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「甲賀三大仏」観光が誕生 大池寺、檪野寺、十楽寺 「湖東三山」「湖南三山」に続け

                                                                                                                2020.10.3
                                                                                                                2020.10.4
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                       2021年8月29日記事追加
「甲賀三大仏」観光が誕生 「湖東三山」「湖南三山」に続け 


滋賀県 平成27年4月28日(火)

この甲賀(こうか)に三大仏が密集するのは全国でも珍しい。
この三大仏(丈六)を祈願することによって過去、現在、未来の安堵が叶うとされています。


水口町の大池寺、甲賀町の櫟野寺とともに平成25年11月23日から「甲賀の三大仏」巡りが発足しました。
 甲賀市の3寺院にある大仏に着目した「甲賀三大仏」巡りが新たな観光ルートとして誕生した。すでに定着している県東部の「湖東三山」や湖南市の「湖南三山」に続き、注目を集めそう。甲賀は「忍者」「信楽焼」だけじゃない。
 大仏は「丈六」(立像で1丈6尺=約4・8メートル)より大きな仏像を指し、座像はそ
およそ半分。
甲賀三大仏とされた3つの仏像は、大池寺(だいちじ)(同市水口町名坂)の「釈迦如来座像」▽櫟野寺(らくやじ)(同市甲賀町櫟野)の国重文「薬師如来座像」▽十楽寺(同市土山町山中)の「阿弥陀如来座像」。これらは、高さ2・2~2・8メートルの座像。


 3寺院には大仏以外の魅力も。大池寺には、茶人で作庭家の小堀遠州が手がけたと伝わる庭園があり、櫟野寺には座像の観音では国内最大の「十一面観音座像」がある。また、十楽寺には、釈迦の母「摩耶夫人」が釈迦を産む(右脇したから生まれる様子)様子をかたどった像がある。


摩耶夫人
釈尊(仏陀になられたシッダルダの尊称)の母である摩耶夫人がある時 昼寝をしていると兜率天より白象に乗ってこの世に下りてきた釈尊が 摩耶夫人の左脇より胎内に入ったというのです
そしてまたある時 池に青い睡蓮の咲くルンビニーという庭で 無憂樹(むうじゆ)の花を手折ろうと夫人が右腕をかざした時に その脇の下から赤ちゃんのお釈迦様が誕生したというのです
その時にすくっと立たれたお釈迦様が「天上天下唯我独尊」と言ったと言うのは あまりに有名な話です
つまり 摩耶夫人はお産の苦しみを知らずにお釈迦様を産んだことになります



十楽寺
所在地:滋賀県甲賀市土山町山中351番地   ☎0748-68-0364 国道1号線沿いにある。
山号:清浄山 二尊院(本尊が2体あるため) 
宗派;浄土宗   浄土宗総本山知恩院の直轄末寺
開基:文明18年(1486)
開祖:寂照
本尊:丈六阿弥陀如来座像(日本最大級)
拝観料:500円
無料駐車場有り 6台位、大型車2台


元来、天台宗であったものが信長の兵火に会い消失しました。
寛文年間(1661~)巡化僧広誉可厭大和尚、現在の地に錫を留め専修念仏浄土の寂光を宣揚せんことを念願し広く十方有志の助成を仰ぎ万人講を勧募し本堂、庫裏、茶所を完成し,清浄山二尊院十楽寺と名称し念仏道場と定め、浄土宗総本山知恩院の直轄末寺となり今日に及んでいます。
当寺六世寂誉上人は祐天上人と兄弟弟子であったと言われ、当寺院にお忍びで立ち寄られた際お書きになられた、丈六阿弥陀如来に合わせた祐天名号が保存されています。
本尊は日本最大級の丈六阿弥陀如来座像、ほか十一面千手観音、救世観音坐像、法隆寺と当寺がその形を所持している懐からお釈迦様を垣間見る摩耶夫人立像など天台のおりの様相を含めた仏像が安置されています。


摩耶夫人立像(国内に数体しかなく鈴鹿の龍源寺他
女性の案内人が丁寧にご案内くださった。


右手の脇したから顔をのぞかせている。


大池寺(だいちじ)
所在地:賀市水口町名坂1168番地 ☎0748-62-0396 /
山号:龍護山 りゅうこさん
開基:天平年間(729-749)
開祖:行基菩薩(668~749)
宗派:臨済宗 妙心寺派  もと青蓮寺。寛文7年(1667)改称
本尊:釈迦如来像
拝観料 400円  
駐車場バス10台 普通車50台


仏足石


小森遠州作庭園
【大池寺庭園】


 禅寺である大池寺書院の蓬莱(ほうらい)庭園。サツキの大刈込み鑑賞式枯山水(かんしょうしきかれさんすい)庭園で、江戸時代に水口城を築城した小堀遠州(こぼりえんしゅう)が作庭したと伝えられています。 
 書院の正面にある2段大刈込みは、海の大波小波を表し、真っ白い砂の上に宝船を浮かべた姿を表現しています。その中に、様々な刈込みを用いて七福神が乗っているように象徴している様子は、実に見事です。また、書院に続く茶室前から見える蓬莱山の石組みも美しいです。 
ここで抹茶と干菓子を頂く 300円


 5月下旬から6月中旬にかけてはサツキなどの花が順々に咲き、8、9月は、刈込みの線条美が一段と冴えて幽玄流麗な景色になり、秋は紅葉、冬は紫褐色に染められ、四季を通じて趣のある鑑賞ができます。


水琴窟  澄み渡るような美しい音色であった

屋根付きの井戸
中庭の仏母井


左の松の枝1本が本堂に向かって横たわっている。 龍の松




近江鉄道水口駅の北西約1.2km、丘陵に囲まれた閑静な地にある臨済宗妙心寺派の寺院です。寺伝では、奈良時代末期にこの地を訪れた行基が、現在も寺の周囲にある4つの大きな溜め池「心字(しんじ)の池」を造り、そのほぼ中央に本堂を立てたのが寺の始まりとされています。寺名もこのことに由来しています。「心字(しんじ)の池(いけ)」はその後、一千年以上にわたって(いけ)灌漑(かんがい)用水として周囲の水田を潤してきたといいます。
 長い刈り込み垣に挟まれた参道を行くと、山門と白壁の塀が目をひきます。境内には本堂のほか、書院・茶室・庫裏(くり)などが立っています。本堂の床は四半畳敷きの瓦で珍しく、行基(ぎょうき)の作と伝えられる釈迦如来像が安置されています。


櫟野寺(らくやじ) 櫟野観音(いちいのかんのん)


日本最大坐佛観音の檪野寺


所在地:滋賀県甲賀市甲賀町櫟野1377 ☎0748-88-3890
山号:福生山、院号は自性院
宗派:天台宗
開基:792年(延暦11年)
開祖:最澄
開基:坂上田村麿
本尊:十一面観音坐像
拝観料:600円(特別公開)  毎年1月1日~3日、2月17日~19日、4月18日~5月第2日曜日、8月9日、10月18日~11月第2日曜日に開帳。団体開帳


拝観料:500円
駐車場:無料 50台
交通機関:JR草津線甲賀駅より町内循環バス檪野寺行15分


門の左右には仁王像が安置されている。室町時代の作と伝わる

参道の左側には、ご本尊の十一面観音十一面観音が並んでいます。

右は灯篭  


3寺の中でこの寺のみ山門に金剛力士像があった。
櫟野(いちいの)という集落に建っており
境内には、相撲の土俵が作ってあります。田村麿が国技の相撲を奉納したことから今でも年に一度子供相撲を行います。
奈良時代末期、最澄が霊夢を感じて櫟(イチイ)の生木に十一面観音像を彫り、それを本尊として開山したといいます。高さ3.3m、一木造で左手に華瓶、右手は膝の上で念珠を持ち、頭上には十一面化仏を戴いています
寺務所にて拝観を申し出ると本堂の中へと通していただき、その本堂奥の収蔵庫へと案内して頂ける
収蔵庫へ入ると外の雰囲気とは全く異なっており、二十数体の平安仏が安置されている。 境内の明るく広い外観からでは全く想像がつかないが、そのギャップに何度訪れても「すごい!」という言葉しかまずは出ない。


しかし、なぜこのような収蔵庫までのアプローチになったのか、現在の収蔵庫が出来たのが1965年で、その三年後に本堂は全焼、本尊を含む 二十数体の仏像は収蔵庫に移されていたので幸運にも難を逃れたのである。


櫟野寺建立縁起に、延暦二十一年(802年)坂上田村麻呂がここの観音様に鈴鹿の山賊討伐を祈願し勝利したという話が載っている。これは、甲賀の地に土族として甲賀武士が存在していたということの裏付けにもなり、それが今では観光資源の一つでもある甲賀忍者の源流なのであろう。

パンフレットより


山賊討伐に成功した坂上田村麻呂は大同元年(806年)に櫟野寺に七堂伽藍を建立した。 今でも安置されている重厚で威圧感のある毘沙門天立像はその際に、田村麻呂自身が当山守護の為に 彫ったと伝えられている。



櫟野寺 本堂
本堂再建の際に文化庁の決まりを知らずに収蔵庫と本堂を壁合わせに再建されたのが現在の 本堂と収蔵庫の珍しい形で、今ではこのような配置は認められないとのこと。


本尊 木造十一面観音坐像 (厨子に入っています)
像高:3.12mもあって、立ち上がると6mは越える巨像である。 10世紀後半の作 ヒノキの一材から刻み出されている。
十一面観音としては日本最大である。あまりの重量感と慈悲に満ちた尊像に圧倒されるのみである。


頭上に化仏を乗せ、右手に念珠、左手には花瓶を持つ彩色像。いくぶん素朴さも残るが、堂々たる威厳を備えた傑作である。
寺伝では最澄の自作とし、秘伝とされているが、特別拝観として年に数回だけ開帳している。古くから篤い信仰を集めてきた。


薬師如来 パンフレットより
本堂の正面に安置されています。


 寺伝によると、桓武天皇の御代の延暦十一年に伝教大師(最澄)が、比叡山根本中堂建立の用材調達のため杣谷巡錫の際、霊夢を感じて、檪の生木に一刀三礼のもと立木のまま彫刻され、この地に安置されたといわれている。
 像は一木造りで左手に華瓶、右手は膝の上にあげ念珠をもち、頭上には十一面化仏を頂いて吉祥座を組んでおられる。目鼻立ちは大ぶりで、はっきり刻み、体躯は肩幅が広く体の厚みを十分にとり四肢は太目に作り衣のひだ等も規則的に整理され、彫りも鋭い稜線を残しており、丈六像にふさわしいどっしりと落ついた姿に象形していることなどから考え、平安(八世紀)初期の制作と思われる。



木造地蔵菩薩坐像
11.8cm
文治三年(一一八九)の銘記をもつ本像は、もと檪野寺の塔頭寛沢寺の本尊であったとされている漆箔像で、形姿は円頂で通肩の衲衣をつけて、腹帯を結び(腹帯地蔵として信仰者が多い)左手を膝上において宝珠を持ち、右手は屈臂して掌を前にたて錫状を執って左足を上にして結跏趺坐する。構造は頭体を通じて前面一材、背面頭部は耳後で躰部は肩より竪に矧ぎそれぞれ内を刳る。両肩は裾までを含めて各竪一材矧ぎで、膝前は横二材矧ぎとなる。左手は前膊部袖を矧付けて手首を差し込み、右手は前膊半ば及び手首を矧いでいる。光背は造像時のもので、体内に次の墨書銘がある。
    勧進上人蓮坐
 右勧数千人之施主為現世安穏後生菩提造立供養也 右敬白
   文治三年丁未十月十五日壬午
            供養之
 聖人蓮坐 敬白


金箔を押しなおしたのは昭和40年代だそうだ。
この辺りは今でも樹木が多くうっそうとした地であるが、櫟野と呼ばれるように、かつてはイチイの木が茂る原生林で、大仏建立の際も、また叡山創立の際もこの地から用材を運んでいった。
巨木を運ぶということはそれだけ広い道幅が必要で、それにより街道としての整備も兼ねることが出来たに違いない。


この地に伸びた街道は大津や奈良、東には伊勢へとつながり都や伊勢神宮へ向かう拠点としても大きく栄えたに違いない。 そしてこれだけの巨木を持つ地域は樹木に対する厚い信仰があったはずで、収蔵庫に並ぶ仏像というのはそれら自身がご神木として扱われていたのだろう。中心に十一面観音、脇に地蔵菩薩、薬師如来の坐像が巨木のようにたち、その周りをぐるりと囲む樹木のように仏像が並ぶ。


他の仏像
造聖観音立像
170.3cm
 桧の一木彫の木造は両腕のほとんどを含めて彫出し、内刳りを全く施さない明快な構造で、頭上に髻を結い、その前に宝冠を大きく表す天冠台を彫り出し、いわゆる密教系の宝冠を付ける本格的な十世紀の一木彫像である。地髪はまばら彫り耳朶は環状にしない厚みのある形である。右手を垂下し左手はひじを曲げて蓮華の茎を持ち、腰を少しひねって左足に重心を置き、右ひざをゆるめて立つゆったりとした姿である。面長の顔に切れ長の目を刻み、目じりがつりあがっているところから、観音像としては珍しく厳しい表情である。等身大のすらりとした表情で、ややほっそり身の感じであるが、つりあいのよい像である。衣文の虞理も条帛の端や裳の合わせ目などに工夫をこらし、下半身をにぎやかに表している。仏身の刀法もまた精鋭で、弘仁末期の手法著しく迫力があり、この様な特徴と一木彫の古式の構造から平安初期の彫像とみられる。


木造聖観音立像
101.8cm


 本像は、頭体を通じて一材より彫成し、内刳りはない。天冠台を刻み出して髻を結び、右手を垂下させ左手を屈臂させているが、手先は失われている。天衣がw字にかかるには全国的にもめずらしい。更に注目されるのは、表面にノミ目を残す鉈彫像であることである。鉈彫像は関東以北にみる様式化された像が多く、また、足先は共木から刻み出すが、形を彫るだけで完全な足とはしていないことなど、鉈彫か未完成品かといった問題を考える上でも重要な像である。


木造聖観音立像(168.2cm)   木造聖観音立像(103.3cm)   木造聖観音立像(180.0cm)


この他にも多くの重要文化財があった。また木造の白像は日本最古だそうだ。


東門


相撲土俵
延暦21年(802)坂上田村呂は夷賊を檪野観音の御力により退治することができ、当寺を祈願寺と定め国技の相撲を奉納した。

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