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金剛院 (三島由紀夫の小説「金閣寺」の舞台。)

西国三十三カ所観音巡礼の旅から分離し、新しく記事を追加しました。


金剛院
住所:京都府舞鶴市鹿原595
山号:鹿原山
宗派:真言宗東寺派
本尊:波切不動明王
創建:天長6年(829年)
開基:高岳親王
関西花の寺(紅葉)第三番霊場


三島由紀夫の小説「金閣寺」の舞台。


高岳親王によって天長6年(892年)に開かれ、白河天皇が中興したと伝えられる。境内にある三重の塔は重要文化財。


宝物殿には平安時代の「阿弥陀如来座像」「増長天立像」や鎌倉時代の仏師快慶作「深沙大将立像」「執金剛神立像」など多数の重要文化財などが展示されている。関西花の寺第3番札所。「丹後のもみじ寺」ともよばれ、例年11月には数千本のもみじが紅葉する。
 
高岳親王は大同4年(809年)に嵯峨天皇の皇太子にたてられたが、翌大同5年(810年)薬子の変が起こり皇太子を廃されてしまう。


弘仁13年(822年)四品の位を受け名誉回復するも返上し出家、真如と名乗った。
(皇族で最初に出家した親王らしい。)
その後空海の元で修行し、空海の十大弟子となった。
承和2年(835年)空海入定の際も重きをなしている。
貞観4年(862年)真如は唐へ渡り(長安に着いたのは貞観6年(864年)) 密教の教えを受けるが
満足できず、天竺行きを決意。
貞観7年( 865年)、海路天竺を目指したがその後は消息不明となり、羅越国にて亡くなったと伝えられている。


真如入唐後寺は荒廃したらしいが、永保2年(1081年)白河法皇により再興。
本尊も当初は阿弥陀如来であったがその際不動明王が勧請された。
久安2年(1146年)には藤原得子(美福門院)が再再興している。


戦国時代になると丹後国は細川氏の所領となり、細川幽斎もまた金剛院に帰依し、
鶴亀の庭とともに楓を植樹している。

 


三重塔

  鐘楼

  本堂

 本堂の入り口  菊の紋章があった。




高さ22m、幹周5.3m。


宝物殿
以下は当寺の所蔵仏像の説明です。
深沙大将(じんじゃだいしょう)立像  重用文化財
(鎌倉時代 快慶作)〈寄木造・彩色 像高84㎝〉


鎌倉時代の有名な仏師快慶の代表作とも言われる仏像です。
この像の左足の内側に「巧匠アン(梵字)阿弥陀」の墨書銘があり、快慶が法橋の称号を受けた1203年より前の初期の作品であることがわかる。


 深沙大将(じんじゃだいしょう)は、多聞天の化身ともいわれますが、西遊記の話の元となった唐の玄奘(げんじょう)三蔵法師が仏典を求めて天竺(インド)への旅の途中、砂漠で危険な目にあった時にその危険から救ってくれたという仏教の守護神です。


 その姿は、左手で青蛇をつかみ(この像は欠失)、右手の掌を前にして構え、腰布(獣皮)だけを身に着けた上半身裸の憤怒の表情をした力士形の像で、砂漠を乗り越える獣の象徴とされる象の口から足を出しています。


腹部に子供の顔を現す仏像もありますが、この像にはありません。
また三蔵法師は何度もこの深沙大将に食われたとされ、そして何度も生まれ変わったといわれています。このため、この深沙大将の首から胸の前には前世の法師の髑髏(どくろ)を飾りとしてつけていたといわれますが、この像は欠損したようで現存していません、


この像は、髪を逆立て、その顔はすさまじいばかりの忿怒の表情をしており、また全体に動きのある構図でありながら、筋骨たくましい体やしっかりした腰の力強さなど、写実的な迫力に満ちており、仏師快慶の初期の造像姿勢が表現されている傑作といえる。


深沙大将の造像例は比較的少なく、全国でも9例ほどとも言われています。金剛院のほか、重要文化財に指定されているのは、高野山の霊宝館、福井県小浜市の明通寺、岐阜県揖斐郡の横蔵寺の像が挙げられますが、その他に三重県鈴鹿市の神宮寺や東京都の深大寺などの像など数件があります。


執金剛神(しゅこんごうしん)立像【重文】(鎌倉時代 快慶作)〈寄木造・彩色 像高86㎝〉


鎌倉時代の有名な仏師快慶の代表作と言われています。
執金剛神(しゅこんごうしん)像と深沙大将像は宝物館に入って右手にガラスケースの中に安置されています。


制作年代も「巧匠アン(梵字)阿弥陀」の墨書銘があるため、深沙大将像と同じく快慶初期の作品です。この2つの像は良く似ており、一対として製作されたものと考えられます。


執金剛神(しゅこんごうしん)は「金剛杵(こんごうしょ)を執(と)るもの」の意味で、手にはとても強く固い法具である「金剛杵」を持ってお釈迦様を守護する神です。その起源はギリシア神話のヘラクレスであるとも言われており、後にこの執金剛神が、この像が後に、阿吽の左右2つの「仁王(金剛力士)像」として表現されるようになったと考えられています。


しかし、仁王像は筋肉隆々の力士像ですが、執金剛神単独で表現される時は、甲冑(かっちゅう、よろいかぶと)をつけた武装した形で表現されます。
執金剛神像も深沙大将像と同じく日本での作例は少なく、東大寺法華堂(三月堂)の秘仏が有名です。


この金剛院の執金剛神像はこの国宝の法華堂(三月堂)像とよく似ており、快慶が法華堂の像を学んでつくったものと推測されています。


東大寺法華堂
法華堂の像が等身大の塑造であるのに対し、こちらの金剛院の像はそれよりも小さな寄木造りです。


阿弥陀如来坐像 重用文化財(平安時代後期)〈寄木造 像高:約170cm〉
増長天・多聞天立像 重用文化財(平安時代後期)〈寄木造 像高:約160cm〉
金剛力士像 2躯 重用文化財(鎌倉時代)〈寄木造 像高:約180cm〉


金剛院以外にある像は、この金剛院にも近い「松尾寺」に安置されている「阿弥陀如来坐像」と京丹後市にある「如意寺」の「地蔵菩薩坐像」の2体


                      以上 見仏入門から
                      仏像に興味のある方は是非ご覧ください

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