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北鎌倉 東慶寺 水月堂/水月観音菩薩半跏像 縁切り寺

北鎌倉 東慶寺  縁切り寺


駆け込み寺で有名です。

豊臣秀頼の息女が千姫の養女として命を助けられました。


この寺は有名な水月観音菩薩半跏像が

あります。

予約しないと拝見できません。


花の寺(四季折々の花が楽しめます)
住所:神奈川県鎌倉市山ノ内1367
☎:0467-33-5100
創建:弘安8年(1285)
宗派:臨済宗円覚寺派
開山 覚山志道尼(北条時宗公夫人)


開基 北条貞時
本尊:釈迦如来坐像
駐車場:近くのコイン駐車場に駐車しました。
交通機関
JR北鎌倉駅から徒歩約5分


【境内】大人200円、小・中学生100円
【松ヶ岡宝蔵】特別展500円、常設展400円 ※小・中学生は一律200円
【水月堂】300円  電話予約しました。

水月観音菩薩半跏像

優しい顔立ちが印象的です。



江戸時代の駆け込み寺と言えば、「鎌倉の東慶寺」と「群馬の満徳寺」がありました。


江戸時代以前も駆け込み寺はありましたが、幕府公認になった寺は東慶寺と満徳寺のみです。


女性から離婚できなかった封建時代に、当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治4年(1871)、廃仏毀釈の影響により縁切りの寺法は廃止となり、明治35年(1902)に尼寺の歴史も幕を閉じました。



後醍醐天皇皇女が護良親王の菩提を弔うため五世住職となり、御所寺、松ヶ岡御所とも呼ばれ、鎌倉尼五山の第二位に列せられる格式の高い尼寺になりました。

現存する唯一の寺院です。


江戸時代初期には豊臣
秀頼の息女(奈阿姫)が千姫の養女として助命嘆願し命を助けられ、東慶寺に入寺し徳川家に夫の暴力などに苦しむ女性を救いたいと念じ、幕府から許諾を得ました。
のちに二十世天秀尼となり、創建以来の栄華を極めました。


それでは、進行の様子です
別に尼になることが条件ではなく、寺役所があって、逃げ込んできた女性は御用宿で取り調べがあります。
東慶寺の門前には柏屋、仙台屋、松本屋という3軒の御用宿があったといわれています。
御用宿での取り調べが終わると、寺飛脚が呼出状を持って夫の所へ駆け、家主や名主らとともに鎌倉に呼びつけられます。


駆けつけた夫方も御用宿に宿泊しますが、妻とは別の宿が用意されていました。


同じ宿だと大喧嘩になる可能性があるためです。


御用宿で両者の言い分が聞き取られた後は、まず示談の話となります。


やり直すこととなる場合もあれば、夫が離縁状(いわゆる三行半)を提出する場合もあったようです。


夫が「三行半」を提出しないと「縁切り寺法」が発動される。
 この場合、協議離婚とは異なり、寺入りして奉公しなければならなかった。
 しかし、この場合も尼になるということではなく、三年間の修行を積んで寺を出て行くといったものであったらしい。その後二年間に短縮された。


その費用は夫が持った。夫に金がない場合は名主が払ったという。
こういった仕組みが東慶寺の「縁切り寺法」だったようです。


門が開いていなかったら
駆け込んでくる女性の入る門は、時間で開けられていたことから、閉門されているときは、かんざしや下駄を投げ入れれば駆け込んだのと同じ効果が得られました。


会津若松藩四十万石の城主加藤明成の家来であった堀主水は、城主の非を幕府に訴えるため妻なえとともに会津を出奔した。
しかし、幕府に訴える前に明成に追われ、主水は高野山に逃げ、なえは東慶寺に逃げ込んだ
(高野山は女人禁制のため)。


 高野山から主水の引渡しを受けこれを斬殺した明成は、次に東慶寺に対し主水の妻なえの引渡しを迫った。


 これに怒った二十世天秀尼、養母千姫を通じて徳川三代将軍家光に訴え、明成の四十万石を没収させたという。


なえは事件後、実家の黒川家に戻るが、そのとき天秀尼は阿弥陀像を与えた。その像は現在東慶寺に安置されています。


山門
石段もかなり狭いです。いくつかお寺を訪問していますが・・・・。

この階段はとても狭いですね。

上がると茅葺きの山門があります。


茅葺の鐘楼

鐘楼(県文化財)
大正5年建立された。
梵鐘は、材木座の補堕落寺ら移されたもので、1350年(観応元年)の鋳造。
鋳物師は物部光連。
総高143センチメートル、口径77.1センチメートル。


『新編相模国風土記稿』によると、分捕り品となって土中に埋められた鐘を、のちに農民が掘り出したものと伝えられている 永安寺跡から掘り出されたものと伝えられています。


鐘楼の天井にはわずかでありますが、鐘楼天井画を見ることが出来ます。
東慶寺男僧第三世の佐藤禅忠和尚の雲水時代のもの(大正5年あるいは大正10年?)


天井の雲竜の図  

わずかに残っています。

正面には金仏 白蓮舎の向かい側、こちらの仏像の右へ進むと松岡宝蔵があります。

本堂前の石灯篭(向かって左側)

本堂前の石灯篭(向かって右側)

本堂の門

本堂
東慶寺の本堂「泰平殿」は1935(昭和10)年に建立。宝形造の屋根が美しいです。
正方形の建物に三角形の屋根板4枚で造られており宝形肩造りです。

本堂 阿弥陀如来坐像

書院  非公開

白蓮舎と菖蒲畑
白蓮舎:写経が出来ます。1000円

後醍醐天皇皇女 用堂女王墓


向陵塚
東慶寺墓苑の行き止まりの所に向陵塚があります。世にエリートを輩出した第一高等学校
のOBたちが昔の寮生活を通じて互いに切磋琢磨した時代を懐かしみ昭和52年にこの碑
を建立した。二本の白線は当時の一高の帽子の象徴で古き良き時代の名残です。


西御墓
有名人の墓地です。

慶寺境内の奥の墓苑では、多くのやぐらが見られますが、何れも歴代尼僧の墓所のようで、
その一つ駆け込み寺の開山された「覚山尼」のお墓です。


水月観音菩薩半跏像 (特別拝観の予約が必要)300円
毎月18日は予約不要とのこと(観音様の縁日)
ここは必見の価値があります。


岩にもたれて、水面に映った月を見る観音像。こうした姿の観音像は水墨画に多く、中国の宋から元時代に大流行した。


中国で大流行したにもかかわらず、日本では鎌倉周辺にしか見られない。かつては室町時代あるいは南北朝時代の作とされていたが、頭髪や衣の写実的な表現がみごとであり、鎌倉時代13世紀の作と見られるようになった。銅製の冠、胸飾などは後世補われたものです。


神奈川県指定文化財
国宝にしてもいいのではないでしょうか。
鎌倉時代・13世紀
像高34.0cm
木造、金泥塗・彩色、玉眼
とても美しい観音様でした
写真撮影禁止でした。


松岡宝蔵  ここは別料金です。500円
ここには実際にありました駆け込みの例を記録した「松岡日記」があります。
その他蒔絵、彫刻などがありました。



最後迄ご覧いただきありがとうございます。

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