され、昭和25年に文化財保護法の施行にともない、重要文化財に指定されています。


神童寺の不動明王像は、右手に剣、左手に索を持つという姿で、頭も巻き毛ですが弁髪は垂らさず、両目はともに見開いており、ロは上歯で下唇をかみ、上半身は裸で下半身の裳は両ひざ頭を見せて身につけるという、他ではあまり見られない表情です。


延暦寺別院として園城寺をおこして天台宗寺門派の祖となった智証大師円珍が、承和五年(八三八)の二十五歳のときに座禅中に現れた不動明王のお姿といわれ、これを描いたのが園城寺(大津市三井寺)の「黄不動」画像で、特異な姿の霊験あらたかな不動さんとして有名です。


神童寺縁起には、この不動明王像は智証大師円珍が中国の唐から帰朝の際に霊験のあった波切白不動であると伝えられていて、根本の園城寺黄不動画像をはじめ、この像はみな黄金に輝く姿で表されているのに対し、神童寺の像は縁起に伝えるように肉身部が白く彩色されています。
背景は板光背で、室生寺金堂の諸像をはじめ平安時代に造立された大和地方の仏像に多く採用された形式のもので、この点からも古代の山城町が奈良文化圏に属していたことがわかります。また、この光背の裏面には毘沙門天が描かれております。この様に光背に像が刻まれているのも珍しいです。


神童寺の国指定文化財
愛染明王坐像 

愛キユーピッド(6本の腕のうちの2本で、天に向かって弓矢を射る格好をしていています。
愛染明王は、人間の愛欲に伴う煩悩を悟りに至らせるという「煩悩即菩提」の功徳を象徴し、さらには息災延命、福徳を与える仏です。


平安時代初期に弘法大師空海が、体系化された密教を唐から日本へ伝えましたが、密教の尊像である愛染明王も、不動明王などの他の明王とともに平安時代になってから伝えられ、以後広く信仰を集めました。


 神童寺の愛染明王坐像は像高64.5cmの寄木造で、像は長い年月を経ており、 多くの人に拝まれてきたために古色を呈していますが、当初は赤を中心に華麗な彩色が施されていました。円形の光背や、束が宝瓶(蓮華を仏前に供えるなどに使用する仏器)の形式になっている愛染明王独特の台座も、ほぼ当初のものが残っています。


腕が六本という複雑な姿はバランスよくまとめられ、怒りをあらわした忿怒の面相でありながら穏やかな表情であり、身にまとう衣も起伏が少なく、像全体に繊細な印象が強いという、平安時代後期造立の仏像の特徴を示しており、12世紀の当時の都の仏師によって造られたものと考えられています。 


愛染明王像は普通六本の腕を持ち、そのうち2本の腕で弓と矢を持っておりますが、神童寺の像は天に向かって矢を射る姿をしており、「天弓愛染」と呼ばれています。愛染明王と西洋のキユーピッドはともに愛をつかさどるとされますが、神童寺の像はキユーピッドと同じように矢を射る姿です。


木造毘沙門天立像
四方を守護する四天王のうち、北方の守護神である多聞天は、単独で信仰されるときには毘沙門天と呼ばれます。 毘沙門天は、元々が守護神であるため、身に鎧をつけ、手に武器と宝塔を持ち、邪鬼や岩の台座に立って忿怒の形相で表されるのが一般的ですが、神童寺の像は腰を右にひねり、右足に重心をおいて左足をやや前に出す程度で、下半身を大きく造る、動きの少ない安定した姿に造型されています。面相も、怒りを表すとはいっても、内に怒りを秘めるといった気品があり、整った美しい表情となっています。 また、毘沙門天は七福神の一として、福徳を授ける神としても信仰されています。神童寺の毘沙門天像も、守護神・武神であるとともに、福の神としての性格もあわせた信仰のもとに造立され、優雅な表現がとられたものと考えられます。


阿弥陀如来像
像高137cmで、いわゆる半丈六とよばれる大きさです。
像は表面に漆箔(漆の下地の上に金箔をおしてある)を施した寄木造の像で、典型的な「定朝様(じょうちょうよう)」とよばれる形式です。定朝様とは、平安時代後期に仏師・定朝が造りだした仏像の様式のことで、当時の王朝貴族らの好みに受け入れられました。また、定朝は寄木造の大成者としても知られています。


寄木造りは、大きな木を必要とせず小さな気を加工して後から組み合わせるのです。いわばプラモデルです。


定朝から後の時代は寄木造の原則に基づいて、よく似た様式の仏像が大量生産されることになります。それほど大きな材木がなくても大きな仏像が造れるようになり、分業で仏像が造れるようになったためです。この時代から「仏所」とよばれる職業仏師集団が社会的に確立しました。


三十三間堂の千手観音も同様にばらばらに作られ組み立てられています。


この像は長らく京都国立博物館に寄託されていましたが、昭和60年に戻られ、神童寺で拝観できるようになりました。



木造日光・月光菩薩立像 一木造と寄木造
日光菩薩像は、像高162.4cm、右手を下に垂らして掌を前に向け、左腕はひじで曲げて何かを持つ形をとっています。一木造で、両腕を体に密着させてほぼ直立する姿に表し、もとになった木の霊性を重んじたのか、できるだけ一つの木から全身を彫り出そうとしていることがわかります。


結い上げた髪にはボリュームがあり、しかもその形は他の菩薩像にはない特有のものがあります。顔立ちは顎が張った下ぶくれに造られています。造立された当時は、美しい彩色が施されていたとおもわれます。


衣の花文様の彩色にその面影をとどめています。一木造が全盛で、彫りが深く神秘的な趣の仏像がたくさん造られた平安時代初めの様式をとどめながら、衣の彫りは穏やかになっていて11世紀に完成された和様の要素も認められるといった、平安時代の前期と後期に代表される様式の過渡期にあたるものといえ、10世紀の造立と考えられています。


一方の月光菩薩像は、像高171.5cmで、日光菩薩像と同じく右手を垂れ、左腕を曲げる形をとりますが、腕を体には密着させず自然な姿に表わされています。構造や表現も、日光菩薩像とは異なり、寄木造で、顔立ちは優しく、結い上げた髪もきれいな円すい形につくられています。軽く腰をひねり、衣の線も浅く整えられ、衣の裾から足首を出して、全体に優美で軽快な趣をもっています。


この月光菩薩像は、寄木造の技法と、優美で穏やかな様式が11世紀に定朝によって完成されて以降の様式を示しています。京都太秦の広隆寺には、定朝の弟子、長勢が、康平7年(1064)に作った日光・月光菩薩像があり、神童寺の月光菩薩像は、これとよく似ていますので、ほぼ同時期の11世紀の造立と考えられています。


日光・月光菩薩は、薬師如来のもつ徳の両面を表す菩薩です。従って、像として寺院のお堂に安置される場合も薬師如来の両脇に脇立として安置されます。その時には日光菩薩と月光菩薩の両像は、腕の形や腰のひねりなど、対称の姿に作られるのが普通です。ところが、現在の神童寺には日光・月光菩薩の中尊となる薬師像はなく、腕の形が同じに作られていること、造立された時代も異なることなどから、本来は日光・月光菩薩という一 対の像として作られたのではなく、聖観音か何か他の独尊で祀られるための菩薩像として造立されたものとみられます。

×

非ログインユーザーとして返信する