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京都    酬恩庵(一休寺)

酬恩庵(一休寺)
住所:京都府京田辺市薪里ノ内102
宗派:臨済宗大徳寺派
本尊:釈迦如来
電話:0774-62-0193
駐車場:あり
公共交通機関
近鉄新田辺駅から一休寺バス停
2010.7.17


一休寺バス停からはとんち道路もあります。車でない方は漫画一休さんを思い出しながら散歩するのもいいですね。


酬恩庵は1455年にとんちで有名な一休さんが再興したお寺で、紅葉がきれいなお寺です。




この寺の一番の見所は、方丈です。建物の内部や枯山水の石庭がグット、とても素晴らしいです。
室町時代の禅僧・一休宗純(いっきゅう そうじゅん)が晩年を過ごしたお寺。“一休さん”といえば、テレビアニメでおなじみで、今も親しみあるキャラクターでしたね。あのメロディーが懐かしい方も多いかと思います。


一休さんは天皇の息子です
室町時代の禅僧、一休禅師。名は宗純、幼名は千菊丸(せんぎくまる)。父親は南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母親は藤原一族の日野中納言の娘、伊予の局(いよのつぼね)。つまり、一休禅師は後小松天皇の息子ということで、天皇の血筋を受け継いでいることから、お墓も宮内庁が管理しています。


「一休」という名の由来
「一休」というのは“号”であり、僧侶や学者、文人などが本名とは別に付ける呼び名のことです。この「一休」という号は、宗純が詠んだ、ひとつの歌に由来しています。
謙翁和尚を失った一休は、自殺を図った翌年、滋賀の堅田にある祥瑞庵の門を叩き、高僧・華叟宗曇(かそう そうどん)に師事しました。


宗純が24歳になった時のことです。瞽女(ごぜ:盲目の女芸人)が語る「平家物語」を聞いて無常観を感じた一休は、その時の気持ちを歌に詠みました。
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
★人生は煩悩溢れるこの世から、来世までのごくわずかの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうがたいしたことではない。


この歌を聞いた華叟禅師は、歌の中にある“一休み”という言葉を宗純に授け、「一休」が宗純の号となったのです。「一休」と聞くと、漫画やアニメの影響からか小坊主姿の「一休さん」を思い浮かべてしまいますが、「一休」という呼び名が付けられたのは、宗純が立派な大人になってからなので、アニメの「一休さん」というのは違いますね。


庶民に教えを説いた一休
その後も一休は禅の道を邁進し、その姿勢から華叟は一休を後継者と定めたのですが、そして悟りの証明である“印可(いんか)を授けようとしましたが、権威を嫌う一休はこれを受け取りませんでした。禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべきと考えた一休は、地位も名誉も必要とせず、服装などにも気に掛けなかったのです。そのために周囲からは奇異な目で見られることも度々で、大徳寺7世の追悼法要の時にも、ボロ布をまとっただけの姿で参列し、人々を驚かせました。この頃から一休は“奇人”だと言われるようになりました。
34歳になった一休は、師である華叟禅師が亡くなったことをきっかけに、1人でも多くの人に仏教の教理を分かりやすく説くために、近畿一円を転々と説法行脚して回りました。真の仏教とは何かを追求し、庶民に教えを説きながら、各地を旅した一休。次第に庶民の間で一休の人気は高まり、ついには生き仏とまで称せられるようになったのです。


親交が深かった人物
康正2年(1456)一休が62歳の頃、尊敬する臨済宗の高僧・大応国師(だいおうこくし)が創建した妙勝寺が兵火に焼かれ荒廃してしまっていたところ、一休は恩返しのためにと修復を行い、ご恩に報いるとの意を込めて新たに酬恩庵として再興しました。以降、この酬恩庵が一休の活動の拠点となり、多くの宗教家や文化人が一休を慕って訪れたそうです。その中でも特に親交が深かった人物が、浄土真宗の中興の祖である蓮如(れんにょ)上人です。
蓮如上人は一休よりも19歳も年下であったが、その年の差や宗派を超えて、互いの思想に敬意を払っていました。当時は宗派が違えば排斥しあう世であった。一休はこんな歌を詠んでいます。
「分け登る ふもとの道は多いけど 同じ高嶺の月をこそ見れ」
★真理の山に向かう道はそれぞれ違うが、同じ行き先を私たちは見ているんだな


一休が愛した女性
応仁元年(1467)京都の町を焼き尽くした「応仁の乱」が起こりました。一休は戦火から逃れ、大坂 おおざか(現・大阪)に避難していましたが、その大坂で一休は、ひとりの女性に出会います。その女性とは、鼓を打つ盲目の美しい旅芸人・森侍者(しんじしゃ)。この時、一休は76歳で、森侍者の年の頃は20代後半。年齢に50歳ほどの開きがありましたが、一休は彼女に惚れ込んでしまいました。その時の気持ちを詩集『狂雲集』に残しています。
★「その美しいえくぼの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちきれんばかり…、楊貴妃かくあらん」


一休の気持ちは彼女に伝わり、2人はまだ戦火が収まらない京都に戻り、一休がこの世を去るまでの間、酬恩庵で同棲生活を送ったのです。
〇なにか、加藤茶さんみたいですね、同棲ではありませんが。


大徳寺 第47代住職に任命された一休
一休が81歳の時、応仁の乱によって荒廃した大徳寺の復興のために、第47代の住職に就きました。長年、権力を嫌っていた一休ですが、天皇の勅命であったため断ることができなかったのです。野僧だった一休が何故、住職に任命されたかと言うと、それは民衆に絶大な人気のある一休の名を利用して、大徳寺再建の為の資金を集めようとする朝廷の策略だったのです。



朝廷の思惑どおり、一休の人気の元に武士や商人、茶人や庶民からも膨大な資金が集まり、5年後に大徳寺の法堂が再建されたのです。朝廷の策を最初から見抜いていた一休は、住職というのは肩書きだけで、実際には一度も大徳寺に住むことはなく、愛する彼女とともに粗末な小屋で生活を続けたそうです。
しかし、大徳寺にはでかけていったようです。


文明13年(1481)大燈国師の命日に、マラリアに罹った一休はこの世を去りますが、その時「一休の禅は、一休にしか分からない。朦々淡々(もうもうたんたん)として60年、末期の糞を晒して梵天に捧ぐ」という辞世の句を残しました。何とも強烈な辞世の句です。
そして、臨終の言葉は「死にとうない」だったとか。また、「自分の禅をわかる奴は天下におらん」とか。
生涯を通じて鋭く社会を批判し、名声利欲にとらわれず、庶民の中に分け入り、禅の民衆教化に尽くした一休。禅僧でありながら、女性を愛し、肉を喰らい、酒を呑み、頭も剃らず、権威に反発し、弱者に寄り添い、民衆とともに、笑い、泣き、生きた一休は、なんとも人間味溢れる男だったのです。

本堂扁額

本堂
本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されています。
本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物であります。1429年から1441年の永享年間に室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立されました。



開山堂
この開山堂は大正時代に改築をされたものだが様式は完全に昔のものを残している。
堂内部には妙勝寺を創建した大応国師(南浦紹明)の木像が安置されている。
これは一休禅師が荒廃をした妙勝寺を再建し63歳の時につくられたものである。


虎丘庵
虎丘庵はもと、京都東山の麓に在ったものを一休禅師74歳の時、応仁の乱のためこちらに移築したものである。
扁額「虎丘」の字は禅師によるものである。茶室造りの静寂穏雅な建物で屋根は檜皮葺である。


周囲庭園は禅院枯山水のもので東部は七五三配石による特殊なもので
大徳寺山内真珠庵の七五三庭園と同一手法によるものである。作者は茶道の祖といわれる村田珠光と伝えられている。
残念ですが本日は拝観できませんでした。


唐門
慶安3年(1650)方丈再建の時に新築

方丈
江戸時代慶安3年(1650)に加賀三代目藩主前田利常公の寄進により再建された。前田利常公は元和元年(1615)大阪夏の陣で大阪に向かう途中、当寺に参詣した。一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き酬恩庵再興に乗り出した。


東司
慶安3年(1650)方丈再建の時に新築


浴室

鐘楼  1650年



一休禅師木像
方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してあります。
この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。
(パンフレットより)

襖絵
襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるものである。ショウショウ八景、林和靖、陶淵明が描かれている。
今現在あるのは複製画であり本物は寺の宝物殿に収蔵している。



方丈庭園

南庭園
宗純王廟と虎丘を背景としてこれら建物の北部斜面を利用してサツキの刈込があり西部に大きい蘇鉄が植えられている。白砂が敷き詰められており江戸時代の禅苑庭園である




北庭園
北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園である。東北隅に約2メートルの巨石を配しいわゆる観音石として用いている。北庭は、石塔や石灯籠、手水鉢などを配し、石組で枯れ滝を表現した、禅院枯山水の蓬莱庭園です。
禅院枯山水の蓬莱庭園
蓬莱山の滝から水が流れ落ち海へ流れるさまを、水を使わないで石組みで表現した禅宗寺院独特の庭のことです。


これに他の集団石組をもって枯滝落水の様子を表現している。この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされています。

東庭園
東庭は大小の石が立ちまた横になる様を十六羅漢になぞらえたとされる。
十六羅漢の遊行
羅漢とはお釈迦様の弟子のことです。お釈迦様からこの世の中の命あるすべてのものを救うように告げられた16人の羅漢が遊んでいる様子をあらわしているのです。


一休さんが大徳寺に行くとき乗ったこし



三本杉
元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の緑を湛えていたが
寿命となり今は昭和40年に植えられた2代目である。
写真が見当たりません。


少年時代の一休さん像
少年時代の一休さん。手に箒をもち掃除をしている。
現在の世の中の汚れもこの箒で一掃して明るい世の中にしたいとの願いがこめられている。

このはしわたるな


菊の透かし彫りからの眺め


一休禅師墓所
一休は文明13年(1481年)88歳で酬恩庵で死去しました。
寿塔が建立された。この寿塔は、一休の敬慕する宋の慈明禅師と楊岐禅師の名を取って「慈揚塔」と名付けられた。今日の建物は「法華堂」と改称されている。今は陵墓(宗純王廟)として管理しているため、門内への一般の立ち入り、参拝は不可能である。門の扉にある菊花紋章の透かし彫から中を拝観することはできます。内部には、村田珠光作の室町時代の古風を表す禅院式枯山水式庭園と小堂があり、小堂内部に墓石があるそうです。

苔むした石仏群




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