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知多四国八十八ヶ所霊場お遍路の旅 第39番札所医徳院 (神宮寺)

      文字・写真に誤りがありました。訂正しました。


第39番札所医徳院 (神宮寺)
住所:知多郡南知多町大字篠島字照浜27番地
山号:金剛山
宗派:真言宗豊山派 
創建:建暦2年(1212年)
御本尊 薬師如来


御詠歌
生れ来て一度はまいれ篠島の 帝の井戸に医徳かがやく


由緒
鎌倉時代、建暦二年(1212年)南知多大井医王寺の一坊を当地に移し神宮寺として創建される。本尊である「薬師如来像」は室町時代の寛正元年(1460年)、附近の海中に光るものがあり漁師が網を入れると薬師如来像が引き上げられ、当寺内に安置し御本尊とした。寛正二年、薬師堂を建立し、寺名を神宮寺から医徳院と改めた。


現在の本堂江戸時代の永享元年(1744年)、伊勢神宮西方殿の御用材を下賜され改築された物であり、篠島最古の木造建物である。
             境内由緒より


ここ医徳院は、一山十二坊を有していたという「医王寺」の一坊になります。大井の四坊と師崎の遍照寺、篠島の医徳院、日間賀島の大光院の合計七坊が現在でも存在しています。


医徳院に向かう途中にある帝井(みかどい)という史跡があった。


案内板には
延元三年(1338年)、後醍醐天皇の皇子「義良親王(後の後村上天皇)」が東征の時、暴風雨に遭い篠島に漂着し、逗留されたおり飲料水として使用した井泉で岩畳はかつての遺構をそのままにとどめています。祠には御村上天皇を祀っている。


鎌倉幕府を倒し建武の新政を始めた後醍醐天皇でしたが、足利尊氏との対立を深め、南北朝時代に突入してしまいます。有力武将を次々を失っていく後醍醐天皇は日本各地に点在する、反足利の勢力を結集するために自らの皇子を日本全国に派遣します。


「義良親王」も東征を命じられ、奥州で兵力を集め、京都に攻め入る予定だったと言われています。伊勢国から船団を組み海路で欧州を目指している最中、台風に遭遇し、親王の乗る船は篠島に漂着したそうです。


本堂

右が本堂左が金比羅堂


島では井戸を掘っても塩分を含んだ水しか湧き出なかったそうで、雨水を貯めたものを使用していたそうですが、親王にそれを出すのは憚れる為、島中を探したところ、清水が湧き出でる場所が発見されたそうです。そこを掘って井戸としたのがここ「帝井」であり、ここの水を義良親王に献上したんだとか。
後方の赤い社には後村上天皇をお祀りしているそうだ。



本堂は伊勢神宮の古材を利用して建築されたと言われる。


大師堂
本堂向かって右側にあるのが大師堂になります。「善の紐」が大師像から伸びて鐘を経由して宝塔に退いているのがわかります。


金比羅堂 本堂左手
前に弘法大様がいた。
金光殿と書かれた扁額が掲げられていた。

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