ほんわか人生の旅

全国各地の観光 古典文学 映画観賞 健康

和歌山県    根来寺  根来忍者

根来寺
住所:和歌山県岩出市根来2286
山号 一乗山 (いちじょうざん)
開基 覚鑁上人 (かくばんしょうにん)
開創 長承元年 (1132年)
本尊 大日如来坐像
電話:0736-62-1144
駐車場:あり



三文字に分かれ根来山と書かれた大門扁額。


大門。五間三戸、重層楼門、切妻造、本瓦葺。
三文字に分かれ根来山と書かれた大門扁額。
根來一山の総門、嘉永三年 (1850年)再建。


初層左右に仁王像、上層に釈迦三尊と十六羅漢像が安置。高さ16.88m、横幅17.63m、奥行6m
この三尊の組み合わせは非常に珍しく、高野山の大伝法院にすでにあったことが知られ、教義解釈による組み合わせではないかと思われています。
三尊は、造像後7~800年間経過しているが。三尊とも金箔、金泥がこれほどキレイに残っている例は他には見られない、また修復もしていないので当時のお姿のままです。

大伝法堂 (本堂)。桁裄7間、梁間7間、入母屋造、、半瓦葺、三間向拝背付、下層屋根は裳階。
真言宗の修法を伝える道場、僧侶の修行道場。現在のお堂は享和元年(1801)に再建。
本尊は中央に大日如来坐像、脇仏は金剛薩埵 (こんごうさった)、尊勝仏頂 (そんしょう 


根本大塔 (国宝)
我国最大の木造多宝塔。塔高40m、方5間、本瓦葺。明応5年(1496)建立。
 豊臣秀吉の紀州征伐の焼打ちから残ったものですが、その頃の戦乱の弾痕がはっきり残っているそうです、が見当たりませんでした。

大塔の内部。初層外見は方形ですが、初層内部には円形の内陣が造られ周囲は回れます


大師堂 (重文)。方3間、宝形造、本瓦葺。明徳二年(1391年)に建立。
 このお堂も豊臣秀吉の紀州征伐の焼打ちから残ったお堂。

内部の花天井です。須弥壇に近い6×6格子は繰上格天井になっています。

根来寺は高野山の興教大師・覚鑁(かくばん)が1140年ごろ開基したと伝えられている。新義真言宗三大道場のひとつとして著名です。
紀州という地は昔から反権力の向こう意気が強く、戦国時代になってもこの地を治める大名はあらわれませんでした。伊賀や甲賀と同じく紀州各地の土豪たちが「惣(そう)」をつくって、対立しつつも領地を守っていました。




鐘楼門
竜宮門式重層の鐘楼門です。勿論上層には梵鐘が吊られています。
 白袴の角張りにドッシリ感倍増、それにしても以外に大きいです。

晴天池


聖天堂は聖天池に浮かぶお堂です。享保二十一年 (1736年) 建立。

熊野三所権現(くまのさんしょごんげん) ●白山妙理権現 (はくさんみうりごんげん) ●牛頭天王八王子 (ごずてんのうはちおうじ)

行者堂内部


光明殿


奥の院


ここで根来忍者、有名ですね。伊賀・甲賀と並ぶ忍者
根来(ねごろ)忍者とは紀州根来(和歌山県那賀郡岩出町)にある根来寺の僧兵のことです。
紀州という地は昔から反権力の向こう意気が強く、戦国時代になってもこの地を治める大名はあらわれませんでした。伊賀や甲賀と同じく紀州各地の土豪たちが「惣(そう)」をつくって、対立しつつも領地を守っていました。


比叡山などの大寺院が僧兵という武装勢力をかかえていたように、根来寺もまた多くの僧兵を抱えていました。当時の大名は、この僧兵を利用し、利用できなくなると、焼き討ち
皆殺し、比叡山は聖地に女(売春)もいたのです。これは浅井の兵をかくまったことから
女子供全て殺戮。しかも、実際に行ったのは明智光秀で、のち悔い改め西教寺の復興をしたのです。
僧兵とは法師武者ともいって、中世から近世にかけて有力な寺社が自衛武装した集団で源義経に従った武蔵坊弁慶もこの僧兵です。

×

非ログインユーザーとして返信する