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京都 萬福寺 黄檗宗

2021年10月3日記事一部修正、加筆しリライトしました。


萬福寺
住所:京都市宇治五ヶ庄三番割34
山号:黄檗山
宗派:黄檗宗  大本山
黄檗宗は、中国・明時代の高僧隠元隆琦禅師が1654年に日本に来られ、伝え、広めた禅宗の一派です。臨済宗の流れをくんでいるのですが、四代将軍家綱より許可を得て、宇治に黄檗山萬福寺を開くことにより、正式に黄檗宗が認められたのです。


創建:寛文顔面(1661年)
開山:隠元隆琦(いんげんりゅうき)
開基:徳川家綱
本尊:釈迦如来
☎:0774-32-3900
駐車場:あり 有料 500円
交通機関:
京阪電鉄黄檗駅・JR黄檗駅から徒歩7分
隠元隆琦(いんげんりゅうき)
煎茶道の開祖・能書家・インゲン豆の名称となった。


また木庵性瑫(もくあん しょうとう)・中国明から渡来(臨済宗黄檗派)江戸時代
即非如一(そくひ にょいつ)中国明から渡来(臨済宗黄檗派)江戸時代
この三人が黄檗宗を広めた。「黄檗の三筆」と言われる。


日本の仏教では最も遅い伝来である。
建物および仏像など全てが中国風

総門

マカラ(摩伽羅)


摩竭魚とも書く。魔除けとして万福寺総門(漢門→)屋根の両端に魔除けとして乗せられた想像上の動物。


鯱(しゃち)に似ているが鰭(ひれ)の代わりに足が生えており、インド辺りにその原型が求められるという。


女神の乗り物としてガンジス川に棲息するワニだと言われている。水辺の動物の中でも最強であることから、アジアでは、聖域の結界にあたる入り口の門、屋根などに置かれるほか、仏像の装飾にも用いられている。


なお、万福寺山内の全ての屋根にこのマカラが居るわけではなく、総門と塔頭の萬寿院、天真院の山門にのみ見られる。


一見「鯱鉾(しゃちほこ)」にも見えますが胸ビレの代わりに足が生えている。


そうすると、四国香川の金比羅(こんぴら)さんに祀られているのもガンジス川に棲息するワニだそうだから、「何か関連があるのだろうか?。」とも思ったりするのだが、確証はない。



 「摩訶不思議」という言葉の語源には諸説あるそうだが、この不思議な生き物である摩伽羅も、その一説だそうです。


みみずく地蔵尊


この参道の石は龍の背骨を表しています。

総門(牌楼式、重要文化財)
扁額には第一義と書かれている。
寛文元年(1661年)の建立で元禄6年(1693年)再建。瓦屋根の中央部分を高く、左右の部分を低く、段差を設けているのは中国風の牌楼(ぱいろう)式で、漢門とも呼ばれている。中央上部裏面には円相が象られており、これは風水的モチーフの一つの白虎鏡である。日本の一般的な社寺建築には見かけない形式である。


額「第一義」は第5代高泉書。この額字には、高泉和尚が何度も書き改めたという逸話がある。屋根上左右に乗る魚のような像は仏閣でよくみられる鯱ではなく、摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えている。マカラはサンスクリット及びパーリ語でワニを表す言葉で、ガンジス川の女神の乗り物。東南アジアでは聖域結界となる仏教寺院の入口の門、屋根、仏像などの装飾としてよく用いられている

放生池
寛文4年(1664年)造営。総門に入ってすぐにある放生池は半月型で、風水上の機能を有している。ここでは放生会という儀式が行われる。隠元の放生思想は、明代の雲棲祩宏などの放生運動を受けたもので、「雲棲大師戒殺放生文」の跋文ほか放生を勧める法語が多い。


欄干が卍崩しのデザインになっている。

屋根の中心の宝珠がめずらしい。
屋根の上には火焰付、二重の宝珠がのせられています。


正面入口は魔除けとされる桃の実の彫刻を施した「桃戸」、左右に円窓があるのも中国風



回廊

韋駄天
しかし他にも韋駄天像があるのですが見当たらなかった。

天王殿
弥勒菩薩(布袋)座像
范道生作。寛文3年(1663年)造立。木像、像高110.3cm。布袋は弥勒菩薩の化身と云われ、萬福寺では弥勒仏とされている。


回廊

大雄宝殿
上層の扁額「大雄寶殿」は、万治4年(1661年)に黄檗山萬福寺を開山した中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)の書です
下層の額「萬徳尊」は木庵性瑫(もくあんしょうとう=隠元の法席を継いだ中国僧で「黄檗の三筆」のひとり)の書


本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=釈迦如来)で、隠元隆琦に招かれて寛文3年(1663年)、来日した范道生(はんどうせい)の指導のもと、京の仏師・兵部が寛文9年(1669年)造立。


両脇侍は摩訶迦葉(まかかしょう=釈迦の後継者で仏教第二祖)、阿難陀(あなんだ=迦葉の跡を継いだ仏教第三祖)の二尊者。


両脇に十八羅漢像を安置しています。
この十八羅漢像は、旧来の十六羅漢(鎌倉・室町時代には羅漢信仰を重んじる禅宗が発展し、多くの十六羅漢像が造立されています)に、慶友尊者(けいゆうそんじゃ)と賓頭蘆尊者(びんずるそんじゃ)を加えて、十八羅漢とした明代寺院の形式を受け継いだもので、すべて范道生の作。


氾道生がわざわざ来日して、1年足らずで27体もの羅漢・仏像を造った。
これらの仏像の中には平安時代に衰退した乾漆造りの仏像もある。これは何枚もの麻布を漆で張り重ねる方法で、代表作としては興福寺の阿修羅像がある。


また、韋駄天があります。これなど足の速い神様です。禅宗では羅漢を守る仏様として知られています。この像は寛文2年(1662年)長崎で造られ万福寺に送られたということが判明している。


写真にある韋駄天像とは違います。
本堂内部須弥壇の上の額「真空」は明治天皇の宸筆(しんぴつ)です。

羅漢がお腹を開いて中から阿弥陀様が顔をのぞかせている羅漢があると聞きましたがありませんでした。(どこかに展示中だそうです)ネットに写真がありました。
そちらをご覧ください。

生飯台 (さばだい)
鬼界の衆生(生命あるもの全て)に施す飯を乗せるためのものです。
この上に真ん丸に握ったおにぎりを置いておくそうです。
鳥が飛んできて食べてしまいます。


井戸「龍目井」(りゅうもくせい)
寛文元年(1661年)造立。黄檗山全体は龍の体に喩えられ、総門とその周囲は龍の頭に当たる。総門の手前にある井戸「龍目井」は龍の目を、周囲の小川は口を、松は口髭を表している。龍目井は、隠元が、この道場に優れた修行僧が多く集まり、名僧や高僧が輩出されることを願って作った。東西二つある。

斎堂(このおくにあります)
僧侶の食道です。
斎堂入口の前には、日常の行事や儀式の刻限を報じる開梆(かいばん)と、朝と昼の食事と朝課の時に打つ雲版(うんばん)があります


写真は・魚梆(「開梆」(かいぱん)
驚くほど大きい。廊下幅いっぱい。叩く棒もバットのようです。写真右側


木魚の原型と言われています。現在かかっている魚梆は3代目だそうです。



雲版(写真紛失)
朝と昼の食事と朝課の時に打つもの。
青銅製

休憩中  
このような椅子が沢山ありました。

この丸いところ、何に使たんでしょうか。

塔頭
竜宮門のようなものが特徴。塔頭は同じ門でした。

鐘楼(重要文化財)
寛文8年(1668年)建立。重層入母屋造、本瓦葺。鼓楼と相対し、同じ大きさ。長崎の元奉行であった黒川与兵衛が寄進。 


 
梵鐘は太平洋戦争中に供出され、戦後再鋳された。2階建てで、階上に梵鐘を吊る。鐘楼前には偈(げ)の書かれた巡照板が下げられている

「伽藍堂」(重文) 江戸時代の1669年に建立され、伽藍を守護する伽藍神を祀ります。


本尊として華光菩薩像を祀り、その前に中国・三国時代の武将・関関帝が立っています。


華光菩薩像は昨日紹介した十八羅漢をはじめとする多くの仏像を制作した范道生の作です。


鼓楼全体の写真紛失
鼓楼(重要文化財)
延宝7年(1679年)に信夢善士が建立。重層入母屋造、本瓦葺。二階四周に縁と逆蓮柱付の勾欄を巡らす。


鐘楼と対称位置に建っている。朝5時開静、夜9時の開枕に鐘楼の大鐘と鼓楼の太鼓をもって、時刻と消灯、起居動作の始終を知らせる。また、賓客来山の時に鐘鼓交鳴して歓迎を表すようです。


回廊の途中の鐘


真空堂
隠元禅師の生前に築造された墳墓。


法堂
ここは特別拝観時のみです。


禅堂
これらの建物は中国明末期頃の様式と考えられる。建物の材料も南方のチーク材である。


祖師堂(重要文化財)写真はありません。
寛文9年(1669年)、今津浄水居士が建立。伽藍堂と対称位置に建ち、中国禅宗の祖である達磨の像「達磨大師坐像」と、開山隠元禅師からの歴代管長の位牌を安置されている。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

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