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太宰府天満宮・太宰府政庁跡

太宰府天満宮・太宰府政庁跡
福岡県太宰府市宰府4-7-1       
092-922-8225
西鉄太宰府駅から徒歩で5分

中世の鳥居 太宰府では一番古い


919年(延喜19年)、左大臣藤原仲平が勅によって社殿造営を行いました。数度の炎上を経た1591年(天正19年)に小早川隆景が再建します。五間社流造り、檜皮葺で、正面には唐破風状の向拝が付く、桃山時代の豪壮華麗な様式で、右には飛梅、左には皇后梅が配されています。現在国の重要文化財として指定されています。


右に配される飛梅は、大宰府へ左遷された際に菅公を慕って一夜のうちに京から空を駆けてきたという伝承をもつご神木で、千年以上の時を経た今も毎としさく


飛び梅ほか6000本も植えられている梅をはじめ、大樟や花菖蒲など、菅公を祀る境内は豊かな緑と花に包まれ、四季ごとに美しく彩られます。


天満宮は全国に約12,000社ありますが、太宰府天満宮はその総本宮。つまり、数ある天満宮の中でも、天神様が永遠におしずまりになる聖地として崇敬を集めているのです。


菅原道真公
清らかな誠心で今も人々の尊崇を集める天神様太宰府天満宮の祭神である菅原道真公は、当代一流の学者であり、優れた政治家でもありました。


その生涯は国家と天皇家のために命をかけ栄達を極めた一方で、57歳の時、時の左大臣藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷となります。大宰府下向の跡は配所であった榎寺から一歩も出ることなく、約2年後、無実の罪が晴れることなく59歳で逝去しました。


後に時平の讒言を知った朝廷は、菅公の名誉挽回に努め、正一位太政大臣を追贈。菅公は天満大自在天神として、人々の尊崇を集めるようになっていったのです。


そのころ都は疫病も流行っていた。道真の祟り。と人々は恐れおののきました。
では八幡宮のご案内。

参道から道なりに進むと見えてくるのが「御神牛」です。
菅原道真公の生まれが845年(承和12年)、丑年だったことから、太宰府天満宮のいたるところに牛を象った銅牛や石牛が祀られています。まず目にするこの1頭は「御神牛」として有名です。


「牛の身体を触ると傷病などが治る」と言い伝えがあり、御神牛の前には参拝客が絶えません。受験生たちの聖地として知られるだけに、頭を触っていく人が多いため、牛の頭部が特にピカピカに、いかに合格祈願者が訪れているかを表しているようです。(苦しいときの神頼み、しかし自信がつきますね。)

御神牛と触れてお願いをしたら次は。
見えてくるのが「太鼓橋」や「心字池」。
漢字の「心」の字を象った池に掛かる御神橋三橋は
太鼓橋・平橋・太鼓橋の順番に3つの橋があり、それぞれ手前から過去・現在・未来の三世一念の仏教思想を残した物と伝わります。この橋を渡ると心身ともに清められるとも謂われています。 多くの人が記念撮影

菖蒲池
太鼓橋や心字池を過ぎると右手に菖蒲池」があります。
毎年6月初旬〜中旬頃になると、池のいたるところで約55種類、3万本ほどの「菖蒲(しょうぶ)」が咲き乱れます。残念ですが咲いていませんでした。

石鳥居

楼門
重層の入母屋造り、檜皮葺の二重門。全体は朱塗りされ、堂々たる風格にあふれた佇まいが見事です。慶長年間(1596~1615年)に石田三成が再興しましたが明治時代に焼失、1914年に再建されました


あまり知られてはいませんが、太宰府天満宮は「御本殿側」と「太鼓橋側」とで異なるデザインが採用されている、全国でも珍しい楼門です。朱色と金色がとても華やかで、御本殿に入るまえに気が引き締まります。



本殿
楼門をくぐれば、いよいよ本殿です。本殿は、周囲を回廊に囲まれた特別な場所に建てられています。
右側には「飛梅」、左側には「皇后の梅」が控えていて1月下旬〜3月下旬まで梅の花を楽しめます。


太鼓橋側の楼門から入り、向かって右側にあるのが「飛梅」。
菅原道真公が京の都を去るときに、道真公を慕っていた梅が一夜にして飛んできたものなのだとか。


「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
と歌に残っているほどです。
太鼓橋側の楼門から入り、向かって右側にあるのが「飛梅」。
菅原道真公が京の都を去るときに、道真公を慕っていた梅が一夜にして飛んできたものなのだとか。
「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」
と歌に残っているほどです。
梅の開花時期に合わせて向かったのですが、残念ながら飛梅は思っていたほど咲いてはいませんでした。


皇后の梅 (きさきのうめ)
飛梅を鑑賞したついでにぜひ寄っていただきたいのが「皇后の梅」です。
飛梅が御本殿に向かって右側にあるのに対して、皇后の梅は左側に。大正天皇の皇后(貞明皇后)が1922年(大正11年)に自らお手植えされたことで知られ、紅のかわいらしい花をつけます。

池と絵馬堂

絵馬堂 九州に残る最大・最古の絵馬堂です



梅ヶ枝餅
太宰府にお参りに来たらぜひ食べたいのが、名物の梅ヶ枝餅(うめがえもち)
「梅」という名前がついていますが、これうめぼしなお入っていません。


この餅も、道真に関係しているそうで、この地に左遷され、苦しい生活を強いられていた道真のために、菅原道真公を不憫に思った近くの老婆が、麹の餅に梅の枝を添えて差し入れたのが始まりなのだとか。梅の枝を添えたことから梅ヶ枝ということです。
別の説では、梅の枝にもちを巻いて差し上げたとのあります。
何か、高山の冬の定番にありましたね、紅白の持ちをまき冬の花の無い季節の風物詩です。


お茶を頂きながら食べました。
このお餅、境内のそこここで販売しています。なんと言っても名物なんです。🤗


ちなみに、梅ヶ枝餅は一見するとどれも同じに見えますが、お店によって特徴が異なるようです。2か所で買い求めました。食べ比べをしてみると、生地がもっちりとしていたが、もう一カ所はカリッとしていていました。私はカリとしている方がいいですね。


菖蒲池

志賀社


手水舎のすぐそばにひっそりと佇んでいるのが「麒麟(きりん)」と「鷽(うそ)」。
麒麟とは中国における神獣の一体で、神の使いとして聖人の表れを示すものとして信じられてきました。太宰府天満宮の麒麟は1852年(嘉永5年)に制作されたとされ、躍動感のある姿が見るものを圧倒します。


鷽(うそ)は毎年1月7日に開催される神事、「鷽替え」とゆかりのある鳥です。昨年の厄災を「嘘」として、今年に幸運を運んできてくれる守り神。ありがたい像のひとつです


石鳥居
太鼓橋や心字池を見てから進むと、「石鳥居」が見えてきます。こちらの石鳥居は太宰府天満宮の1000年記念に建設されたものですが、敷地内には九州最古とされる鳥居もあります。
(写真がありません)



うそのおみくじ
うそのおみくじがありました。木彫りのうその中に丸めたくじがあるのです。
何が出たかは内緒・・・うその木彫りは持ち帰りましたが、今は行方不明。


大樟
御本殿に向かって左側、皇后の梅側の門をくぐると見えてくるのが「大樟」です。
境内には約80本の樟があり、太宰府天満宮のいたるところにそびえ立っています。


なかでも、県指定天然記念物に指定されるものが51本。そのうち2本は樹齢千年を超えるとも言われ、国指定天然記念物に指定されています。


国指定天然記念物の大樟の1本を拝んできましたが、木の下からではてっぺんが見えません。太宰府天満宮のひそかなパワースポットのひとつです。


夫婦樟
御本殿を参拝したあと、御本殿側の楼門をくぐると目の前に見えてくる2本の樟のことで、より添うように支えあいながら立っている様子はまるで夫婦のようです。


夫婦樟に夫婦やカップルでお参りすると末長く一緒にいられるとされ、人気のパワースポットの1つになっている。(写真はありません)


梅林
菅原道真は梅を愛しており、彼が太宰府に左遷されたとき、道真が愛でていた梅が一夜のうちに京都から飛来してきたという伝説があります。そのため、現在もその梅と伝えられる木が「飛梅」(とびうめ)として境内に植えられています。


他に約200種、約6,000本もの梅が植えられているそうです。




太宰府政庁跡
住所:福岡県太宰府市観世音寺4-6-1


西日本鉄道大牟田線都府楼前駅から北東に徒歩10分、福岡県道76号筑紫野太宰府線沿いにあります。


太宰府とは古代大和朝廷の地方統治機関
太宰という名称の文献上での初見は『日本書紀』推古17年(609年)の筑紫大宰であるが、当時、太宰は、筑紫だけではなく東国・播磨・吉備・周防という大和朝廷にとって地方統治上で必要な要衝に置かれていた。その役割は、地方の豪族の国々を監視し、かつ大和朝廷の意向に沿って統治することにあった。しかし、大和朝廷の力が増し律令制的な国司制が推し進められるとともにその役割を終え、ついに701年の大宝律令制定によって、筑紫太宰府を除き、他の全ては正式に廃止された。


なぜ筑紫太宰府だけが残されたか
何故筑紫太宰府だけが残されたのであろうか。それは大和朝廷に於ける筑紫という地に全ての理由があった。筑紫は朝鮮半島に最も隣接した地で、古来より大陸の政治・文化・宗教そして人などあらゆるものが、この地を通して伝わってきた。その逆もあった。古代よりこの地は大和朝廷の朝鮮半島政策のための外交・軍事上、重要な拠点でもあったのである。


即ち大和朝廷にとって筑紫は、東アジア諸国との外交・貿易・軍事上、極めて重要な地であり、ここを大和朝廷の直轄地として押さえ、特別な権限を持たせた軍事・行政機関を置くことは当然の帰結であったといえる。


このように筑紫太宰府は、東アジア諸国に最も隣接するという立地故に生じる役割、即ち辺境の防衛と外交・交易窓口という、他の太宰府とは全く異なった役割を担っていた故に存続どころか、さらなる強化が人・物両面において必要であった。


そして今ひとつは、大和朝廷にとって、西海道九国三島は、過去から磐井の乱、隼人の抵抗などの歴史的背景を持つ地域であり、このために他の地方より強力な権限を持たせた軍事・行政機能を持たせた機関を置く必要が依然として残っていた。そのため他の地方統治機関・太宰府が廃止される中であえて存続させる必要があったといえる。
  「白村江の戦い」の敗戦によってさらに高まった筑紫太宰府の役割
筑紫太宰府の重要性を決定的にしたのは、大宝律令が制定された時の38年前に遡る663年の「白村江の戦い」での大敗であった。その敗戦によって大和朝廷(天智天皇)は、東アジアの巨大国家・唐による侵攻はやがて、大和朝廷の壊滅という、かつて経験したことのない恐怖の極みに立たされたのである。


その恐怖が如何に大きいものであったかは、敗戦の翌年から始まる矢継ぎ早の対馬、玄海、有明海への広範囲にわたる防衛網の構築、さらに4年後には飛鳥から近江大津へ遷都までもが行われたことが、何よりも物語っている。


その防衛網の最前線の統合参謀本部として役割を担ったのが筑紫太宰府である。そしてその太宰府の政務を執行する館として置かれた場所が現在の政庁跡地である。 こうして大和朝廷にとって筑紫太宰府の重要性はこの時頂点に達したのである。


太宰府政庁建設の歴史----創建以降、二度、建て直されていた太宰府政庁
この太宰府政庁跡は、発掘調査の結果、創建時を含め三回の建て替えが行われたことが判明している。そして、われわれが現在、見学している太宰府政庁跡の礎石等は、この最後の三回目のものであることが明らかになっている。


太宰府の終焉
再建後と思われる天徳2年(958)大宰大弐・小野好古が安楽寺天満宮で曲水宴を、康保1年(964)同じく安楽寺で「残菊の宴」を行うなど記録が残り、この頃までは太宰府は朝廷の西海道を治める府として権威と権力を保持していたのであろうと推定されている。


しかし、太宰府を根源的に支えていた律令制度そのものが実質的な崩壊が進んでいたこの時代に在って太宰府の終焉はもう間近であった。


寛仁3年(1019)、高麗の北方のツングース系民族・女真が北九州一帯に来襲し、一部記録されているものだけでも、殺害された者・数百人、連れ去られた者・千余人など甚大な被害を受ける事件が発生する。「刀伊の入寇」である。結果としては太宰権師・藤原朝臣隆家らの奮戦で撃退するものの、太宰府はこれ以降急速に衰退に向かったのではないかと考えられている。


だが、果たして、太宰府が何時ごろまで存続していたかなど定かなところは、確実な史料が無いなど研究は進んでおらず、残念ながら不明である。


    (太宰府研究論文より転載)



現在の太宰府政庁跡は史跡公園として整備され、正殿の巨大な礎石をはじめ政庁の全体を基壇跡や遺構、説明パネルによって案内されています。


太宰府は、わが国の朝鮮や中国の先進文化の受け入れ窓口として、そして何よりも国防・外交上で大変重大な役割を担っていたところである。その太宰府の歴史を知ることは古代日本の政治・外交・軍事・文化を知ることに直結するといっても過言ではないだろうか。
ところで、この政庁跡の発掘調査が開始されたのは太平洋戦争敗戦後23年も経った昭和43年からだということである。
明治維新から、昭和初期までは富国強兵で、そのような学術的研究など一切行われていないのが現状で、今でも多くの遺跡が発掘され。日本は相当進んだ国であったことがわかる。


太宰府政庁南大門跡


太宰府政庁中門跡


太宰府政庁東脇殿礎石
東廻廊跡



正殿に立つ3つの石碑
大宰府政庁跡の正殿にはシンボルともいえる3基の石碑があります。ともに大宰府を顕彰するために建てられたものです。


12世紀頃に大宰府政庁が廃絶した後は、荒廃して野に帰していきました。15世紀の宗祇が記した『筑紫道の記』には、現在は朝倉町に推定されています「天智天皇の木の丸どの」とあり、既に誤った認識が廃絶後、300年ほど経過した室町時代には定着していたことが分かります。
江戸時代には、博多の聖福寺の住職仙厓が「あれはてし西の都に来てみれば 観世音寺の実相の鐘」と詠んでいるように往時の繁栄ぶりは跡形もなくなっていたのでした。
福岡藩では、江戸時代後期、礎石数を調査したり、礎石を採ることを禁じるなど、現在の史跡保存の先駆けとも言える措置を講じたりしましたが、明治時代になっても標石などもなく、礎石や瓦などが持ち去られていくばかりでした。


このような状況を憂いた乙金村(現在の大野城市乙金)の大庄屋高原善七郎は、明治4年に自費で「都督府古址」の碑を建立しました。それが中央の石碑です。


高原善七郎はそのほか、岩屋城の絵図に基づいて現地を調査するなど、太宰府周辺の文化財の調査・保存・顕彰に努めた人物でもあります。


左手にある石碑は、政庁跡が忘れ去られていくことを恐れた御笠郡の人々が、明治13年(1880年)、福岡県令渡辺清に文を撰してもらい、大宰府の由来を記したものです。


一方右手の「太宰府碑」は、福岡藩東学問所修猷館に対する西学問所甘棠館(かんとうかん)の教授亀井南冥(なんめい)が、寛政元年(1789年)に撰したものです。ところが、その文中の「まさに今、国邑を封建し、名器いにしへえにあらず」という箇所が勤王精神の表れととられ、藩の建立の許可が出ないばかりか、教授の罷免という処分を受けることとなりま
最期のなりましたが、道真公のお住いです。
ここから一歩も出ていないそうです。


榎社
菅原道真公の住居跡
ここは大宰府へ赴任した高級官人の官舎である鴻臚南館の一部だったと言われており、菅原道真公が901年に大宰府へ左遷されてから903年にお亡くなりになられるまでの住居の跡でもあります。
1023年に大宰府を治めた藤原惟憲が菅原道真公を弔うために浄妙院を建立。
境内に榎の大木があったため後に榎寺(明治の神仏分離で榎社へ)と呼ばれるようになったそうです

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