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栃木県 日光東照宮① 石鳥居 五重塔 見ざる・言わざる・聞かざる 世界遺産

2021年5月17日                           一部写真追加と説明文変更
                           陽明門前のブラケット
                            2020.8.6
日光東照宮   世界遺産
栃木県日光市山内2301
電話:0288-54-0560
     2011.11.16
駐車場:周辺あり
交通機関
JR日光駅・東武日光駅より東武バス日光に乗車、「中禅寺温泉」または「湯元温泉」行きで5分「神橋」下車徒歩8分。またはバスで8分「表参道」下車徒歩約2分。
是非双眼鏡を持参していきましょう。


国外の観光客も多く来られます。
日光東照宮内には、休憩できる茶屋がありません。
左に出て参道を下ると売店があります。

駐車場の近くの紅葉

私達は家を午後11時頃出て浜名湖サービスエリヤで1時間休憩、東京に着いたのが午前5
時頃、その後栃木まで途中30分ほど休憩し日光東照宮の駐車場へ午前7時10分、ここでまた休憩し散策開始です。駐車場をでて右側に進むと、大きな日光東照宮の石柱がデーンとありました。
購入した案内本では所要時間は、少なくとも3時間ほど必要です。見所一杯



訪れて最初にお目にかかるのが
石鳥居(いしどりい)(一の鳥居)重要文化財
日光東照宮創建(徳川家康日光改葬)の翌年、元和4年4月17日(1618年6月9日)の造営の明神鳥居。高さ9.2m、柱間6.7m、柱の直径(太さ)3.6mの石鳥居で、徳川家康薨去の翌年となる元和3年9月、黒田長政(関ヶ原合戦で東軍に与して福岡藩初代黒田藩52万石の藩主)は国持大名(くにもちだいみょう)に取り立ててくれた家康の恩に報いるため、日光東照宮に巨大な石鳥居を奉納します。
京都の八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居と共に日本三大鳥居の一つに数えられています。


黒田長政の治める筑前国(現・福岡県)志摩郡小金丸村の親山(おやま=可也山・かやさん/現・福岡県糸島市)で切り出した15個の石を海路で江戸湾まで運び、そして江戸川・利根川・渡良瀬川を遡り、さらに「御用川」と呼ばれた思川(おもいがわ)を使って小山・乙女河岸(問屋・山中八郎兵衛)までの舟運で、さらに陸路は丸太を並べた上で巨石を移動させ、壬生(みぶ)、鹿沼、今市を経て日光へと運んだもの。


これは余談ですが日光東照宮は陰陽道に強い影響を受け、本殿前に設けられた陽明門と、その前の鳥居を中心に結んだ上空に北極星が来るように造られているとか。
またその線を真南に行けば江戸、さらに重要な建物を線で結ぶと北斗七星の配置になるという。陽明門前の前あたりが気学における四神相応の土地相というらしいです。




 家康公は、元和2年4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。


そして遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。


正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。


 尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永(かんえい)13年(1636)に造替されたものです。
日光東照宮ホームページより


石鳥居の銘文
奉寄進 日光山 
東照大権現御寶前石鳥居者 於筑前國削鉅石造
大柱而運之南海以達于當山者也
元和四年戊午四月十七日  黒田筑前守藤原長政


現在の社殿群は、そのほとんどがご鎮座から20年後の寛永(かんえい)13年(1636)に建て替えられたものです。陽明門(国宝)など55棟、その費用は、金56万8千両、銀百貫匁、米千石(『日光山東照大権現様御造営御目録』より)を要し、ご造営の総責任者には秋元但馬守泰朝(あきもとたじまのかみやすとも)、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗広(こうらぶんごむねひろ)があたり、わずか1年5ヶ月の工期で完成しました。


御仮殿
ここで境内を左手側からの出て五重塔の反対側を見るため出ると、違うお社が目についた。
本社を修理するとき、神霊を移す。外遷宮。
今まで徳川時代9回行われ、1863年(文久3年)以降は行われていない。

御仮殿の石段入り口



鐘舎

本社

ここに神霊を移す



 また、これらの社殿群は平成11年12月「世界文化遺産」に登録されました。


日光山には諸大名が奉納した鳥居が随所にありますが、外様ながら筑前一国一円52万3000余石の大大名となった黒田家の繁栄の願いを込め(徳川将軍家への恭順の意思表示も)、石鳥居を奉納したものと推測できます。

参道と鳥居の結ぶ方向は、真南から6度ほど東南に傾いていますが、日光東照宮本殿と鳥居の中心を結んだ線の延長上に江戸城があり、死して江戸を護るという徳川家康(東照大権現)の信念が秘められているのだとか。



石鳥居の不思議なこと
1) 鳥居の左右の柱の太さが相違する。左側の太さが周囲10㎝ほど大きい、このことが分かったのは昭和62年の調査であった。


2) 鳥居の扁額は畳一畳ほどあり、字は後水尾天皇、額の背面から発見された元和8年(1622年)3月吉日の刻銘から判明した。


3) 昔は日本一長いしめ縄が張ってあったが鳥居のバランスを崩すおそれがあるとして撤去された。


4) 柱の継ぎ目(ほぼ真ん中)に直径30㎝の穴をあけ心木でつないである。


石鳥居下の石段は、千人桝形と呼ばれていますが、10段の石段の各段に100人並ぶことができるのが名の由来。


10段ある石段ですが、じっくりと観察すると上に行くほど横幅が狭く、しかも段差も低くなっています。
これは、遠近法を巧みに使って、実際より高い石段と錯覚し、石鳥居を遠くに見せるための工夫(トリック)なのです。


江戸時代に造営された鳥居では日本最大規模を誇り、八坂神社(京都市)の石鳥居、鶴岡八幡宮(鎌倉市)の鳥居とともに「日本三大石鳥居」に数えられています。


ちなみに日光東照宮・上神庫の斜め前には、黒田長政の継室:栄姫(大涼院、保科正直の娘、徳川家康の母方の姪で家康の養女として長政に嫁いでいます)が奉納した燈籠一対もあり、奉納日は石鳥居と同じ元和4年4月17日(1618年6月9日)となっています。九州筑前(福岡県)藩主黒田長政公(黒田官兵衛の子)よって奉納されました。石材は、まず九州から船で小山まで運ばれ、その後陸路人力でこの日光まで運ばれました。






次は五重塔です。まだ門外です・
五重塔(ごじゅうのとう) 重要文化財
慶安3年(1648)若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されました。文化12年火災にあいましたが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進公によって再建されました。この五重塔は初層から5層まですべて同じ大きさです。大量に積もった雪が次の層に落ちないよう工夫されている。


東照宮と完成した時期が違うためなのか、東照宮の表門の外にあり、敷地外にぽつんとたたずんでいます。焼失する前までは36mありましたが再建後は34.5mです。
(ここは入場料も別料金です。)各層の屋根は全て同じ大きさとなっていて、雪が積もらないように工夫されています。


魏中の塔の心柱は4層目から鎖で吊り下げられており、接地はしておりません。
振り子の構造となっており揺れてもこの柱が吸収する構造です。
また柱の伸縮に対応しているのは四国の善通寺の五重塔は五層目と同じ構造です。


五重塔の初層に注目してみると。そこには3体の神獣が鎮座しています。東側3体は右から徳川将軍になった順番通り、寅→卯→辰と続いています!家光が考えたのではないでしょうか。私はそう思います。家康の干支である寅、二代将軍・徳川秀忠の卯、三代将軍・徳川家光の辰。将軍たちが神獣となって参拝客の往来を眺め威圧しています。


ちなみにこの干支の順番は、四代将軍家綱が夭逝し、直系で将軍を継ぐスタイルが終了したこともあり、四代目で途切れてしまいます。


五重塔の北側 
左側の亥(いのしし)真ん中の子(ねずみ)右側の丑(うし)


五重塔の南側 
巳(へび)午(うま)未(ひつじ)。このヒツジさんは、当時の日本ではヒツジを見たことがある人が少なく、ヤギをモデルに作られているそうです。これは中国と同じ干支です


五重塔の西側 


申(さる)。東照宮内の「見ざる、言わざる、聞かざる」の猿と顔がちがいます。
酉(とり)  尾長鳥かな
戌(いぬ)


五重塔には多くの葵の紋が用いられている、全ての瓦に金の葵紋がある。
全部で876箇あるという。「三代将軍へのはなむけというらしい。
第1層180箇 第2層172箇 第3層164箇 第4層160箇 第5層156箇 相輪12箇
第1層扉8箇 第2層から5層それぞれ8箇 計32箇  合計で876箇


怪奇なことも
日光東照宮の五重塔は、「未完成」と言われることがあります。
ですが、未完成と言うよりは、あえて未完っぽくしているという造りです。
この五重塔が未完と言われるゆえんは、5層目(一番上)の屋根の裏側だけが、他の4つの屋根とは違う作りになっていることです

他は、放射状になっていなくて、建物の外壁に対して、垂直に並んでいます。
これは、徳川家康の「完成したものはその瞬間から崩壊が始まる」という哲学を表していて、あえて完璧でないような作り方をしているのだと思います。
他にも東照宮ではそのような造りがあります。



次はいよいよ表門 ここからが東照宮
表門(おもてもん) 重要文化財
東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれています
表門には82箇の霊獣が飾られている



奥から獏、唐獅子、獏 麒麟の彫刻に唐獅子の紋様
東照宮の中で最も多い彫刻が虎で38体、41頭あるそうです。
この彫刻は獏である(獏は鼻が長い) これは唐獅子である


日光東照宮のここからが入口でここで入場料を払います。いよいよ入門。
ここでは、共通券を購入しましょう。
東照宮・大獣院・日光山輪王院で1000円 それぞれ購入するより500円ほど安いです。
但し、すべて拝観すると3時間以上必要です。


自然の地形を生かして門の手前は階段があります。


下神庫  千人武者行列の衣装が納められている  象、獅子、麒麟の彫刻

中神庫  千人武者行列の衣装が納められている  鶴、亀、鳳凰の彫刻



表門を入ると目に前には
三神庫(さんじんこ) 重要文化財
三神庫 高床式 校倉造り 通気口も設けられている

上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められています。
上神庫
屋根下には象のようですがよく見ますとどこかおかしいです。
「想像の象」象の耳がラッパのようで、しっぽが3本の大きな彫刻がほどこされています。
これが有名な「想像の象」これは象を見たことがない狩野探幽が資料を基に想像して描いたものであるが、でも知らずにここまでよく画けています。象にした理由は、江戸時代の神庫の名称が御宝蔵。この「蔵と象」の語呂合わせという説が有力だそうです。
こには 神宝類が納められています。



神厩舎・三猿(しんきゅうしゃ・さんざる) 重要文化財
神厩舎は、ご神馬をつなぐ厩(うまや)です。室町時代までは実際に厩で猿を飼うという習慣があったのです。神厩舎に猿の彫刻があるのか「昔から猿は馬の守り神とされている」陰陽五行節から見ると五行(木、火、土、金、水)を12支に当てはめると馬は火、猿は水となり「火を守る」となる
すなわち「馬を守る」となる。
全部で八面あり物語となっている。「生まれてから結婚し出産するまで」繰り返すようになっている。中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名です。この中の天井もまた彫刻がほどこされていることはあまり知られていません。美しい天女三人が、音楽を奏でていますよ。

三猿は一つの物語になっています。
一枚目は
母親を見つめる小猿。母親は遠くを眺め、小猿の将来を案じている。

二枚めは
まだ判断力のない幼い頃、悪いことは「みざるきかざるいわざる」という教え。

三枚目
成長し、親離れを迎えた小猿。ひとりだちしようか悩み中。

四枚目
そらの青い雲尾見上げ、決心する青年期の猿。青い雲は「青雲の志」を意味する。

五枚目
人生うまくいかないことも。落ち込む青年猿を友猿が慰めている。

六枚目
真剣な表情で恋に悩む青年猿。お相手は隣で無邪気に遊ぶ女猿。

七枚目
青年猿はついに結婚。しかし、荒間にもまれる。人生そい甘くはない。

八枚目
子を授かった妻猿。家族が増え同じような人生が繰り返されていく。



唐銅鳥居
そのすぐ先にある豪華絢爛な陽明門へ。この唐銅鳥居から見える陽明門頭上に北極星を仰いでおり、最強のパワースポットとも言われています。狩野派作と言われる絵です。


御水屋(手水舎)水盤舎


三猿を見た後は、御水屋は寛永12年(1635)に建てられた、唐破風屋根、銅瓦葺き銅板に彫金し金箔を貼りしあげてあります。建物の規模に対して大型な唐破風は格式を感じさせ、水にちなんで波や竜の彫刻に極彩色が塗られています。柱は4隅に3本づつ計12本あり全て御影石で造られ、柱の白色と上屋の極彩色との対比が際立っています。手水鉢は元和4年(1618)に九州鍋島藩主が初代将軍徳川家康3回忌に奉納したもので、滝尾神社付近から水を引き神庫裏の石垣から落ちる水の圧力で水が噴き上がる仕組みになっています。日光東照宮御水屋(手水舎)は国指定重要文化財に指定されています。



神輿舎
家康公を祀る神社として、2代将軍徳川秀忠公により建てられました。


次は左手の輪蔵
輪 蔵   (内部の書架が回転式となっているため)
仏教の経典が収められている場所
内部には八角形の教典を収める回転式の書架がある。他の寺でも多数採用されている
中でもこの回転式の教典を一週回すと収蔵されている教典を全て読破したことになるといわれている寺があった。


文治元年(1185年)宇都宮朝綱が寄進した一切経蔵があったが消失(1620年)1626年現在の建物が再建、徳川家光が建立寛永13年(1636年)改築され現在の建物となった。


この地に東照宮が建立される前からこの地にあった。この関係からも、神仏一体となったのではないか。


外側装飾は第一層が元和期様式、かえる股の間に霊獣花鳥彫刻が施されている。
上層は寛永期の折り重なるように極彩色のかえる股になっている。



ここから石段を上がります。
飛び越の獅子  昔は飛越えの獅子言われていた


輪蔵の前をとおり石段を上がりきり振り返り石柵をみると両側に逆立ちした石像の獅子がある。 


 あらかじめ調べておかないとなかなか気がつかない所である。
石の柵を「よっこらしょ」と飛び越えたばかりに見える、獅子なんですね。


山本有三の小説「女の一生」にでてくる
この獅子は花崗岩の一本の石から彫り抜かれている。単なる飾りではなく石作を支える控柱の役目をしている。一本の石からくり抜いた石柵は日光では多く見ることができる。特に家康の廟所がある坂下門から廟所までの石柵は圧巻。全て重要文化財に指定されています。


江戸幕府三代将軍の徳川家光が、日光東照宮を訪れた際に、最も称賛したのが、この「飛び越えの獅子」だという逸話もあります。


この獅子は、全く無名な存在というわけではなく、旅行雑誌でたまに紹介されたりすると参拝客が群がることもあるようです。でも誰も気づかず通り過ぎます。


階段には南蛮灯篭が並でいます。
これは伊達政宗が鉄を輸入して造らさせたものです。



右手に鐘楼
鐘楼  右側
鐘楼の彫刻(78体)  屋根入母屋妻・・・鶴2体   
              四方垂木上部・・・・龍4体
              四方垂木中間・・・・飛龍4体
              四方垂木下部・・・・波4体
              四方の頭貫・・・・・・麒麟4体
              尾垂木・・・・・・・・・・麒麟4体
              組物間 ・・・・・・・・鶴12体
              火打窓の飾り・・・・輪宝の剣花葵8体
見た目で彫り物が多い



海外からの贈り物
朝鮮国王からの贈り物・・・・・・朝鮮鐘(鐘楼前)
秀吉が朝鮮に出兵しその後徳川家康が親善使節を送り国交回復し朝鮮通信施設が3回日光に来訪した。
 この鐘は朝鮮との平和のシンボルでる。
朝鮮鐘(撞木はない) 銘文と神象が刻まれている
四隅には獏の飾りがついている





左手に鼓楼
鼓楼   左側
鼓楼の彫刻(38体)
             屋根入母屋妻・・・・・亀2体
             四方隅垂木上部・・・龍2体
             組物間・・・・・・・・・・・亀12体
             火打窓の飾り・・・・・巴紋と雲8体
             その他・・・・・・・・・・・波


注目すべき点は一見同じように見えますが、同一の建物ではないというところ。


手前には回転灯篭があります。


オランダからの贈り物・・・・・・・回転燈籠  鼓楼の前
                   ブラケット型燈架 陽明門回廊の下部 左右6個 計12個
                   葵の紋がさかさまです。
                   スタンド型燈籠  鐘楼の左側
                   燭台が蓮の花の形をしている


                   シャンデリア型釣り燈籠 

 鼓楼の右側  覆屋付き
全て長崎出島から陸路江戸まで運ばれました。



伊達政宗が南蛮鉄灯篭寄進
オランダから鉄を輸入し三年分の租税を使い製作した。


鐘楼前にあります 
スタンド型  燭台が蓮の花の形をしている
蓮燈篭 オランダから贈られました。


鼓楼



燈台  シャンデリア型


葵の紋が左右違います。左が正解右は逆ですね
オランダで制作したとき間違ったのかな
 回転式燈籠 設計:ヨハネス・ルトマ 制作:ヨーストヘリッツゾーン




本地堂
鳴き龍で有名  東照宮で最大の建物
薬師如来を祀る、家康は薬師如来の生まれ変わりだそうです。


龍が描かれた堂内の龍の頭部分下で拍子木を鬱と「キーン」という音と共に鈴を振るような余韻が聞こえる。京都のお寺にも似たような鳴き龍があるがその寺は手を打つと反響するようになっていた。


もともとここは畳敷きであり昔は鳴かなかった。明治の初め頃板敷きとなり昭和35年消失し昭和43年再建され現在に至っている。
これは神橋の近くの日光山輪王寺の物です。


 昭和26年(1951)国宝指定
回廊は寛永12年(1636)に建てられたもので陽明門を中心に本社、祈祷殿、神楽殿、神輿社などを取り囲んでいます。東回廊は延長54間(折曲り有)、間口1間、西回廊は延長36間(折曲り有)、間口1間、入母屋、銅瓦葺、総漆濡りで様々な精巧な彫刻や燭台(オランダ製)12台、蟇股30個が施され極彩色で彩られています。彫刻の下絵は狩野理右衛門が担当したとも云われ、二十四間の胴羽目の彫刻は、一枚板の透かし彫り花鳥風月や、波、雲、鳳凰などの透かし彫りが施されています。
南側は計25枚の大彫刻で飾られ、 内側は円柱を建てた吹き抜けとなっています。


東西廻廊の大彫刻は、花鳥動物の見事な意匠、鮮やかで美しい色使い、迫力を感じさせる立体的な表現手法、の三要素が融合した作品で見応えがありました。
彫刻を構成する一つひとつの要素がとにかく素晴らしい。


あまりの素晴らしさのあまり、何が素晴らしいのかわからなくなるほどです。


ブラケット型燭台
オランダからの贈り物
ブラケットにはイルカの形です。ヨーロッパでは海の騎士と言われ聖化さてています・


この地域の燭台に全て灯がともった所見たいですね。
さぞかし幻想的と思います。消防署と文化庁が許可しないでしょうが。








それではいよいよ陽明門
ここから容量が多いので第2へ続きます。


日光東照宮ホームページ閲覧
厳密には頭上に一角を有するものを「狛犬」、角のないものを「獅子」と称する。陽明門安置像は阿形・吽形とも頭上に角のないもので、参考文献では両方とも「獅子」であるとしている。(高藤、1999)、pp.46 - 47を参照
以上参考文献としました。

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