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福井県  丸岡城 北陸唯一の現存天守

国宝を目ざす丸岡城、しかし、天守は江戸時代築だった‼ 
でも、国宝でもおかしくない。


丸岡城(霞ヶ城) 重用文化財
住所:福井県坂井市丸岡町霞町1−59
0776-66-0303


北陸自動車道丸岡ICから、約5分。
JR福井駅前京福バス乗り場から「丸岡線」に乗車、約50分。終点「丸岡城」停留所下車すぐ。バスは、30分に1本程度あります
天主閣で真っすぐの階段は珍しい。


丸岡城の周辺は、日本庭園式公園の「霞ヶ城公園」として整備されており、歴史的・文化的資源を有効に活用している公園として、「日本の歴史公園百選」に選ばれています。


丸岡城天守を取り囲むようにソメイヨシノが植えられているこの公園は、「日本さくら名所100選」にも選ばれている。



外観は二階建てに見えますが、内部は三階建て(二層三階)となっていて、城内へは急な石段を登って入ります。
一階から二階、二階から三階へは、急な階段を登り綱の助けをかりながら上がります。


最上階三階の望楼は、ふもとから約35mの高さ。天気が良ければ四方の窓が開け放たれ、当時の城主が眺めたものと同様の丸岡の町並み、坂井平野の田園風景を、さえぎるものなく見渡せます。

最上階


一階の壁には、「石落とし」や「狭間(さま)」を見ることができます。
石落としは、ベランダのように天守から張り出していて、天守の石垣を登ってくる真下の敵に石を落としたり、弓や鉄砲を撃ったところ。


狭間は、天守の壁面に空いている小さな穴や小窓のことで、石落とし同様、ここから石を投げたり、弓や鉄砲を撃つことができました。狭間は、様々な形・大きさで、他の階でも見ることができます。


江戸時代に造られた城は、城主の権威を示すため、大きく立派で多層式のものが目立ちますが、丸岡城内は戦国時代の雰囲気。豪華さや優美さより、いたる所にある敵に対する備えの方が目を引きます。


丸岡城築城前、この辺りの拠点は丸岡城より東方約4kmのところにあった「豊原寺」でした。豊原寺は、三千坊ともいわれる宿坊が立ち並ぶ大きな門前を有していました。


1573年、織田信長は、当時越前を治めていた戦国武将「朝倉義景」を討ち、都があった一乗谷を焼き払いました。すると、豊原寺をはじめとしたこの辺りの一向宗の勢力が増したため、1575年、再度織田信長が「越前平定」のため越前に攻め入り、豊原寺などの一向宗の拠点を焼き尽くしました。


その後、柴田勝家の甥「柴田勝豊」がその豊原の地に居を構えましたが、翌1576年「まるこの岡」と呼ばれていた現在の丸岡城の場所に城を移しました。


天守は近年の調査結果から、寛永年間(1624~1644)に建造されたとされています。
江戸・明治・大正と丸岡の町のシンボルだった丸岡城は、昭和9年には国宝の指定を受けました。しかし、昭和23年の福井大震災により天守が倒壊してしまい、現在の丸岡城は、当時の建材等を使って昭和30年に再建されたものです。


全国各地には、城やそれに関係する場所がいくつもありますが、現存する天守は全国で12しかなく、北陸では、丸岡城のみ。この丸岡城は、現存する最古の建築様式を有しているとされ、戦後に定められた「文化財保護法」で、天守は国重要文化財の指定を受けています。


お静の涙雨
初代城主柴田勝豊が丸岡城築城の際、天守の石垣が何度も崩れるので人柱を入れることになり、子をかかえて苦しい生活をしていた「お静」は、子を侍に取り立ててもらうことを条件に人柱となりました。


その後、丸岡城は無事完成しましたが、柴田勝豊は近江長浜へ移ることとなり、結局、お静の子は侍にはしてもらえませんでした。


それから、田植えの準備の頃になると、堀から水があふれるほど雨が降るようになり、人々はこれを「お静の涙雨」と呼ぶようになりました。


今でもこの時期に行われる丸岡祭(国神神社春季祭礼)は、天候に恵まれることが少なく、雨が降るたびにこの話を耳にします。


霞ケ城の由来
丸岡城築城後も一向宗の残党が城を襲うことがありました。しかし、その度に、天守横にある井戸から大蛇が現れ、城に霞をかけて城の危機を救ったと言われています。このことが丸岡城の別称「霞ヶ城」の云われだそうです。


現在は大蛇が噴き出す霞を見ることはできませんが、春、丸岡城を取り囲んでいる桜の花々の淡いピンクが霞のように見え、その中に丸岡城が浮かんでいるような幻想的な景色を作り出してくれます。


丸岡城主と日本一短い手紙
丸岡城主は、初代柴田勝豊からはじまり、その後明治維新まで17代続きました。
江戸時代に入ると、福井藩から丸岡藩が分藩され「本多成重」が初代丸岡藩主(丸岡城主としては6代目)となり、以後本多家が4代83年間、有馬家が8代174年間、藩主(城主)を務めました。


「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
この手紙は、徳川家康の忠臣「本多作左衛門重次」が、長篠の合戦(1575年)の折、陣中から妻に宛てて送ったもの。短い文章の中に大事なことが簡潔明瞭に言い尽くされています。この「お仙」とは、後の初代丸岡藩主になる本多成重(幼名:仙千代)のことです。
わずか四十文字の短い文に込められた想い。
(石碑があったように思いますが写真がありませんん)


これまで、戦国時代の天守として国宝を目指してきたのが福井県坂井市にある丸岡城。国宝指定には築城年を示す正確な史料が必要です。その史料に欠ける丸岡城では、天守の通し柱などの科学的な調査を実施しました。


その結果、なんと、戦国時代末期ではなく、江戸時代築だったことが判明したのです。戦国時代ではなく江戸時代の1620年代後半以降の用材だということが判明。
つまり築城は、早くても寛永年間(1624年~1644年)ということになったのです。


一階から二階、二階から三階へは、急な階段を登り綱の助けをかりながら上がります。


最上階三階の望楼は、ふもとから約35mの高さ。天気が良ければ四方の窓が開け放たれ、当時の城主が眺めたものと同様の丸岡の町並み、坂井平野の田園風景を、さえぎるものなく見渡せます。


慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)の一国一城令以降に建てられた天守は下層部と上層部を一体的に組み上げる「層塔型」が多いのですが、丸岡城は寛永年間(1624年~1644年)に望楼型で建築されたことになるという矛盾がありました。


丸岡城は下層部の上に望楼部分を載せる「望楼型」
丸岡城の天守閣は、外観と骨組みで異なる構造を持ちます。これは全国でも珍しく、ほとんど例がありません。


天守閣の外観は「望楼型」である一方、骨組みはその後、田植えや藻刈りの季節になると、塀から水が溢れるほど降水量が増加。人々は、約束を反故にされたお静の霊による所業だと考え、この時期の雨を「お静の涙雨」と呼ぶようになり、小さな祠を建てました。「お静の供養碑」と祠は、天守閣の登り口にあります。


石の鯱
天守入り口への石段の足元に置いてある石製の鯱。もともと木彫銅板張りであったが、銅板の入手が困難な戦時中にやむなく石材で作ったが、昭和23年の福井大地震時に棟より落下したもの。現在の天守は、その後の修復時にもとの木彫銅板張りに復元している。

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