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石川県古刹 白山信仰 那谷寺

那谷寺 なたてら
住所: 石川県小松市那谷町ユ122  
創建:養老元年717年
開基:泰澄


電話:0761-65-2111(代表)


駐車場:無料 大きいので十分余裕はあります 無料
JR加賀温泉駅から加賀周遊バス キャン・バス山まわり → 7 那谷寺バス停から0m
JR加賀温泉駅から約8.1km
北陸自動車道 片山津ICから約12.5km
北陸自動車道 加賀ICから約14.1km


「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で1つ星の認定を受けた那谷寺
恋人の聖地「粟津温泉」からも近くここを訪れこのあと永平寺など行くのもいいでしょう。


特別拝観施設は冬期積雪時休みです。
境内拝観等所要時間は1時間位
友人の家が金沢役近くにある関係もあり数度訪れています。
また、勤務先からの日帰りバス旅行にも行きました。


この地は弥生時代より管玉の材料である碧玉(へきぎょく)の産地でした。財部(たからべ)一族が住んでいて、洞窟は祭祀場でありました。1300年の歴史を遡れば、養老元年(717年)に泰澄が那谷寺を創建したと伝えられています


泰澄
白鳳3年(682年)6月、越前(福井)に誕生。36歳の時に天女に誘われて養老元年(717年)白山へ禅定しました。九頭龍王が現れ、頂上では姫神の菩薩、他の二山では大己貴神と白山別山大行事が現れ、深く礼拝されました。
 泰澄開創の社寺は多くありますが、同年秋に岩屋寺(那谷寺)を開き、弟子とともに粟津温泉を養老2年(718年)に発見し、薬師如来をお祀りしました。
天平2年(730年)に吉野山現光寺で法相宗の山林修行「求聞持法(ぐもんじほう)」と「自然智行」を実践しました。神護景雲元年(767年)越知山大谷寺の岩窟86歳で遷化しました。


花山法王  
この人は西国三十三か所の宝印を頂き三十三か所のお寺を指定した人でも知られています。
寛和2年(986年)、右大臣藤原兼家の謀事によって出家させられ、書写山円教寺(三十三か所・)ラストサムライのロケ地)や比叡山で修行、熊野へも巡拝、永祚(えいそ)元年(989年)北陸へ旅立たれました。同行する者は3名の従臣だけでした。まず白山へ登られ、次いで小松地域の寺を訪ねられ、最後に岩屋寺(那谷寺)を参詣されました。花山法皇は(西国三十三所の)那智山と谷汲山からそれぞれ一文字ずつ「那」と「谷」を取り、那谷寺と改名されたと伝えられています。


那谷寺は温谷寺(うだにでら)・栄谷寺(さかえだにでら)とともに、天台宗白山三ヶ寺と言われました。
後に「源平盛衰記」「白山記」などでは、那谷寺の寺院名があります。


源平盛衰記  (いろいろな解説本があり、出所がわからないことも多い)
鎌倉時代の軍記物語。平家物語の数多い異本の一つ。第48巻
いくつかの五本を引用しているようで矛盾もかなりあるらしいが、私にはあまり気にならない。しかし源氏関係の記事 、押話しなども含まれています。『平家物語』が「語り物」であるのに対して,これは読み物風であることも移植ではないかと思われる。


大内義孝
那谷の地はオパール、瑪瑙、水晶などが産出しており、那谷寺の観音堂には12個の瑪瑙を有していました。これを周防国(山口県)の大内義隆が所望したため、真宗本願寺の証如が那谷寺へ依頼、5個の瑪瑙を送り、遣明船で明国へと献上しました。
南北朝と戦国時代に那谷寺は3度も焼かれましたが、僧義円や霊山寺即伝などが訪れ、密教修験の道場となっています。密教修験と真宗は対立関係にありましたが、那谷寺は証如と結びついていたようです。


遣明船とは
15世紀から 16世紀中頃にかけてみろ待ち時代中国(明)と正式の通称貿易を行った
貿易船である。道貿易を防ぐため、勘合割符を用い勘合貿易ともいわれます。
始めは将軍足利義満により明国音の進貢船の形式をとっていました。
目的は貿易であり、施設のほかに商人が乗り組み
運営も幕府以外の諸大名や寺社など実力のあるものの方が多くなっていきました。
使用していた船は1000石積み程度であったが、より多くの利益を求め15世紀後半以後
は1500~2000石まで大型化しました。遣唐使船との違いは民間船を利用改装し戸船であること。季節風を利用し安全迅速な公開を行い、造船、公開の両面から技術の発達をしたのである。


前田利家
戦国・安土桃山時代に那谷寺は火災に遭ったため、衰退していました。その中で、寛永17年(1640年)春、黄門職として小松城に隠居していた前田利常公が粟津付近にお鷹狩りに来て、那谷寺を見つけました。寛永19年(1642年)にかけて集中して、本殿、唐門、拝殿、三重塔、護摩堂、鐘楼堂および庭園などを造りました。また、復興の折に那谷に通じる参道も整備、両側に杉の木を植えたことから「杉の木街道」と称されました。今も粟津温泉に利常公お手植えの杉「黄門杉」が残されています。
 万治元年(1658年)10月、利常公が66歳で逝去。利常公没後、那谷寺は大聖寺藩の管轄となり、また同藩寺社方触頭となったため、那谷寺文書に「宗門改帳」「人別帳」「御触留記」が残されています。


それでは境内のご案内


三門(山門)
「自生山」の額が掲げられた山門の扉には、向かって右側に口を開けた阿形、左側に口を閉じた吽形の仁王像がそれぞれ彫られ、邪気を祓っています。昭和51年松久宗琳師の作で、力強さの中に親しみやすさも感じられます。心清らかに山門を通り、いよいよ大自然を取り入れた寺域に潜入。

参道
山門をくぐり抜けると、数百年を経た杉椿の樹林に囲まれ、江戸期に寄進された石灯篭が並ぶ静謐な参道が真っすぐに伸びています。その空気はまさに幽邃にして森厳。なお、杉並木は小松から那谷寺にいたる「御幸街道杉」の一部で、寛永年間に加賀藩三代藩主前田利常公が植樹したものです。

江戸時代の石灯篭

中門


金堂 華王殿 
「いわや胎内くぐり」を巡れば、新たな自分に、魂が清く生まれ変わるとされています。
十一面千手観世音菩薩をお祀りする金堂は、平成2年(1990年)の再建で鎌倉時代の和様建築様式、総桧造りです。南北朝の戦火で消失以来、650年ぶりに再建です。京佛師・松久宗琳師作の十一面千手観音は木曽檜の寄せ木つくりで7.8m、金堂の中で厳かに鎮座されています。ほかに白山曼荼羅、泰澄神融禅師、花山法皇像を安置し、壁面は郷土出身の作家による神仏融合の白山信仰を表す作品。

十一面千手観音
京佛師・松久宗琳師作、木曽檜の寄せ木つくりで7.8m、金堂の中で厳かに鎮座されています。ほかに白山曼荼羅、泰澄神融禅師、花山法皇像を安置し、壁面は郷土出身の作家による神仏融合の白山信仰を表す作品で飾られています。

書院
書院は、室町時代末期に起こった天正の戦乱で、諸堂伽藍が焼失したのち仮御堂として建てられたもので、寛永14年(1637年)に前田利常が書院として再建、自ら指揮を執ったと言われています。武家書院造りで一間ごとに柱が入り、特に玄関は珍しく土天井であるなど、他の書院造りでは見られない特徴が随所で見られます。御成間(おなりのま)、琴の間、4畳、8畳の2室、10畳の鞘の間、床棚などからなり、一重で屋根は入母屋造(元は柿葺)でした。昭和28年(1953年)に国指定重要文化財に指定されました。
(※特別拝観)


如是庵
書院から見える庭園は、茶道遠州流の祖である多芸多能の天才茶人・小堀遠州の指導を受け、加賀藩の作庭奉行・分部卜斉に造らせたものです。園中に歩石を布置し、所々に石を建て、椎の老樹、杉の巨木が配されています。いずれも苔に覆われた古色ゆかしい庭です。石川県で最も古い庭園で、昭和4年(1929年)4月2日に文部省名勝指定園になりました。
庭園の隅にある茶室『如是庵』は、前田利常のために千家4代の仙叟が建てたものです。隠居後の利常はこの茶室をご愛用されました。小間の茶室で草庵風を基にしていますが、貴人口のみでにじり口が無く、大きく円窓や連子窓を取り、点前座客座の隅にも戸口を設けるなど異彩を放っています。


(※特別拝観)


阿弥陀三尊
書院奥にひろがる庭園「琉美園」の池中央にそば立つ自然の岩面は3つに別れ三尊石と呼ばれています。岩面の裂けた姿が阿弥陀三尊のご来迎に似ていることから名付けられました。江戸時代には滝が流れ落ちていたこともあり、現在も多くの雨が降ると滝が流れるさまを目にすることが出来るようです。琉美園には小川が流れ、水芭蕉、しゃくなげ、あじさい、つつじが綺麗な彩りをみせてくれます。その一角には茶室があります。







まるで山水画のような奇岩遊仙境
そそり立つ奇岩霊石に、いくつもの窟が開口して観音浄土浮陀落山を思わせます。昔は海底噴火の跡であったと伝えられ、永い年月の間、風と波に洗われて現在の奇岩が形成されました。自然を通してその本源である宇宙を拝みながら、素朴に生きようと望む心の奥深くの自然智を呼び起こす景観で、その奇岩山の中腹に、朱色の鳥居が鮮やかな稲荷社をお祀りし、五穀豊穣と豊かな自然をお祈りしています。


平成26年に「おくのほそ道の風景地」として新たに国名勝に指定されました。
※現在、安全と景観保護のため立入禁止となっております。


なんといっても見所奇岩、遊仙境
自然智を結集した景観


そそり立つ奇岩霊石に、いくつもの窟が開口して観音浄土浮陀落山を思わせます。昔は海底噴火の跡であったと伝えられ、永い年月の間、風と波に洗われて現在の奇岩が形成されました。自然を通してその本源である宇宙を拝みながら、素朴に生きようと望む心の奥深くの自然智を呼び起こす景観で、平成26年に「おくのほそ道の風景地」として新たに国名勝に指定されました。その奇岩山の中腹に、朱色の鳥居が鮮やかな稲荷社をお祀りし、五穀豊穣と豊かな自然をお祈りしています。
※現在、安全と景観保護のため立入禁止となっております


不動明王の霊水
今まで一度も枯れたことがない
古来より涸れることはないそうです。湧き続ける霊水。お手持ちの念珠や指輪などに願いを念じながら霊水をかけると、不動明王の加護を受けられると言われています。清当寺のパワースポットの一つです。

大悲閣 本殿
白山信仰の真髄
一向一揆の兵乱で荒廃しましたが、前田利常公の庇護により寛永19年(1642年)に再建されました。本殿は「大悲閣」と呼ばれ、岩壁に寄って屋根を造らず唐木造、向拝、柿葺となり、四方の欄間に山上善右衛門作の透かし彫りが施されています。昭和16年(1941年)に国宝指定を受け、昭和24年(1949年)に解体修理、昭和25年(1950年)に重要文化財に新指定されました。大悲閣拝殿・唐門・本殿の3つの重要文化財建造物を総称して本殿と呼んでいます。中には本尊の十一面千手観世音菩薩を安置する「いわや胎内くぐり」があります。ウマレキヨマル場所をご体感ください。


三重塔
寛永19年(1642年)、徳川家綱の生誕祝に前田利常が建立したものと伝えられています。三層とも扇垂木の手法で各層ごとに組み立てられており、扉に浮き掘りされた唐獅子と牡丹と相まって美麗です。内には胎蔵界大日如来を安置しています。昔の修験者は大日如来をまつりました。元は那谷寺根本堂の本尊でしたが南北朝の戦乱で建物が焼かれた際、白山宗徒の手により火中から運び出されました。昭和16年(1941年)に国宝指定を受け、昭和25年(1950年)に重要文化財に新指定され、昭和30年(1955年)に解体修理しました。
三重塔の初重の中央間が極端に広く造られている点が特徴です。徹底した禅宗様の塔です。高さは、11.5メートルと大きい三重塔ではありませんが、塔の各所に至るまで木彫りの模様が施されています。
扉が開ていたので内部撮影しました。


楓月橋 楓月橋」を渡り展望台
奇岩遊仙境を眼下に展望台へとつながる高台の橋から見る眺望は、当寺屈指の景勝をお楽しみいただけます。寛永時代に前田利常公が計画し、現代になってようやく実現したものです。那谷寺が織り成す四季折々の美しさや歴史を感じながらゆっくりとご散策ください。


鎮守堂
ここから眺める景色も最高
コンクリート造りで残念
展望台からの奇岩遊仙境の眺めは素晴らしいです。ここは季節を問わず「境内では最も美しいとこだそうです。展望台の上にある鎮守堂では、秀麗な白山の神様であられる白山妙理大権現をお祀りしています。

護摩堂
寛永年間に建てられ、昭和16年(1941年)に国宝指定を受け、同年に解体修理、昭和25年(1950年)に重要文化財に新指定されました。禅宗様を基調にしながら、和様の手法を折衷させた自由奔放な設計です。内部は豪華に金の箔押しを施し、壁面には沈思や柔和、雅戯などの八相唐獅子、四面には干支の動物と牡丹を彫刻し、内陣には平安時代作の不動明王をお祀りしています。


鐘楼
寛永年間に建てられ、昭和16年(1941年)に国宝指定を受け、昭和25年(1950年)に重要文化財に新指定され、昭和28年(1953年)に解体修理しました。入母屋造、檜皮葺の純粋な和様建築で袴腰の上部まで石造となっているのは、全国でもその例がないものとされています。内部に吊るされている鐘は、朝鮮招来のものと伝えられています。




松尾芭蕉の句碑
元禄2年(1689年)、俳聖・松尾芭蕉が参詣し、「奇石さまざまに古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造り、かけて殊勝の地なり。」と「奥の細道」で那谷寺を表現しました。句碑は天保14年(1843年)芭蕉150回忌に建立したものです。「石山の石より白し秋の風」




参考資料
那谷寺ホームページ

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