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四国八十八ケ所車で遍路の記録 /第36番青龍寺・第37番岩本寺

2020年1月に公開した記事ですがリトライ記事に必要な文書等を追加、その他の部分も修正(写真追加)して、2021年6月14日に再公開しました。
 
第1番札所から450.8㎞


 朝5時に起きる。洗面をして6時に食事に食堂へ。今日は雨が止んでいた。
6時10分出発、海側をかなり走る。青龍寺は横浪半島の先端にあり、半島をつなぐ宇佐大橋を渡って入った。お寺は漁師町宇佐町にあり、しかもご本尊が波切不動明王ときている。
これはさぞかし漁師の信者が多いことだろう。
6時50分到着、まだ参拝客はそれほどいない。


第36番青龍寺(しょうりゅうじ)
住所: 高知県土佐市宇佐町竜163番地
山号:独鈷山(とっこうざん)
院名:伊舎那院(いしゃないん)
宗派:真言宗豊山派
創建:伝:弘仁6年(815)
開基:伝:空海(弘法大師)
御本尊:波切不動明王
駐車場:普通車20台
交通機関
高知自動車道・伊野ICから国道33号、県道39号を土佐市宇佐町方面へ。約50分。
JR土讃線伊野駅から約25km


真言:のうまくさんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん
御詠歌:わずかなる泉に棲める青龍は 仏法守護の誓いとぞ聞く


駐車場からすぐ鐘楼門がありますがこの鐘は衝くことはできませんでした。
続いてまだ参道

苔むした参道を行くと山門がありす。

仁王さん

山門を潜ってさらに170段の長い石段があります。

そして階段が続くと本堂の屋根が見えてきます

ここで動明王像と水行場。ここで滝修業がされます。

石段の途中に大きな手水場、ここは青色の龍が水をはいています・

急な石段を登ると(長安の青龍寺を模した)伽藍が広がっている
石段の途中左手に少し小ぶりですが、三重塔があります。(国指定の重要文化財)

弁財天

薬師堂


本堂

本堂右手から
本堂に安置された波切不動明王は、弘法大師が帰国の途中、嵐にあって難破しそうになったとき、不動明王が現れ、手にした宝剣で荒波を切り開いて難を救いました。


弘法大師はその姿を刻んだそうです。
嵯峨天皇(在位809~823年)に奉上して勅許を得て、弘法大師が刻んだ本尊・波切不動明王は海上安全にご利益があるといい、漁師たちの信仰を集めています。



三重塔
朱色の立派な塔
内部は見ることはできません

大師堂

西国三十三カ所

本堂
正面右手は不動明王がいます
正面左手は不動明王


本堂内部
波切不動明王
恵果和尚と弘法大師の肖像画が並んで掲げられ、また寄木造の愛染明王像も安置されています

本堂 左手から

白山大権現

恵果堂(多宝塔)



こぼれ話

第68代横綱・朝青龍(あさしょうりゅう)のしこ名の由来はこの青龍寺からです。
モンゴルから相撲留学していた明徳義塾高校はすぐそばにあります。
朝青龍も学生時代トレーニングに使ったという真っ直ぐな石段を登りつめると本堂
朝青龍は、このお寺の傍にある明徳義塾(全寮制)相撲部で、170段の石段を
登ったり降りたりで修行を行ったとのこと。


延暦22年(803年)に唐(中国)に渡った弘法大師は長安の青龍寺で恵果阿闍梨(けいかあじゃり)和尚から密教の奥義を授けられました。
その恩に報いるために寺の建立を願い、唐から東方(日本)に向かって独鈷杵(どっこしょ、密教の法具)を投げたたそうです。
日本に帰った弘法大師は四国巡錫中にこの地で、松の木にとまっていた独鈷杵を発見しました。
山号の独鈷山はここに由来しています。
寺号の青龍寺も恵果和尚が住した唐の青龍寺に倣ったといいます。


青龍寺は、広い寺領と諸坊を備えた大寺院であったが、江戸時代初期に一時荒廃しましたが、その後、土佐二代藩主山内忠義が正保年間(1644~1648年)に再興しました



次の第37番札所・岩本寺まで約59km


第1番札所から470.4㎞
第37番岩本寺(いわもとじ)


住所:高知県高岡郡四万十町茂串町3-13番地
山号:藤井山(ふじいざん)
院名:五智院(ごちいん)
宗派:真言宗智山派
創建:伝:天平年間(729~749)
開基:伝:行基、聖武天皇(勅願)
御本尊:不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来
薬師如来、地蔵菩薩
☎:0880-22-0376
駐車場:有料、普通15台、大型4台
交通機関
JR土讃線窪川駅から約500m
知自動車道・須崎東ICから国道56号を四万十市方面へ。JR窪川駅そば。約1時間10分。


真言:不動明王: のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん
たら たかんまん
観世音菩薩:おん あろりきゃ そわか
阿弥陀如来:おん あみりた ていぜい からうん
薬師如来: おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
地蔵菩薩: おん かかかびさんまえい そわか
御詠歌:六つのちり 五つの柱 あらわして 深き仁井田の 神のたのしみ


石門
参道を進むと

山門
山門山号扁額『藤井山』


木造の円堂(聖天堂)本尊は大聖歓喜自在天)
歓喜天(聖天)
木造でありながら円形の珍しいお堂。頭が象で身体は人間、財宝と博愛の神様といわれている

大師堂

本堂
本堂は、昭和53年(1978年)建てられたもので、本堂内陣の格天井のはめ絵は、寺院の装飾としては希有のものです。
高知県を中心に全国から公募した現代の絵画が575枚が天井いっぱいにはめこまれ並べられています。
仏画、人物画、風景画、花の絵、動物の絵など色とりどりの絵があります。
この世のものすべてに仏性が宿るという仏教の教えによるもの言われています。


四国霊場では唯一、五体の本尊が鎮座している。


鎌倉時代紆余に勢力を誇った越智氏の先祖を祀る仁井田五社の別当だった。
聖武天皇の勅願により行基が七難則滅・七福即生を願い七福寺を建立。のち弘法大師が5社5力寺を建立し、それぞれ本地仏を安置、星供秘法を納めて第37番と定めた。この5仏が本尊である。





天平年間(729~749年)、聖武天皇(在位724~749年)の勅願によって行基が仁井田明神の傍らに建てました。
このときは、福圓満寺と呼ばれていました。
後の弘仁年間(810~824年)に弘法大師がこの地を訪れて、星曼荼羅を書写し星供の秘法を修めて、名を藤井山五徳智院福圓満寺と改め仁井田明神の別当寺とし、第37番札所に定めました。
後に火災により廃寺になりましたが、金剛福寺の尊海法親王によって岩本坊として再興されました。


その後、天正年間(1573~1592年)に再び焼失しますが、僧釈長によって再建され、寺号も岩本寺に改められました。
明治4年(1871年)の廃仏毀釈で廃寺になりましたが、明治22年(1891年)に再興されています。



お土産はおちょぼ羊羹


次の第38番札所・金剛福寺まで約100.8km


くろしお展望公園に行く。 38番に向かう途中ここでトイレ休憩
ここはサーフィンをしている者が多数いた。シャワーもあるらしくサーファーのメッカらしい。
足摺岬に向かって車を走らせる。スカイライン(?)を通り足摺岬へ。
ここから38番まで歩くとなると3日くらいかかるだろう。

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