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西国三十三カ所観音巡礼の旅 岩間寺:石山寺・三井寺

第二回目の旅
西国三十三カ所の本尊は、七種類の観音像です。
聖空観音像・十一面観音像・不空羂索観音像・如意輪観音像・馬頭観音像・准胝観音像
千手観音像


第12番札所 岩間寺  


車で山道を上がっていきます。
広い道路ですから便利です。


このお寺の奥から上醍醐に尾根沿いで行けます。
正式名称は正法寺といいます。


所在地:滋賀県大津市石山内畑町82
山号:岩間山
宗派:真言宗醍醐派
本尊:千手世音菩薩
創建:養老6年(722年)
開基:泰澄
電話:077ー534ー2412
御詠歌:水上は いづくなるなん 岩間寺 岸打つ波は 松風の音


ぼけ封じ観音第4番札所でもある。
岩間山の山上(標高443m)車で麓から8~10分
元正天皇の病気平癒祈願に功績のあった泰澄が養老6年(722年)岩間山中の桂の大樹から千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身大の千手観音を刻んだ、元正天皇の念持仏を其の胎内に納め祀ったのが当寺の始まりであった。


現在はその仏像は現存していないが、その切り株から芽生えたとされる木が本堂前に
あり、「ご霊木」として保存されています。
ご霊木は夫婦のように二股になって立っている。


金銅千手観音立像
千手観音は別名「汗かき観音」「雪除け観音」とも呼ばれている。
  伝承によれば元正天皇の念持仏で、当初の本尊の胎内仏とされたもの。像高は4寸8分(約15cm)。現在は本堂の三重の厨子に納められ、秘仏とされています。


毎夜日没時に厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡って人々を救済し、日の出とともに岩間山へ戻る際には汗みずくとなっていると言われている。


伽藍
本堂は、天正5年(1577年)に再建、寛永年間に解体修理された。
本堂脇の不動堂はたびたび立て替えられ現在のものは平成5年の建物。


本堂に面して東側に小さな池(蛙池)があり、これが松尾芭蕉の池と呼ばれ、句碑が建っているので確認。


「古池や蛙飛び込む池の音」 この有名な句にある池がこの池であると言われています。
この話は各地にありますが、なるほど古池だという雰囲気は十分味わうことができます。


第13番札所 石山寺   紫式部が源氏物語を執筆したところです。
 秋のお月見でも有名です。これは素晴らしく美しい是非ご覧ください。
            
 京都、大覚寺もお月見が有名です。ぜひ一度足を運んでください。時代劇などのロケ地としても有名です。


所在地:滋賀県大津市石山寺1-1-1
山号:石光山
宗派:東寺真言宗
本尊:如意輪観世音菩薩
創建:天平19年(747年)
開基:良弁、聖武天皇(勅願)
電話:0777ー537ー0013
御詠歌:後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの近いおもき石山


境内は広く1時間は見ておいてください

参道入り口にある門は、入母屋造り、瓦葺、建久元年(1190年)の建立石山寺東大門  ここに仁王さんがいます。


近江八景の一つ「石山秋月」が有名。私も2度秋月を観に行きました。
夕方に行き駐車場の前の売店で食事をしてから、お寺に入ります。お参りをしてから
所定の場所に行きます。もう感激です。一度お出かけください。



近江八景

比良暮雪 
雪ふるる 比良の高嶺  夕暮れは花の盛りに すぐる春かな


堅田落雁
峯あまた 越えて越路に まづ近き堅田になびき 落つる雁がね


唐崎夜雨
夜の雨に 音をゆづりて 夕風をよそにそだてる 唐崎の松


三井晩鐘
思うその 暁ちぎる はじめとぞまづきく三井みいの入あひの声


粟津晴嵐
雲はらふ 嵐につれて 百船も千船も浪の 粟津に寄する


矢橋帰帆
真帆ひきて 矢橋に帰る 船は今打出の浜を あとの追風 


勢多夕照
露時雨もる山遠く 過ぎきつつ夕日のわたる 勢多の長橋


石山秋月
石山や 鳰の海てる 月かげは明石も須磨も ほかならぬ哉


本堂は国の天然記念物の珪灰石という巨大な岩盤の上に建っている。これが石山寺の由来いともなっている。
清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多く見られる懸け造となっている。


  聖武天皇の発願により、天平19年(747年)良弁東大寺開山別当が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされています。


聖武天皇は東大寺の大仏造立にあたり、像の表面に鍍金を施すため大量の金が必要とであり、そこで良弁に命じ、黄金を得られるよう、吉野の山の金峯山に祈らせた。金峯山はその名のとおり「金の山」と信じていたようで、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現れ「金峰山の黄金は(56億年7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現れた時に地を黄金で覆うため用いるものである、だから大仏鍍金に使うことはできない、近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現れたまう土地がある。そこに行って祈るがよい」と告げられた。


夢のお告げに従い良弁は石山の地を訪れた。
比良明神の化身であった老人に従い巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金剛如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。


2年後、実際に陸奥の国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。
昔は何か重大なことがあるたびに元号が変わったようです。


どうしたわけか聖徳太子念持仏の6寸の金剛如意輪観が岩山から離れなくなり、やむなく如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の創建とされたようです。


現在の本堂(国宝)は永長元年(1096年)の再建
東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源の頼朝の寄進により建てられた。その後兵火により一度も遭わず、建造物、仏像、経典、文書など貴重な文化財を多数保存されています。


「枕草子」208段には「寺は壼阪、笠置、法輪、霊山は釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山、粉河、志賀」とあり、更級日記の筆者菅原孝標女も石山寺に参篭している。


紫式部が参篭した際、八月十五日夜名月の晩に「須磨」「明石」の巻の発想を得たとさる。石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。人形もいました


この石山寺は
多くの歌人が訪れています。
更級日記の作者


また
和泉式部日記にも「つれづれもなぐさめとて、石山に詣でて」とあり和泉式部が敦道親王
との関係がうまくいかず、むなしい気持を慰めるために籠った様子が描かれている。

本堂右側
紫式部が源氏物語を書き始めた「源氏の間」

 紫式部の人形がいます。
よく見えなくてすみません中央の白い顔が紫式部です。

ここで紫式部は階段を散策したのかなまたここから振り返ると紫式部が見た風景がそのみあるのです。

多宝塔(国宝)・・・・・日本三塔の一つ
 建久5年(1194年)建立、年代のわかっている範囲では日本で最古の多宝塔である。私は、多宝塔(大塔ともいわれる)がとても美しいく魅力的だと思っている。
ここの多宝塔内部には快慶作の大日如来が安置されています。

月見台
松尾芭蕉のゆかりの芭蕉庵
瀬田川を見下ろす眺望の良い位置に建っています。
ここでのお月見が絶景です。


この中には入ることはできません。


映画「源氏物語千年の謎」のロケ地となりました。


鐘楼
鎌倉時代の建立で重要文化財

毘沙門堂
1773年建立

珪灰石の一部

毎年10月に開催される
昼間と夜間区別される。夜間は18時開門21時閉門となります。


昼間は入山した方はいったん出ます。扉は閉じられ18時の開門まで待つことになります。


昼に入り撮影 縁の下の石
ここで妊婦は休憩したと伝えられる。


閉門 また徐々に人が集まります。

キャラクターの大津「ひかる君」

開門と同時にぞろぞろ入る見学者たち


ライトアップされた本堂右の源氏の間

芭蕉庵に上がる月・・・・感動です。



 本殿で催されは舞
すごく優雅でした。



第14番札所 三井寺   大津絵と弁慶の引きずり鐘が有名です。
所在地:滋賀県大津市園城寺町246
山号:長等山(ながらさん)
宗派:天台寺門宗
本尊:弥勒菩薩
創建:7世紀
開基:大友与多王
正式名:長等山園城寺
御詠歌:いで入るや 波間の月を三井寺の 鐘の響きにあくる湖


お前立六臂如意輪観世音菩薩
顔をすこし傾け指は頬にあて、軽く肩膝を立てられている姿、実に優美で端正な雰囲気秘仏である本尊は平安時代の作、木造漆塗、国の重要文化財に指定されています。


ここも近江八景の一つである。
展望台からは大津市内と琵琶湖が一望できそれは素晴らしい大パノラマが満喫できます。

壬申の乱に敗れた大伴皇子の霊を弔うため、その子の大友与多王が田園城邑を寄進して寺を創建。比叡山との抗争でたびたび焼亡しています。


豊臣秀吉によって寺領を没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」と称されていま。 


三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」あかいや(重文)
この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったといわれている。
中をのぞくと水の中にしめ縄をした岩がある。それほど水が湧いていないが、ゴボゴボ音がする。不思議です皆さんも試してください。


この閼伽井屋の正面上部に左甚五郎作の龍の彫刻がある。
この龍は夜な夜な琵琶湖に出て暴れたため、甚五郎自ら龍の目玉に釘を打ちこみ鎮めたという伝説がある。

内部

弁慶の引摺り鐘
霊鐘堂-霊鐘「弁慶の引摺鐘」(重文)を安置しています。
奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮からも持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えられている。


その後山門(延暦寺)との争いで弁慶が奪い比叡山に引き摺り上げて突いてみると
「イノー・イノー」・・「関西弁で帰りたい」と響いたので・「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。その時と思われる傷痕や破目などが残っています。

梵鐘
鐘楼の鐘は「三井梵鐘」と言われ、姿の平等院、銘の神護寺、声(ね)の三井寺
と言われている。


慶長7年(1602年)に准三宮道澄が弁慶の引摺り鐘に模して鋳造したと伝えられています。

村雲橋
この橋の上で智証大師が、入唐の際に学んだ長安の青竜寺が焼けていることを感知され、橋上から閼伽水をまいたところ下から雲が湧きおこり雲霧となり青竜寺の火を鎮めたという。青竜寺からお礼があったともあります。

三重塔(重文)
鎌倉時代末期から室町時代初期の建築。奈良県の比曽寺にあった東塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)、徳川家康が再度移築させたもの。

一切経経堂
ここに納められた一切経は高麗版として名高い。
八角輪蔵が置かれている。
慶長7年毛利輝元が山口県の洞春寺より移築したものです。


輪蔵というのは回る書架ということで、図書館のようなもの、これはところどころのお寺にあり回すことで、すべてのお経を読んだことになります。
またここは、千鳥破風がついており珍しい。


金堂

大津絵

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