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京都 大徳寺 信長の葬儀 利休の切腹 金毛閣 三唐門

2021年10月6日記事修正、加筆しリライトしました。
大徳寺
住所:京都市北区紫野大徳寺町53
宗派:臨済宗大徳寺派
山号:寶山
電話:075-491-0019
駐車場:あります
交通機関
「JR京都駅」より京都市営バスで約30分、「大徳寺前」で下車するか「京都市営地下鉄烏丸線北大路駅」より京都市営バスで約5分、「大徳寺前」で下車
2010.4.7

三門
応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、のち千利休により二階部分が設けられ金毛閣と名づけられた。


三門とは、龍宝山の門、三門とは、三解脱門(空門・無相門・無作門)のこと。一端、山門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを言います。


駐車場からすぐにあります。二階部分が、千利休によって増築され、金毛閣と称し、利休の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の原因となった話は有名です。


利休を重く取り入れていたが、途中からあまり意見を聞かなくなった利休を疎んじるようになっていった。そこで利口な石田光成が金毛閣陰謀(告げ口、巧みな言葉、利休の足元をくぐる。武士は人の股をくぐるということは非常に恥辱であった。これにより切腹、しかし家族には類をよばなかった)。


鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃します。この時代京都の寺はいたるところで影響がありました。


このお寺は、荒廃した寺を、一休和尚が当時の天皇の頼みで復興。


桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を盛大に営みましたが、柴田勝家は自分の軍を連れて行けないことから欠席、秀吉はしめたと、勝家の排除を試み、ここから織田一族の悲劇が始まった。


これがもとで柴田勝家と戦争状態、秀吉の策略で勝家は葬儀に出席できない。賤ヶ岳の戦で惨敗し、結局お市の方とともに自決)秀吉は信長の菩提を弔うために「総見院」を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。


この寺には一休和尚が住むことはなく、自分の寺(一休寺)から輿に乗って通っていた。

勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、七堂伽藍が完備する。

勅使門
山門前にある、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、慶長2年(1596-1614)建立された御所の門を、寛永2年(1640年)後水尾天皇より拝領したと伝えられる。
平成12年、屋根等修復。




仏殿
当山第一世大現国師により創建せらるるも応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるも、寛文5年(1665)那波常有(京都の豪商)によって改めて建造。


中をのぞくと薄暗く、天井画何が書かれているのか、龍だと思っていたがよく見ると、二人の飛天です。色もはげ落ちているのが残念です。

法堂
正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始める。ここも応仁の兵乱によって消失。一休和尚、仏殿を再建されて後、仏殿と兼用であった。


江戸時代寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、小田原城主稲葉丹後守正勝の、遺命によって息子正則が現在地に再建。


天井の龍は、狩野探幽35歳の作品。


現在非公開ですが、公開されることがあるので、公開される日が楽しみです。


唐門
今は方丈前庭にあるが、明治の中頃まで勅使門の西にあった。豊臣秀吉が造営した聚楽第から移築の遺構と伝えられる。


聚楽第とは、秀吉が京都に造営した御殿で、後陽成天皇の行幸を仰ぎ天下にその威力を示した。のち関白を養子秀次にゆずり、秀次の居宅になった。


のち秀次に謀反の罪をきせ断罪、(高野山で切腹させる、家族女子供腰元数十人を処刑した。このことで秀吉の勢力は瓦解したと言える。


これも光成が秀吉亡き後天下を牛耳るための画策したと私は思います。しかし、家康をどう殺すかが問題。)聚楽第を破却した。その時、破却をまぬがれたと伝えられる。

「桃山の三唐門」の一つとされる絢爛豪華な唐門(国宝)であり、施された彫刻を一日中見ていても飽きないことから「日暮門」とも呼ばれています。


方丈
本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)
江戸時代初期を代表する枯山水。
方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。


方丈前庭(ほうじょうまえにわ)
「一枝坦(いっしだん)」とも呼ばれるこちらの庭園は余分なものを取り除いた禅宗独特の枯山水庭園で、神仙思想に説かれる蓬莱山(ほうらいさん)の理想の世界を表現している。


方丈内の襖絵八十余面(重文)はすべて狩野探幽筆である。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第二日曜日公開)


この様に看板があるが立ち入り禁止です。


なかには特別拝観期間しか見られないお寺もあるので、御朱印を集めている方は、貴重になります。私は、御朱印帳もたくさんあり、年金生活で300円は限界。
(※"京都観光Navi"参照)



京都大徳寺の見どころ
侘びさび感じる庭園「龍源院」
まずご紹介する「大徳寺」の見どころは「龍源院(りょうげんいん)」。
「龍源院」には5つの庭園が配されていて、境内のいたるところに見事な苔が生えているので「洛北(らくほく)の苔寺」という通称で知られています



高桐院 こうとういん
細川家菩提寺
「高桐院」の"青もみじ"!春夏には竹林や青もみじが生え、その涼やかな緑に癒されます。



大徳寺の塔頭のひとつ。慶長6年(1601)に細川忠興が建立。書院は千利休の邸宅を移築したもので、茶室松向軒は秀吉が天正15年(1587)に北野で大茶会を催したときの茶室を模したものと伝わる。


細川忠興とガラシャ夫人の墓があり、忠興の墓塔は、もとは千利休からゆずられた灯籠で、秀吉に召し上げられるのを恐れて裏の一部を欠かしたという。方丈南庭は、新緑・紅葉ともに美しく、とくに落葉が降り積もる晩秋は風情豊かです。













大仙院
永正6年(1509年)に大徳寺第76世の大聖国師古岳宗亘(こがくそうこう)が開いた寺院です。数ある塔頭の中で、真珠庵、龍泉庵、龍源院とともに、大徳寺4派の一つ北派の本庵として栄えた寺院です。



枯山水の名園として広く知られている大仙院の庭園は、開山古岳和尚の作庭になる庭園であることが大仙院に伝わる文書から判ります。


史料には古岳和尚の作庭の手腕が高く評価されていたことも記されており、作庭当時から名園の名が高かったことが想像されます。また、庭園が面する国宝の本堂(方丈)は永正10年(1513年)に建築されたもので、庭園と建築が一体となって作庭当時の姿を今に伝えている点でも大変貴重なものと言えます。

庭園は本堂の四方に展開しており、南側は玄関脇の白砂敷に二つの盛砂が並べられて大海を表し、西側はやはり白砂敷の上に数個の石と1本の樹木が植えられた簡素なものとなっています。しかし、本堂の東側に歩みを進めると、廊橋の手前、白砂敷の上に船の形に似た石などが据えられた見事な枯山水の庭が見えます。ここは大河を表し、石は「長船石」「釣船石」とも呼ばれています。


この廊橋を過ぎると、庭園の北東角に見事な大石で組まれた堂々たる滝石組が現われます。滝石組の前には、石橋が架けられ、また周囲にはツバキやゴヨウマツが植えられ、深山幽谷の風景を見せています。


小さな敷地の中に山の水が川の流れとなって廊橋を隔てた大河へ、さらに南側の大海に流れ込む様子が象徴的に表現されています。


こうした枯山水庭園は、平安時代に編纂された作庭書である「作庭記(前栽秘抄)」にも記されており、京都でも古くから造られていたものと考えられますが、庭園を限界まで縮めた大仙院のような作庭が行なわれて枯山水の庭のあり方が定まったと考えられます。


室町時代から江戸時代にかけて京都でも多くの枯山水庭園が造られましたが、大仙院の庭は枯山水の代表的な庭園として、江戸時代に発行された作庭書などにもその名が挙られてます。


『作庭記』(さくていき)とは平安時代に書かれた日本最古の庭園書である。『作庭記』の名称は江戸時代中期に塙保己一の編纂した『群書類従』に収められて流布したもので、それ以前は『前栽秘抄』と呼ばれた。まとまった作庭書としては世界最古のものと言われています。


『作庭記』は寝殿造の庭園に関することが書かれており、その内容は意匠と施工法であるが図は全く無く、すべて文章である。編者や編纂時期については諸説あるが、橘俊綱であるとする説が定説となっており11世紀後半に成立したものと見られている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より索引


枯山水庭園の原形ともいえる大仙院の庭は、その歴史的価値の高さや、その造形意匠の素晴らしさから、名勝の中でも特に価値の高い特別名勝に指定されて、今に至るまで古岳和尚作庭の禅の思想をそのままに残してい


ぜひ行きたいところ
黄梅院 おうばいいん 特別拝観
住所:京都市北区紫野大徳寺町83-1
千利休ゆかりの地「黄梅院」
「直中庭(じきちゅうてい)」で有名な「黄梅院」は京都通や庭好きに知れた穴場観光スポットですね。秋には美しい紅葉が楽しめることが出来、あまり知られていないので、紅葉が見頃の時期には比較的ゆっくり堪能できます。


特別公開
利休作庭「直中庭」を持ち、美しい苔とモミジが訪れる拝観者の目を楽しませる。織田信長、豊臣秀吉など戦国大名ゆかりの寺院、大徳寺黄梅院が公開されます。


毛利元就の三男で豊臣秀吉政権の五大老をも務めた小早川隆景の寄進による、禅宗寺院において現存最古の庫裡や、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰ったとされる釣鐘、また狩野永徳や長谷川等伯と並ぶ桃山時代の日本画家、雲谷等顔の障壁画(複製)などが公開されます


臨済宗大徳寺派大本山、大徳寺の塔頭寺院。永禄5年(1562)、当時28歳の織田信長が初めて上洛した際に、父・信秀の追善菩提のために小庵「黄梅庵」を建立したことに始まります。


本能寺の変によって信長が急逝すると、羽柴(後の豊臣)秀吉がこれを徐々に増築し、天正17年(1589)に「黄梅院」と改めました。
庫裡、鐘楼、客殿などは小早川隆景が寄進したもので、鐘楼に使用されている釣鐘は加藤清正が献上したもの、秀吉の軍旗「千成瓢箪」を象った空池を持つ「直中庭」を千利休が作庭するなど、桃山時代の戦国大名、文化人と非常に縁の深い寺院です。


情報
公開内容
千利休作庭「直中庭」
武野紹鷗好み茶室「昨夢軒」
方丈庭園「破頭庭」
雲谷等顔筆 本堂障壁画(重文・複製)
庫裡(重文)
拝観休止日
10月28日
新型コロナウイルス感染拡大防止の為、ご来寺の際は検温、マスクの着用をお願いいたします。尚、境内の解説・ご案内を控えさせていただきます。
感染拡大した場合、拝観を中止する恐れもございます。
※(境内は前庭以外撮影禁止です。)


お手洗いは大徳寺駐車場のお手洗いをご使用ください。
建物の構造上、車いすでの拝観はできません。
杖をお使いの方のため、杖カバーをご用意しております。
文化財保護のため、お荷物は体の前に抱えてご拝観をお願いいたします。
境内ではスタッフの指示に従ってください。拝観の妨げになると判断した場合は、拝観料をご返納の上、お引き取りいただきます。


暴風警報や大雨警報、地震など、文化財保護の為や拝観に来られる方に危険と判断した際は、事前の予告なく拝観休止とさせていただきます。休止を決定した時点で当HPやFacebook、Twitterにてお知らせいたします。



瑞峯院
キリシタン大名として知られる大友宗麟(そうりん)が1535年に創建されたとしているお寺です!表門や唐門は創立当時のものを今でも見ることが出来ます
「瑞峯院」には3つの庭園があり、どこも趣が感じられる素敵な場所。


瑞峯院
大徳寺の総門から入って歩いていくと瑞峯院の案内があります。
キリシタン大名として知られる大友宗麟(そうりん)が1535年に創建されたとしているお寺です!表門や唐門は創立当時のものを今でも見ることが出来ます


実は重森三玲氏がキリシタン大名として知られている大友宗麟(そうりん)のことを想い、庭に斜めに配置した7つの石で十字架をかたどることで万民の霊を弔っているそうです。


「瑞峯院」には3つの庭園があり、どこも趣が感じられる素敵な場所。
方丈の東側には、灯籠と四角いつくばいが置かれた小さい庭があって、その灯籠を背にして「閑眠庭」をみるのが見方。灯籠は閑眠庭に方に向かい30度くらい回転して置かれています。

石をつなげると十字架になる。

千利休の妙喜庵待庵写しの茶室「平成待庵」
閑眠庭(かんみんてい)の奥には茶室が2つあります。手前に見える茶室は表千家の第12代家元・惺斎(せいさい)の指示で作られた安勝軒。

大徳寺にある茶室の中で唯一の逆勝手席だそうです。逆勝手席はお客が茶を点てる主人の左手に座る茶席で、左勝手ともいいます。

安勝軒のさらに奥(北)には、「待庵(たいあん)」を写した茶室「平成待庵」があります。
「待庵(たいあん)」は、京都山崎の妙喜庵(みょうきあん)にあり、千利休が作ったと伝わる日本最古で国宝の茶室です。
平成待庵は、事前の予約をすれば見学をすることもできます。


大徳寺納豆とお抹茶を
庭園を堪能して受付に戻り、お抹茶をお願いすると茶室に通してもらいました。お抹茶がいただける茶室は受付の近くにある茶室。安勝軒

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