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栃木県   日光二荒山神社

                                                                                                    一部写真追加 正門の鳥居
                             2020.8.5

平成23年11月16日
日光二荒山神社   

住所 栃木県日光市山内2307
祭神 二荒山大神(大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命)


東照宮からの参道               
石灯篭は37基ある
東照宮からの門である

楼門
境内東側の参道入り口に立つ、入母屋造りの華麗な門。くぐり門の上2階部分は欄干で囲まれ、朱色に塗り上げられた柱とともに、参拝者の目を奪う。


 昭和57(1982)年、男体山山頂に奥宮がまつられてから1200年を記念し作られた楼門からの鳥居


本殿
徳川2代将軍秀忠公が寄進した安土桃山様式の優美な八棟造りの本殿は、元和5(1619)年に造営した当時のままの、ただ1つの建造物として、重要文化財にる。
間口11メートル、奥行き12メートルで、7メートルの向拝(社殿の正面階段の上に張り出したひさしの部分)がつく。単層入母屋の反り屋根造りで、黒漆塗りの銅瓦ぶき(創建当時は柿(こけら)ぶきか檜皮(ひはだぶき)。正面は、千鳥破風(屋根の斜面に取り付けた装飾用の三角形の破風)、向拝軒唐破風である。


大黒殿

銅燈籠(俗称、化灯籠)。火を灯すと怪しげな姿に化けたといわれ、武士が刀で斬りつけた傷が無数に残されている。
灯籠の火は、それだけで不気味である。お化けが出たと思っても不思議ではない。
 では、本当のところ、お化けの正体は何なのだろう。じつは、灯籠に使っていたナタネ油をなめにきたモモンガか、ムササビではなかったろうかということらしい。これは伝えによるところで、真相は明らかではないようです。



日光の3つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としている。


3つの山とは、男体山(二荒山)、女峯山、太郎山の三山である。この山々は神体山、いわゆる神奈備であり、神が鎮まる霊峰として古くから信仰されてきた。この日光の神々は「日光三山」「日光三所大権現」などと呼ばれ、山の名前からもわかる通り、これらの神々は親子と考えられてきた。


二荒山大神に現在の神が当てられたのは12世紀頃だと言われる。さらには本地垂迹説により、それぞれの神に仏が当てられ、現在でも輪王寺ではこれらの仏を祀っている。
男体山  千手観音  2486m
女峯山  阿弥陀如来 2464m
太郎山  馬頭観音  2368m
下野国の僧勝道上人(735年 - 817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年(天平神護2年)に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、それに続いて767年(神護景雲元年)、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まりと伝える。この祠は現在の別宮となっている本宮神社である。登頂を志して多くの失敗を重ねたあと、782年(延暦元年)には二荒山の到頂に成功し、そこに奥宮を建て、二荒修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として栄えることとなった。社伝などでは勝道が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰の対象になってきたことが分かる。しかし、なぜ祭神が出雲神である一方、下野国の開祖で下毛野氏の祖とされる豊城入彦命でないのか、不自然だとする見解がある。出雲神は尾張国や三河国の民が祀る神であり、徳川家康の威光をもって出雲神を祭神としたということであれば明快であるが、なぜ、下毛野氏の氏寺の修行僧であった開祖・勝道が下毛野氏ゆかりの神々を祀らなかったかについては謎とされる。


二荒山(ふたらさん)の名は、諸説あるが観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った。「日光三所」はこのとき新たに建てた現在の本社と本宮神社、そして滝尾神社を指す。


なお、『延喜式神名帳』に名神大社とある「下野国河内郡 二荒山神社」とは旧河内郡池辺郷(現在の宇都宮市)に鎮座する宇都宮二荒山神社である。明治新政府が著わした古事類苑によると、下野国各郡各郷の地名に関する説明において、河内郡池辺郷の地名は『今は宇都宮であるが、宇都宮とは鏡ヶ池畔に建つ二荒神社のことであり、もともとは鏡ヶ池付近の地名である池辺郷で、今も池上町の名前に池辺郷の名残がある』旨が記されており、現在の日光二荒山神社については記載が無い。日光二荒山神社をこの名神大社とする説もあるが、旧日光市は旧都賀郡である。


戦国時代には、後北条氏に加担したため、豊臣秀吉に領地を没収され、衰退した。江戸時代初め、徳川家康の側近で日光山貫主となっていた天台宗の僧天海(慈眼大師)の影響により、徳川家康を祀る東照社が江戸幕府によって日光山に創建され、朝廷より宮号を賜わると日光山は日光東照宮と呼ばれるようになり、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けた。1873年(明治6年)に宇都宮の二荒山神社に加えて国幣中社に追加列格し、第二次世界大戦後は、神社本庁の別表神社となった。


江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている。

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