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鎌倉 円覚寺  夏目漱石・島崎藤村・三木清などが座禅をした ことで知られています。

鎌倉 円覚寺
住所:神奈川県鎌倉市山ノ内409
北鎌倉の駅前に総門があります
ここは有名な作家 夏目漱石・島崎藤村・三木清などが座禅をしたことで知られています。


明治の文豪・夏目漱石が円覚寺塔頭・帰源院に参禅して代表作の一つ「門」のモチーフとしたことは有名です。


山号:瑞鹿山
宗派:臨済宗
創建:弘安5年(1282年)
開山:無学祖元
開基:北条時宗
鎌倉五山第二位

百鷺池
この参道の両脇が「白鷺池」があります。
白鷺池」の名前の由来は、開山・無学祖元が鎌倉に来た際に、鶴岡八幡宮の八
幡大神が白鷺となってこの池に舞い降りたとの説話によります。
現在の「白鷺池」は、昭和37年(1962年)に整備よるもの。

石橋を渡って、明治21年(1888年)以来境内を横切ることになったJR
横須賀線の踏切を渡れば、総門前の石段下に出ます。

山号「瑞鹿山」と白書された扁額は、数々の天災を免れてきたもので、15世
紀に在位された後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の御宸筆とされています。


開山・無学祖元が円覚寺創建にあたり法話を説いていると、山中から現れた白鹿も聞き入ったとの逸話から、この山号が付けられたのだそうです。

正面の扁額
正面の扁額には「大光明寶殿」とあり、現在の仏殿に掲げられているものは、
永和四年(1378年)の後光厳天皇の御宸筆より作られたものです。


三門(山門)(県指定文化財)
天明3年から5年(1783~1785年)の間に、円覚寺中興開山として知られる第189世住持の大用国師(だいゆうこくし)誠拙周樗 (せいせつしゅうちょ)により再建されたもので、神奈川県の指定重要文化財となっています。


夏目漱石の『門』に描かれたところです。


現在の山門は、天明年間(1781~89年)、第189世誠拙周樗によって再
建されたもの。
山門は「三門」とも呼ばれ、三解脱門の略。


涅槃に至るまでに通過しなければならない三つの関門、空・無相・無願を表す。
「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆と伝えられている。


楼上
正面に掲げられた扁額には「圓覺興聖禪寺」と書かれていますが、こちらは延
慶元年(1308年)頃の最初の「三門」再興の折に伏見上皇より賜った御宸筆の額草をもとに製作されたものです。


十一面観音、十二神将、十六羅漢像が
安置されている楼上には、こちらの階段から登るようになっていますが、一般には公開されていません。


仏殿
宝冠釈迦如来坐像(本尊)
(鎌倉市指定文化財)です。関東大震災で旧仏殿が倒壊後、昭和39年(196
4年)に仏殿が再建されるまでの間は、選仏場に安置されていました。
脇侍は、向かって左が帝釈天、右が梵天とされており、何れも鎌倉市の指定文
化財となっています。


仏殿に入って左奥の二体の坐像は、左が達磨大師、右が無学祖元です


天井の龍は「白龍の図」と呼ばれています。日本画家・守屋多々志 の筆によるもので、前田青邨が監修したものです。なお円覚寺仏殿の龍の爪は3本ですが、建長寺仏殿の龍の爪は5本あります。
この雲竜図は前足・後ろ足があります。

仏殿の釣鐘
この鐘は、仏殿で行われる諸行事の開始を告げるため、鳴らされます

梵鐘(国宝)
梵鐘の銘文
平安3年(1301年)鋳物師物部国光作
高さ2.6mの洪鐘(おおかね)


銘総高259.4センチメートル、口径142センチメートルで、鎌倉時代の
代表的な形態を表している。
文は、西澗子曇(せいかんすどん)が撰している。



鎌倉三名鐘の一つ (円覚寺・建長寺・常楽寺(鎌倉国宝簡易寄託))


宿竜池の伝説
舟を守護していた竜が宿したといわれ、この池の底から金銅を得て鋳造された
とも伝えられている。


大方丈の正門(唐門)
唐門は、大方丈の正門にあたります。延慶元年(1308年)に律令制下にお
いて官大寺・国分寺に次ぐ寺格の定額寺に列せられ、都より勅使を迎えたこと
から勅使門とも呼ばれます。



他の多くの建物と同様に幾度となく再建を繰り返してきたと思われますが、現在の唐門は、天保六年(1835年)に建てられ、関東大震災で全壊した後、昭和10年に復旧したものです。


門に彫られ飛龍


門に彫られた鳥
私はこのような彫刻が大好きです。


百観音霊場
大方丈前にある百体の観音像は、江戸時代に拙叟尊者(せっそうそんじゃ)が
岩窟に泰安した百仏にちなんで、明治期に今北洪川師が百観音として整備した
ものです。

放生池
創建当初よりある放生池で、江戸時代初期の絵図に基づき、平成12年(2000)、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元しました。向こう岸の露出した岩盤を虎の頭に見立てて、「虎頭岩」と呼んでいます。

大方丈
円覚寺の方丈は、定額寺に列せられた延慶元年(1308年)頃には建てられ
ていたものと思われますが、その後幾度も罹災と再建が繰り返されました。


 現在の大方丈は、関東大震災による倒壊後、昭和四年(1929年)に建てかえ
られた。大方丈の周りの廊下は一般参拝客に開放されていますので、大方丈の
内部を拝観し、裏手の方丈庭園をながめることができます。

書 院
円覚寺には、大方丈に向かって右手に隣接した小書院と、その奥側にあり方丈庭園に面した大書院があります。大方丈に向かうには、通常は庫裏の玄関を入ってから小書院を経由します。
大書院です。大方丈と直角に配されており、方丈庭園をL字形に囲む形になっています。

円覚寺の居士林は、在家の禅道場として知られています。明治10年、第二百
三世・(今北)洪川宗温により正伝庵の択木園に創立された「居士寮」にさかの
ぼり遡、「居士寮」には、山岡鉄舟・夏目漱石などが参禅し、円覚寺の居士禅は
広く世に知られるようになりました。
大正15年に火災により活動拠点の建物が失われたため、昭和3年に東京・牛
込にあった柳生新陰流の剣道場・碧榕館を済蔭庵に移築し現在の居士林が成立
しました。

白鹿洞
白鹿堂は、円覚寺創建に際して、無学祖元の説教を聞きに鹿が集まってきたという故事に由
来する場所で、正続院に向かう坂道の南側にあります。

選仏場
選仏場は、その名の通り座禅修行を通じて悟りに達した「仏」を選び出す場と
いう意味で使われています。
円覚寺の選仏場は別名「蔵殿」とも呼ばれ、僧堂を兼ねた経堂として元禄12年
(1699年) に創建当時の七堂伽藍の僧堂の位置に建立されました。



当初は大蔵経を収めた法輪宝蔵と呼ばれていました。円覚寺における専門修行
道場の役割は、明治16年以降、正続院内の禅堂「正法眼堂」が担っています
が、それ以前はここが円覚寺における座禅修行の場でした。また関東大震災に
より倒壊した仏殿が再建されるまでの間は、ご本尊の宝冠釈迦如来以下の諸像
が安置され仮仏殿となっていました。


正面に掲げられた扁額「選佛場」の文字は、中国・宋より伝来した禅林の巨匠・
無準師範(ぶじゅんしはん)の書を東福寺の額より写したものです。
現在は運慶派の南北朝時代の作と伝えられる薬師如来が安置されている。




正続院唐門(舎利殿前)  
唐門の彫刻

舎利殿 国宝 
室町時代
舎利殿


正続院の中心となる建物です。
源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めていることから舎利殿と呼ばれる。
円六2年(1563年)の火災で焼失現在の舎利殿は西御門にあった尼寺太平寺の
仏殿を移築したものです。


我が国最古の禅宗様建築物といわれ、国宝に指定されている。
舎利殿横には、坐禅の専門道場である僧堂(正法眼堂(しょうぼうげんどう))が開かれ、雲水の修行の場となっている
背後の開山堂には、開山無学祖元像国重文)が祀られ、開山堂裏山には無学祖元の墓所がある。


正統院
 正続院(しょうぞくいん)は円覚寺開山の祖無学祖元(仏光国師) の塔所(開山塔)
本尊:文殊菩薩。
もともとここは、三代将軍源実朝が宋より請来した「仏舎利」を納めるために、九代執権北条貞時が1285年(弘安8年)に創建した祥勝院(舎利殿)があった場所である。



無学祖元1286年(弘安9年)9月3日建長寺で死去。
建長寺に塔所の「正続庵」が創設されたが、1335年(建武2年)後醍醐天皇の勅命により無窓疎石が円覚寺の舎利殿に移築したものです。

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