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岩手県 中尊寺   世界遺産

中尊寺   世界遺産
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
山号:関山(かんざん)
宗派:天台宗   東北大本山
創建:(伝) 嘉祥3年(850年)
開山:(伝) 円仁(慈覚大師)
本尊:釈迦如来(本堂本尊)


寺号 
「中尊寺」の寺号については、天治3年(1126年)の経蔵文書が初出ともいうが、この文書自体に疑義がもたれている。そのため、確実な資料としては、歌人・西行が康治年間(1142 - 44年)、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』所収)に「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている。



本堂

パンフレットより

パンフレットより
中尊寺金色堂とは、岩手県に建立された目がくらむほどの光を放つ堂塔です。平安時代後期に建てられ、奥の細道の作者である松尾芭蕉も訪れたほど。マルコ・ポーロの著書「東方見聞録」に記されている、黄金の国「ジパング」の起源とも言われてる。1951年には国宝第一号となっており、日本でも世界でも名高い伝説的な存在と言っても過言ではないかと思われる。


金色堂は、1124年(天保元年)に奥州藤原氏初代藤原清衡公が建立した。 平等院鳳凰堂とともに平安時代の浄土教建築の代表例であり、中尊寺創建当初の姿を今に伝えている。「金色堂」という名の通り、堂の内外の扉、壁、軒から縁や床に至るまで、全て、漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられている。


また、須弥壇の中には中尊寺を造営した初代清衡公と、その4代目までの子孫が木製金箔張りの棺に納められて安置されている。


奥州藤原氏は、当時東北地方で産出した砂金によって栄華を築いたとされている。その金をふんだんに使ったのが中尊寺金色堂であた。この「金でできた宮殿」の話は中国に伝わり、さらにマルコポーロを通じてヨーロッパに紹介された。そうして多くの人々が黄金の国「ジパング」を目指し、歴史を動かす原動力となったのです。創建から長い年月を経てぼろぼろになっていましたが、1962年から1968年にかけて解体修理が行われ、今は創建当時の金色の輝きを見ることができます。


金色堂新覆堂・・・覆堂の内には、平安時代末期に奥州藤原氏によって建設された
         眩いばかりに燦然と輝く金色堂


平安時代の当時、金色堂に使われた「金」はなんと150キログラム!!
漆が2トン!!
夜光貝が10万個




古代の蓮の種からよみがえった蓮
蓮の花
 現在は、泰衡の首級桶から発見された種子から発芽し、1998年に開花した蓮の花が「中尊寺ハス」として境内に植えられている(花弁が現在のものより少し細く、薄いのが特徴)。



「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした。しかし、「人中の尊」という意味の語から「人」字を省いたのでは意味をなさないとして、これに反対する見解もある。



金色堂の魅力は、やはりその工芸技術。清衡公が極楽浄土の有様を具体的に表現するため、中尊寺の堂塔のなかでもとりわけ意匠を凝らしており、当時の工芸技術が集約されています。また、秋には紅葉も楽しむことができ、金色堂と紅葉、両方の美しさを感じることができるのも魅力のひとつ。


追記
そして、2012年9月より、東日本大震災からの復興支援活動の一環として、東芝が金色堂や仏像、荘厳の芸術性・精神性をより効果的に表現できるLED照明を設置し、さらに美しい金色堂が見られるようになりました。


金色堂は、創建当時は屋外に建っていたのですが、1288年には外側から覆うような鞘堂(さやどう)が作られました。この鞘堂のおかげで、1124年に作られた木造の建築物を今も見ることができます。その後、鞘堂は室町時代に作り直されました。これも中尊寺の敷地内で見ることができます。現在の鞘堂は、1965年に建設された鉄筋コンクリート製の丈夫なものです。この鞘堂内で、ガラスケース越しですが900年も前に作られた当時のままの金色堂を見ることができます。


金色堂は、中尊寺山内のやや西寄りに東を正面として建つ、方三間(正面、側面共に柱間が3間)、平面の1辺が5.5メートルの小型の仏堂です。


堂は、1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されて厳重に保管されています。ガラスケースに入っていても、その輝きは目をみはるほどの美しさ!見惚れてしまい足が止まってしまいます。


金色堂は人が入れるサイズではなく、棺を入れておくための建物として作られたようです。堂の中には、びっしりと仏像が並んでいます。覆堂内では、拝客向けに録音された説明が一定時間流れるようになっているので、その説明を聞きながら金色堂を詳しく見ることができます。なお、覆堂内は撮影禁止


 皆金色の阿弥陀堂で、内部の装飾に目をうばわれます。
仏像は本尊“阿弥陀如来”
その前に蓮を持っているのが“観音・勢至菩薩”
左右に三体ずつ列立する“六地蔵”
最前列が“持国天”と“増長天”です。
そして中央の須弥壇のなかに“初代清衡公”
向かって左の壇に“二代基衡公”
右に“三代秀衡公”の御遺体と“泰衡公”の首級が納められています。


中尊寺 金色堂覆堂
 現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年(1124年)と判明する。この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体(ミイラ)が安置されている。
平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。


中世以降
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺から頼朝に提出された「寺塔已下注文」(じとういげのちゅうもん)という文書が引用されている。これは、時の権力者に提出する文書として、当時残っていた堂宇を書き出し報告したもので、当時の伽藍の実態にかかわる史料として信頼のおけるものとされている。これによれば、当時の中尊寺には金色堂のほかに、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」(大長寿院)などがあったという。中尊寺には、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。


近世の中尊寺は衰退し、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。近世を通じ、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、寛文5年(1665年)には東叡山寛永寺の末寺に組み込まれている。


 1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体に対する学術調査が実施された。この結果、中央壇に清衡、右壇(向かって左)に2代基衡、左壇(向かって右)に3代秀衡の遺体が安置され、右壇にはさらに4代泰衡の首級が納置されていることが判明した。1958年には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。1962年より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年に創建当時の輝きを戻すことになる。



 陸羽街道(国道4号)から月見坂と呼ばれる参道を登った丘陵上に諸堂が点在する。山内には中尊寺本坊のほか、17か院の子院がある(大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)。


本堂
 参道である月見坂を登った右手の中尊寺本坊内にある、中尊寺の本堂である。1909年(明治42年)の建築。


金色堂(解説は別項「中尊寺金色堂」
讃衡蔵(さんこうぞう)
 中尊寺ほか山内寺院の文化財を収蔵・展示する施設。1955年に開館したが、現在の建物は開山1,150年の2000年に新築されたもの。もと本坊本尊の木造阿弥陀如来坐像(重文、中尊寺蔵)、峰の薬師堂にあった木造薬師如来坐像(重文、願成就院蔵)、閼伽堂にあった木造薬師如来坐像(重文、金色院蔵)の3体の巨像をはじめ、多くの文化財を収蔵展示する。


金色堂旧覆堂(重文)
1962年、金色堂の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を風雨から守ってきた堂で、1964年に100メートルほど北西の現在地に移築された。建築年代は室町時代中頃と推定される。


経蔵(重文)
 金色堂の近くにある。国宝の一切経を納めていた建物で、一部平安時代の古材が使用されているが、建築年代は鎌倉末期と推定されている。内部には国宝の螺鈿八角須弥壇(実物は讃衡蔵へ移動)が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像(重文)を安置していた。


白山神社能舞台白山神社能舞台(重文)
境内北方に位置する、中尊寺の鎮守・白山神社内に建つ。嘉永6年(1853年)に伊達藩によって再建されたもの。近世の能舞台遺構としては東日本唯一のものとされ、日本の芸能史上貴重な遺構として、2003年に重要文化財に指定されている


正応元年(1288年)の棟札より、鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えられてきた。近年の調査では、金色堂建立後50年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期に現在の形になったものと見なされる。昭和38年(1963年)、新覆堂の建築にともない移築された。


岩手県平泉町に所在する中尊寺に所蔵されている藤原四代のミイラは、昭和25(1950)年に金色堂が補修される際に人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人[1882-1969]を団長として組織された「藤原氏遺体学術調査団」により、昭和25(1950)年3月22日から同年3月31日まで調査されました。この調査団は、人類学・法医学・医学・微生物学・植物館・理化学・保存科学・古代史学等の専門家が結集し、学際的に調査が行われています。この調査結果は、調査が行われた昭和25(1950)年8月30日に資金援助を行った朝日新聞社から『中尊寺と藤原四代』として公表されました。
 藤原氏四代とは、以下の4氏を指します。但し、調査の結果、藤原忠衡と伝えられているものは藤原泰衡の可能性が高いという結論に達しました
藤原氏四代のミイラ[朝日新聞社(1973)『日本人類史展』より改変して引用] 
 初代:藤原清衡[1056(天喜4)-1128(大治3)]
 第2代:藤原基衡[1105(長治2)-1157(保元2)]
 第3代:藤原秀衡[1122(保安3)-1187(文治3)]
 第4代:藤原泰衡[1155(久寿2)・1165(長寛3)-1189(文治5)](*伝聞としては、藤原忠衡のものとされていた)
 藤原氏四代のミイラを人類学的に調査したのは、東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木 尚[1912-2004]でした。


 この藤原忠衡の首には、16箇所もの切創や刺創が認められました。中でも、眉間の左から後頭部にかけて直径約1cmの孔が認められ、これは、八寸釘(約24cm)を使って釘打ちの刑に処した上でさらし首にしたものと推定されています。
これらの創から、首を刎ねるために太刀を7回振り下ろし、5回失敗して最後の2回で切断され、釘打ちの刑に処したと推定されました。

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