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京都 世界遺産  西本願寺 と 興正寺

2021年10月3日記事修正しリライトしました。
唐門は是非見てください
無料です。


西本願寺  世界遺産
住所:京都市下京区堀川通り花屋町下ル60
山号:熊谷山
宗派:浄土真宗  一向宗
創建:大谷本願寺 元亨元年(1321年)
    西本願寺 天正19年(1591年)
本尊:阿弥陀如来
電話:(075)371-5181(代)
駐車場:あります
徒歩で15分位
交通股間
(JR「京都駅」徒歩15分 又は 市バス「西本願寺前」下車すぐ)
市内にも関わらず意外と静かな場所で、鳩が遊ぶ広々とした境内は市民の憩いの場ともなっています。

西本願寺総門  国重要文化財
同寺によると、古文書や絵図から総門は宗祖・親鸞聖人四百五十回忌に合わせた境内の改修事業の一環として、宝永8年(1711年)に建立されたと見られるという。門は「高麗門」と呼ばれる形式で、門扉の上に大きな屋根、左右の控柱(脇柱)の上に小さな屋根を設けている。


高麗門という形式自体は豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役ごろに城郭建築で用いられ始め、江戸時代になって神社仏閣の出入り口を仕切る門としても造られるようになったとされる。

天正19年(1591年)豊臣秀吉より寺地の寄進を受け、大坂天満から現在の堀川六条に
移転してきた。廟堂は江戸時代の初期に東山五条坂西大谷に移り現在は大谷本廟となっている。(清水寺の隣)


しかし、本願寺を信長は10年かけてもこの宗徒を落とすことが出来なかった。
当時の浄土真宗は一向宗とも呼ばれ大変大きい勢力でした。
越後から西は一向宗が一大勢力を持ち、僧兵もいたりして、家康も手を焼いたほどです。


このことを教訓とし、本願寺を分離したのである。なお、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して分裂しました。これは寺の力を分立させるのが目的であった。本格的に分裂したのは江戸時代初期だと伝わっています。戦国時代は本願寺の僧兵、信者の集まりとの戦がたえず、各武将は苦慮していた。


そこで信長は比叡山、本願寺(大坂)の寺を焼きうちにし中で生活していた僧侶、信者を何万ともいう人々を殺戮したのです。
分裂の経緯から、東は徳川、西は豊臣に親近感が存在します。京都の本山境内の位置は両氏本拠地の位置の東西関係にも沿っている。


阿弥陀堂門


門をくぐってすぐにある大イチョウは「水吹き銀杏」と呼ばれ 禁門の変の時にはこのイチョウが水を吹き出し兵火からお堂を守ったと伝わります。


樹齢400年だそうです。天明18年(1788年),元治元年(1864年)の火災でも
生き残ったとされる。樹高はあまりありませんが横に大きく伸びた珍しい形となっています。

御影堂門 ごえいどうもん 
堀川通に面して建つ
店舗2年(1645年)西本願寺の中では最も大きな四脚門
入母屋造り二層本瓦葺き、総檜造りです。間口11m、棟高14mもあります。
ここには大きな釣り灯篭がかかっています。金色で立派です。


御影堂(国宝)
内陣中央に親鸞の木造が安置されている。両脇に本願寺歴代門主の影像を安置する
 1636年(寛永13年)の再建で国宝。
外陣には441枚の畳が敷かれ、1200名以上が一度に参拝できるという
227本ものの柱で115000枚の瓦を支えているそうだ。
東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル 


木材の補強や修復するために施されるのが「埋め木」。
御影堂や阿弥陀堂の縁側や廊下にも「埋め木」が施されているが、動物や植物、とっくりなどをかたどったもので、単なる補強ではなく大工の遊び心がつまっている。 


ひょうたん・打ち出の小槌・亀・魚・木の葉など廊下や縁側をじっくり見て歩くと面白い。他の寺はひし形など幾何学模様であるがどことなく殺風景



阿弥陀堂 国宝
本堂
内陣中央に阿弥陀如来像が安置されていることから阿弥陀堂といいます。
1760年(宝暦10年)の再建。
左右に中国・インド・日本念仏の祖師聖徳太子の影像が安置されています。
 外陣には285枚の畳が敷かれ、800名以上が一度に参拝できるという。
東西42メートル・南北45メートル・高さ25メートル

渡り廊下

阿弥陀堂向かって右と御影堂向かって左は渡り廊下で繋がれています。



経蔵 (輪転蔵)重要文化財
桁行一間、梁間一間、一重もこし付、宝形造、本瓦葺、八角輪蔵付
巨大な輪蔵を有する経蔵は延宝5年(1677)の建築で
天海僧正の一切経6323巻が所蔵されているそうです。


寛永12(1635)年、江戸の寛永寺で発起し、12ヵ年をかけて完成。
天海版または寛永版とも称される。


・傅大士と二童子像
・転輪蔵の回転式書架
・内壁 伊万里焼の腰瓦
ここも、春に特別公開があるので、内部を見ることが出来ます。


手水舎


灯篭
猫足灯篭です
青銅製の立派な灯篭がありましたが、説明文もなく 時代など不明


石灯篭


大玄関


書院は白書院と、黒書院がある 対面所も備わっている
元和元年(1617年)の火災のより消失し寛永7年(1630年)再建


太鼓楼
太鼓楼は、阿弥陀堂や御影堂が立つ場所から、境内を通って直接行くことはできません。
一度、門の外に出て、境内外側から見ることが出来ます。


当初は境内南東隅にあったが火災により寛政元年(1789年)の東北門に建てられた
法要の時刻になると打ち鳴らした太鼓が今も内部に置かれています。
幕末には新撰組の屯所になり当時の刀傷も残っているようです。


御成門 (重用文化財)
太鼓楼の近くにあります。
江戸時代後期の建築、本瓦、切妻造り
(写真はありません)


北能舞台(国宝)
桃山時代
舞台 桁行一間、梁間一間、一重、正面入母屋造、背面切妻造
脇座 庇造、葺きおろし、檜皮葺、後座、桁行一間、梁間一間、片流、こけら葺
橋掛 桁行三間、梁間一間、一重、両…


白書院の北側前庭に、上段の間に相対するように設けられた能舞台。白書院が見所となる。舞台、橋掛の構造意匠が簡素であること、屋根が比較的小さいこと、後座も本舞台と同じ様に床板が縦に張られていること、橋掛の舞台となす角度が急なことなどが特徴で、これらは江戸時代に入って様式が固定される前の自由な古式を伝えるものです。
5,000円で、国宝 書院の中から重文の南能舞台での「能」の奉納が見ることが出来ますが西本願寺のホームページを見ないと時期はわかりません。
写真はありません。



飛雲閣
(※庭園内は通常非公開であり特別公開時も撮影は禁止されている)
しかしネット上では多くの写真が公開されています。


飛雲閣は、境内東南隅にある滴翠園の池に建つ三層柿葺きの楼閣建築である。
  初層は入母屋造りに唐破風と千鳥破風を左右に、二層は寄棟造りに三方には 小さな唐破風を配し、三層は寄棟造りと変化に富んだ屋根になっています。


一層は主室の招賢殿(しょうけんでん)内部に一段高いところがあり高貴な人が座ったのでしょうね。
八景の間、舟入の間(実際に池から船で入ることが出来ます。)
さらに後に増築された茶室・憶昔(いくじゃく)からなります。二層は襖に三十六歌仙が描かれた歌仙の間、三層は摘星楼(てきせいろう)と呼ばれる庭園と一体となった構造になっています。


 二層三層と建物は小さくなり、その中心も東に移るという、左右非対称ながら巧みな調和をもつ名建築として知られている。
飛雲閣から西にのびる渡り廊下で結ばれている黄鶴台は、柿葺寄棟造りの床の高い建物です。黄鶴台を降りれば別棟の浴室があり、西南隅に唐破風をもつ蒸風呂と鉄釜などがあります。蒸風呂は、上の窓や板戸の開閉により温度を調節するようになっています。


※(西本願ホームページ参照)
浴室まであるとは知りませんでした。


もともとは本願寺の御亭が発達したものといわれ、一層に舟入の間を設けるなど、庭園と一体となった構造になっている。
空に浮かぶ雲のようだということで、飛雲閣と名づけられたといわれています。


 その建築の詳細は不明であり、寺に遺る江戸初期の文書『紫雲殿由縁記』(寛永15年成立、延亨4年増修)には豊臣秀吉の遺構だと記されていることから聚楽第の遺構との説も広く流布し 、他にもいくつかの説があります。どれも確証はないということである。私は聚楽第の遺構が正解かと思います。


金閣、銀閣とともに京都三名閣と呼ばれ、これに大徳寺塔頭芳春院の呑湖閣(どんこかく)と東福寺開山堂の伝衣閣(でんねかく)を含めて京の五閣とも呼ばれますが
今年(2020年)の5月20日21日落成(修理)があり特別公開され、写真もOKだったようです。残念知りませんでした。
しかし池の水は抜かれていたようです。
ここも特別公開の時5000円支払いでお茶席に入れるようです。


唐門(国宝)
ここが珍しく柵があるだけで自由に見ることが出来るのが素晴らしい。


北小路通りに面して建てられています。
書院への正門です。四脚門、檜皮葺、正面背面は唐破風、側面は入母屋造り「向かい門」極彩色の彫刻、鍍金金具で装飾されている。


別に一日見ていて飽きないため「日暮れ門」とも呼ばれている・

















許由が耳を洗う故事の透かし彫り









普通に自転車が通過。
国宝なのに見学者はいません。


大玄関御門


この寺も歴史に翻弄される
新撰組屯所が出来たのである。
太鼓楼 西本願寺の東北門にあり道路からもよく見ることができます。


池田田事件のあと禁門の変が勃発、幕府は長州討伐に躍起となる。新撰組の人数も格段に増加そこで親長州派であった西本願寺に屯所を移転させたのです。
これは当時西本願寺と長州の勤王志士たちの分断が目的であった。
西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。戦国時代、本願寺は織田信長と長期抗争状態(石山合戦)にあったが、その間毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けていた。そうした縁があり、幕末期にあっても本願寺は長州藩・長州系志士を支援していた。やはり皆殺しの恨みは残っていたのですね。


大所帯となった新選組は西本願寺の北集会所と太鼓楼を屯所とし、僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず武芸の稽古や砲撃訓練などを繰り返した。仏教で忌まれている肉食も境内で大っぴらに行われたという。傍若無人なふるまいを続ける新選組は、寺側にとってはまったく招かれざる客だっただろう。


ついに本願寺は、新選組のために新たな屯所を建設する費用をもつという条件で退去を要請した。こうして新選組は慶応3年(1867年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村に建てられた新たな屯所に移動させられた。



お隣のお寺
興正寺
山号:円屯山
宗派:真宗興正派本山
本尊:阿弥陀如来
創建:建暦2年(1212年)
開基:親鸞 了源
西本願寺とは別の寺院だが、誰でも自由に出入りできる
西本願寺の南隣
明治9年に分派独立した真宗興正派本山。観光客はほとんどいません。


御影堂と阿弥陀堂があります。
寺伝によると、親鸞は赦免された翌年の越後に流罪されていたが建暦2年(1212年)放免され京都に来た。山城の国山科に堂宇を創建「興正寺」と名づけた。


親鸞はその後この寺を弟子の任せ、阿弥陀仏を広めるため関東に旅立つ。順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の着眼を得て、これにより「興正寺」とし真宗念仏宣布の根本法城としたといわれます。。

三門
御影堂の前に位置する二階建ての楼門の彫刻が素晴らしい。


阿弥陀堂は興正寺の本堂、ご本尊の阿弥陀如来の木像を安置しています。大正4年(1915年)再建

御影堂 - 明治45年(1912年)再建

鐘楼 - 安永3年(1774年)建立


宝形造の経蔵の佇まいがいいですね、唐破風の屋根が趣があります
経蔵 - 嘉永元年(1848年)建立


左手奥に西本願寺の飛雲閣が見えます




トイレのおくに飛雲閣



最後迄読んでいただきありがとうございます。

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