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四国八十八ケ所車でお遍路の記録/第48番西林寺・第49番浄土寺

一部記事追加 リライトしました

菩提の道場:第40番~第65番札所:伊予の国(愛媛県)


第1番札所から906.1㎞
第48番西林寺(さいりんじ)
住所:愛媛県松山市高井町1007番地
山号:清滝山(せいりゅうざん)
院名:安養院(あんよういん)
宗派:真言宗豊山派
創建:伝:天平13年(741)
開基:伝:行基
御本尊:十一面観世音菩薩
☎:089-975-0319
駐車場:無料、普通20台、大型2台
松山自動車道・松山ICから国道33号を砥部町方面へ。松山道高架下を左折。約15分。
交通機関
JR予讃線松山駅から約11km
松山駅から伊予鉄バス西林寺前下車


真言:おん まか きゃろにきゃ そわか


御詠歌:弥陀仏の 世界を訪ね 行きたくば 西の林の 寺に詣れよ
でん


  お寺の前を流れる川より低く、石橋を渡って(太鼓橋のように真ん中が高くなっています。
この橋では絶対杖を突いてはいけないのであげてわたつた。


石段を5・6段下がったところに仁王門がある。お遍路道より境内が低いのは88カ所ここだけといわれ、この寺を無限地獄に例え罪ある者は奈落の底へ落ちていくところから、伊予の関所寺といわれていす。


 土塀に囲まれた仁王門の横には、正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のテイレギ三津の鯛」と刻まれていました。


テイレギはこの辺の清流に発生する水藻の1種で、芳香を放ち、刺身のツマとして珍重されています。(市の天然記念物に指定されている)
民謡伊予節にもお寺のある高井町のことを「高井の里のテイレギや……」と歌われているとガイドブックに書かれていた。


閻魔閻魔堂の前。親竹と子竹が離れないで生えている竹で、家庭円満の象徴として信仰されています。


西林寺は寺伝によると天平13年(7419年)、聖武天皇(在位724~749年)の勅願により伊予の国司の越智宿称玉純と語りあっ て堂宇を建立し行基が本尊・十一面観世音菩薩を刻み、開基しました。


当時は、徳威の里(松山市小野播磨塚あたり)にあり、一宮別当寺でした。


 後の大同2年(807年)に弘法大師が、西南の方 向現在の場所に寺を移し再興され、第48番の霊場に定められました。
四国の瀬戸内海側は瀬戸内海気候のせいか干魃が多く、その対策のためのため池を多く見かけます。



山門
山門山号扁額『青瀧山』





本堂






大師堂
ここも大師堂は右側にあった。

首をすくめた姿の白玉地蔵




次の第49番札所・浄土寺まで約3.1km



第1番札所から909.2.㎞
第49番浄土寺(じょうどじ)
住所:愛媛県松山市鷹子町1198番地
山号:西林山(さいりんざん)
院名:三蔵院(さんぞういん)
宗派:真言宗豊山派
創建:伝:天平勝宝年間(749~757)
開基:伝:恵明上人
御本尊:釈迦如来
☎:089-975-1730


駐車場:無料、普通20台、大型4台
松山自動車道・松山ICから旧国道11号へ。約10分。


交通機関
JR予讃線松山駅から約8km
伊予鉄道久米駅から300m 
真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく


御詠歌:十悪の 我身を棄てず そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ


 浄土寺は、天平年間(729~749年)に孝謙天皇(在位749~758年)の勅願により恵明上人が開基しました。
このとき、行基が刻んだ釈迦如来を祀り、本尊にしたと伝えられています。
後に弘法大師が巡錫し、四国霊場と定めてからは、寺内66坊、末寺7カ所を擁する大寺となり栄えました。


 平安時代中期、天徳年間(957~961年)に踊り念仏の開祖、浄土教の祖とも称される空也上人が諸国遍歴の途中、四国を巡歴し訪れ3年間滞在しました。空也上人(903〜72)の姿がいまに残っています。


木造空也上人立像(国の重要文化財)
像高121.5cm、木造、玉眼。口元から六体の阿弥陀小化仏を吐いています。空也上人は村人との別れの際、嘱望されて自像を刻み寺に残したといいます。


この空也上人像は鎌倉時代の名作といわれ、国指定の重要文化財になっています。
 腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、
「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。
 これは西国33カ所札所である京都六波羅蜜寺に同じ像が展示されている。

六波羅は平家一門が住んでいたところでもある。



空也上人については、松山出身で近代俳句の基礎を築いたといわれる正岡子規も次のような句を残しています。
霜月の
 空也は骨に
  生きにける


仁王門
 大正11年(1922年)の建立
 唐様式の代表作として国指定の重要文化財に指定されている。


右側の仁王様の目は空洞で不気味であった。


門をくぐると右 手に鐘楼があります。


本堂
鎌倉時代の建久3年(1192年)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復。
応永23年(1416年)の兵火で焼失、文明14年(1482年)に湯築城主・河野通宣(こうのみちのぶ)が再建しています。



石段を上った正 面に本堂が堂々と建っています。 この本堂は単層寄せ棟創りで、室町時代の建造物、堂内の厨子とともに国の重要文化財


本坊の庭に2代目の空也松があります。


境内には最近まで空也上人ゆかりの、軒まわり4mの松の老木"空也 松"が大きく枝を張っていました が、寄る年波にはかてず、ついに 枯れて根元から切られ今は立て札 のみが由来を伝えています。



大師堂
本堂の右手になります。


阿弥陀堂、観音堂が並んでいます。(写真がありません)




浄土寺→1.7km→50番:繁多寺

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