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京都 妙光寺 勤王派の一挙点 風神雷神屏風

2021年10月27日記事修正しリライトしました。

妙光寺  建仁寺の風神雷神屏風の元寺
住所:京都府京都市右京区宇多野上ノ谷町20
山号:正覚山(しょうかくざん)臨済宗建仁寺派
本尊:釈迦如来
創建:弘安8年(1285年)開山:心地覚心
開基:花山院師継
京都十刹八位
電話:075-463-0780
観光寺ではないので予約が必要。
電話予約していってください。 特別公開もあるのでその時は電話は不要
拝観料:寸志 私たちは1000円をお礼として。
2012.10.6拝観
2日前に予約 10時頃
住職より、抹茶と和菓子の接待がありました。



唐門


方丈枯山水庭園


方丈庭園から唐門を見る
唐門は、かぎ型となっている・

唐門内部


境内は5000坪と広大。中庭には高杉晋作(桂小五郎)が隠れたと伝わる井戸がありました。

この座っている椅子が非常に珍しいとのこと。
ロシアあたりの王様の椅子ではないかと住職の説明。なるほど背もたれには王冠のような文様がありました。

この池には昔から、エイアオカエルがいるとのこと


寺の一部は二階建てになっている。外部からはわからない、この二階部分が隠し部屋だったらしい。

京焼色絵陶器の大家・野々村仁清のものと伝えられる墓がある。


開山の心地覚心は宋から味噌や醤油の技法を日本に伝えた人物といわれている。
本山・ 建仁寺が所有する「風神雷神図屏風」は、元々京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼し、完成。
その後、妙光寺は荒廃し本山の建仁寺により再興された。そのお礼に建仁寺に寄贈されたと、住職の説明がありました。建仁寺にある風神雷神図屏風は京都博物館に寄託され模写が展示されています。またこの寺にも同様に模写図が展示されていました。
荒廃した寺は、江戸時代からの庫裏と方丈(客殿)が残っていたため建仁寺より住職が派遣され、平成16年(2004年)、枯山水の方丈(本堂)庭園が再興された。平成23年(2011年)には画家の井上文太により、下間の間の襖絵「干潮図」が完成した(平成23年(2011年)10月16日〜11月6日一般公開)。春には小鳥の囀りが聞こえる中、春爛漫を感じる桜の満開が見られ、また秋には少ないが何本かの見事な紅葉が見られるなど、以前の寺格にふさわしい姿を取り戻すため尽力されているそうです。


幕末の変革期に木戸孝允ら勤王派の一挙点となっていたことから、ほとんどすべての塔頭が新撰組の焼き討ちを受け焼失してしまう。幕末の住職が明治に入り暗殺されたことがさらに衰退に拍車をかけ無住となることが続いたため廃寺寸前となった。またさらには明治政府方針の上地令により寺域の大規模な縮小を余儀なくされた。 


裏庭に穴がありそこから山上に抜け穴があったらしい。
また、本堂裏の通路の上にも隠し部屋があった。と寺の住職の説明。


その後、本堂は明治期に静岡県の鉄舟寺へ売却され(現在も本堂として健在)、山門は本山建仁寺の塔頭である建仁寺護国院(現・開山塔)に移築された。
山麓に位置する当寺は、度重なる風水害により名のみ残る荒寺となってしまう。


室町時代、嘉吉年間(足利義教の時代)にも三種の神器は妙光寺に奉安されていたこのため本堂には「神器の間」があります。



寺の裏手にある洞窟、途中で二手に分かれ一つは山の中腹に出ることが出来ると、住職の説明がありました。もう一つは崩れていて不明。


今は廃墟となった印金堂
中国渡来の印金裂を張り巡らせたという壮麗な建物でした。
昭和初期に倒壊したとのことです。


寺の墓に向かうところの参道、上にはっ村上天皇の陵があるとのこと

開山の心地覚心禅師 (法燈国師)の墓


寺の再建に尽力した豪商・打陀公軌一族の墓
上部の宝珠は盗難に遭ったとのこと。

鎖で通行止めとなっていたので天皇陵まではいかなかった。

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