ほんわか人生の旅

全国各地の観光 古典文学 映画観賞 健康

京都  等持院(とうじいん)   南北朝の歴史が物語る

2021年10月27日記事修正しリライトしました、
等持院(とうじいん)
住所:京都市北区等持院北町63
山号:萬年山
宗派:臨済宗天龍寺派
創建:1341年(暦応2年)
開基:足利尊氏
本尊:釈迦牟尼仏
京福電車等持院駅下車 徒歩約10分
駐車場:マイクロバス: 無料 自家用車10台分: 無料
門の内側に駐車場があります。門を通り左手に入る
2012.10.6 拝観


総門  この門を通り抜ける

この門の前に駐車場があります。

臨済宗天龍寺派の禅寺。
暦応4年(1341年)足利尊氏が「等持寺」の別院として夢窓国師を開山として創建しました。本寺となった等持寺とは、二条大路高倉の東南にあった尊氏の屋敷をいいます。


屋敷は二つの役割をもち、一つは室町幕府の政庁の役割、もう一つは禅宗寺院としての役割であった。その為、屋敷は尊氏の住居として「二条高倉邸」といわれていました。禅宗寺院としては「等持寺」といわれました。


創建にあたり、尊氏は足利家の菩提寺を三ヶ寺建てようと決意し、「等持寺」の名には一字に一個ずつ、この字を分解すると、あわせて三個の「寺」の字が含まれることがわかります。それが尊氏の三ヶ寺建立の願いの表れだといわれています。足利家の三菩提寺、その第一号が「等持寺」で続いて衣笠の地に「別院 等持院」と、隣あって真如寺が建てられたました。


尊氏の死後、別院等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で本寺「等持寺」が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺となった。 


まず山門から庫裏に入ると、大きな達磨図の衝立が目に入る。これは天龍寺にもあるものと同じものだそうです。元天龍寺派管長であり等寺院の住職でもあった関牧翁が描いたものです。

庭園
方丈と書院の前に広がる庭園は、夢窓国師の作庭と伝えられている。庭園は回遊式で、茶室「清漣亭(せいれんてい)」と芙蓉池(ふようち)を持つ西庭と、心字池(しんじち)中心の東庭とに分けられている。特に西庭は、衣笠山を借景につつじを始めとする四季の草花が芙蓉池の周りに彩を添え味わい深い趣になっています。


方丈北庭園の中程には尊氏の墓と伝えられる宝篋印塔がある。

方丈
現方丈は元和2年(1616年)に福島正則が妙心寺海福院から移設したもので、襖絵は狩野興以の作とされる。



庭園
夢窓疎石作と伝えられるが、様式的には江戸時代中頃の作と言われている。方丈の北の庭には池をはさんだ対岸に茶室清漣亭があります。


庭園は本来、衣笠山を借景としていたが、今は残念ながら、立命館大学衣笠の校舎により眺めを遮られたため、現在では樹木を高く伸ばして校舎を隠し景観を保っています。

茶室清漣亭

茶室入り口の手水鉢 司馬温公型と呼ばれる。
司馬温公型とは縁がデコボコとした石に穴をあけたもの。

茶室の天井は網代のようであった。

真ん中が茶釜を入れる所 畳をあげると囲炉裏となる。



霊光殿 一番の身ぢころと私は思います。この様な木像を作成することがとても素晴らしい。
方丈の西側に建つ。本尊の地蔵菩薩像の他、足利歴代の将軍、徳川家康の木像がある。


家康像は、家康が42歳の時に厄落としのためにわざわざ作らせ、石清水八幡宮・宝蔵坊から移されたものです。

霊光殿に安置されている足利歴代将軍木像は、以下のとおりです。歴代数は等持院独自のもので一般的な歴代数とは異なります。また足利義量(一般的には第5代将軍)、足利義栄(同、第14代将軍)の木像はありません。 


向かって左壇(本尊に近い側から) 

初代将軍:足利尊氏(等持院)54歳没
第2代将軍:足利義詮(寶篋院)38歳没
第3代将軍:足利義満(鹿苑院)51歳没
第4代将軍:足利義持(勝定院)43歳没
第5代代将軍:足利義量   19歳没   墓所不明
   1年 11か月の在位
この後4年 1か月は将軍がいません。
第6代将軍:足利義教(普広院)48歳没
第7代将軍:足利義勝(慶雲院)10歳没 
  義勝は、赤痢のため僅か10歳で没した幼い将軍だったため、木像の表情も、子供らし   さが強調されています。


この後4年 9か月は将軍はいません


第8代将軍:足利義政(慈照院)55歳没
   この後1年 5か月は将軍はいません


向かって右壇(本尊に近い側から)
徳川家康(東照大権現)
この家康像は、家康が42歳(男性の大厄とされる歳)の時に厄落としのために作らせたもので、徳川家光が石清水八幡宮の豊蔵坊に寄進して、天下泰平国土豊穣を祈念させたと伝わっている。明治になると神仏分離により豊蔵坊が廃止され、豊蔵坊から等持院に寄進されたようです。


第9代将軍:足利義尚(常徳院)25歳没
この後1年 3か月は将軍はいません


第11代将軍(通説では第10代):足利義稙(恵林院)58歳没
この後1年 5か月将軍はいません


第12代将軍(通説では第11代):足利義澄(法住院)32歳没
第13代将軍(通説では第12代):足利義晴(萬松院)40歳没
この後2年 9か月将軍はいません


第14代将軍(通説では第13代):足利義輝(光源院)30歳没
第14第将軍:足利義栄(西光寺)29歳没
第15代将軍:足利義昭(霊陽院)61歳没
信長が将軍にしたのですが、義昭は信長に対し敵対し信長を力もないのに排斥しようとし、信長の怒りを受け追放。
元亀4年(1573年)の織田信長による京都追放の時点をもって幕府機構の解体(滅亡)と見なされているが、名目上は天正16年(1588年)に豊臣秀吉への忠誠を誓うまで征夷大将軍に在職していたとみられます(公卿補任による)。


また、足利歴代将軍ではないが、吉良氏・今川氏をはじめとする足利氏一族を高家として江戸幕府に取り立てた他、足利尊氏の三男である室町幕府初代鎌倉公方・足利基氏の子孫に下野国・喜連川藩5000石を与え、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名(喜連川家)に取り立てるなど、足利将軍の家系を重んじているのがわかる。 


幕末の文久3年2月22日(1863年4月9日)、足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首が鴨川の河原にさらされる事件が発生(足利三代木像梟首事件)した。


事件そのものは、単純な理由で、ある日、平田派国学の門人が、等持院に「逆賊足利尊氏」の木像をみにいったところ、拝観料として銭200文を要求され、「醜像を観るのに賽銭を払わせるとはどういうことか」と憤慨する。そこで、その腹いせに、同士らは共謀して、足利三代の木像を盗み出し、首を斬り目をくりぬいて、位牌とともに三条河原に晒してしまった。そして、梟首した木像の側には、斬奸状が掲げられた。斬奸状はこう結ばれていた。



「今の世に至り、此の奸賊に猶ほ超過し候者有り。其の党許多にして、其の罪悪、足利等の右に出づ。もしそれらの輩、旧悪を悔い、忠節を抽んでて、鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を補佐し奉りて、古昔を償ふ処置なくんば、満天下の有志、追いおい大挙して罪科を糾すべき者なり。」


ちょうど将軍家茂が上洛する直前のこの事件。以後、会津藩は壬生浪士組、のちの新選組をお預かりとし、厳しく対処していくことになる。
これは将軍(幕府)への批判ととらえられ、京都守護職の松平容保(会津藩主)は厳重な捜査を命じ、同年8月に犯人は処刑されている。 


余談であるが
幕末の時代、攘夷志士たちは水戸学に影響されていたため、この足利三代木像梟首事件も、南朝こそが正統で後醍醐天皇を裏切った足利尊氏は逆賊、という考え方が根底にあったと思われる。


ただ、当時の孝明天皇は北朝の血統。当然のことながら宮中でも北朝を正統とする公家が大半であった。尊氏を逆賊として非難するというのは北朝の否定、ひいては当時の天皇をおろそかにすることにつながりかねないわけですね。


このあたり、尊攘派の人々は面白くない、「いまの帝は北朝、本当は正統ではない南朝こそ正当な御門であるべき本当と考えたのでしょう。


明治以後、この「南北朝正閏論」は大いに議論の対象になる。南朝が正統で、北朝は「閏」、つまり偽物ではないけど正統ではない、という考え方です。それにしても「閏」とはまた、うまい表現をしたものです。


後醍醐天皇を廃して持明院統の光厳天皇を即位させ、その「閏」をつくったのは、「其の罪悪の実に容すべからざる」北条高時であった。
息子の北条時行は、後醍醐天皇から朝敵恩赦を受けて正統である南朝に属して、逆賊の足利と戦っているから、すでに北条氏は尊攘派からうらまれる覚えがないのである。戦乱の世はコロコロ時世に応じ、臨機応変であった。
南北朝の争いがいつまでも怨念として残っていたのです。

×

非ログインユーザーとして返信する