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四国八十八ケ所車でお遍路の記録/46番 浄瑠璃寺 ・47番 八坂寺

一部修正 寺名記入リライトしました


第1番札所から901.5㎞
菩提の道場
この地は、お遍路の元祖と言われる衛門三郎の古里として知られています。


第46番 浄瑠璃寺 (じょうるりじ)
山号:医王山(いおうざん)
院名:養珠院(ようじゅいん)
宗派:真言宗豊山派
創建:伝:和銅元年(708)
開基:伝:行基
御本尊:薬師如来
☎:089-963-0279
駐車場:無料、普通10台
松山自動車道・松山ICから国道33号を砥部町方面へ。さらに県道23号を重信町方面へ。約25分


交通機関
JR予讃線松山駅から約17km


松山市内では最初の札所です。
お遍路の元祖、衛門三郎の故郷とされている
 どんどんナビどおり進むと何故か公園(総合運動場・砥部動物園)の中へ「有料道路200円を通り抜け右折しばらく行くと浄瑠璃寺であった。


このお寺には山門がなく、道路から大きな岩が門となっていて、十数段の石段を上るとすぐに境内となる。


寺縁起
 一時廃れましたが、大同2年(807)唐から帰朝した弘法大師が、寺を訪れ伽藍を修復、再興し四国霊場に定めました。
このとき、弘法大師は本尊・薬師如来の別名「薬師瑠璃光如来」にちなみ、寺号を浄瑠璃寺としました。



室町時代の末期に、足利幕府の武将:平岡道倚が、病に苦しんだとき、
本尊に祈願したところ、全快したことに感謝して、寺塔を再興して厚く帰依したとのことです。
江戸時代の正徳5年(1715)山火事で本尊と脇侍を除いて、ほとんどの寺宝
伽藍を焼失する。
70年後の天明5年(1785)、地元の庄屋から住職になった「尭音」という僧が、托鉢等をしながら、全国を行脚しして浄財を集め、本堂・諸堂を再興したとのことです。


また堯音は、久万からの遍路道が毎年のように出水時に流され、人々が難儀していることを知り、76歳で托鉢僧になりました。
そして、各地を回り喜捨を集め大水にも耐えられるようにと岩屋寺あたりから順に橋を架けていきました。
凄いパワフルですね76歳です。


山門はなくここから上がる
大きな自然石が両側にあります。
参道入口の石段右側に寺名が刻まれています。

「四国霊場第四十六番浄瑠璃寺」


左側には「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られています。


浄瑠璃寺の境内には健脚と交通安全を祈るの「仏足石」や一つだけ願いを聞くという「一願弁天」など仏の霊験にあやかれるものがたくさんあり、さまざまなご利益を祈願できることから「御利益のよろず屋」とも呼ばれているとのことです。

手水場
境内では亀さんがお出迎え。
水の中にはもかえるがいます。


本堂
山号扁額『醫王山』がある。
和銅元年(708年)に行基が白檀の木で本尊・薬師如来と脇侍に 日光菩薩、月光菩薩、眷属として、十二神将を刻んで安置しています。




みどころ
仏手、仏手の寺として知られています。
境内には仏足右・仏手右・仏手指紋があり、仏足石では仏の足跡で健脚・交通安全を祈願。仏手石ではあらゆる知恵や技術の祈願できます。


佛の花版(佛の指紋)

一願弁天
本堂の左手に立っています。
一つだけ願いを聞くという「一願弁天」など仏の霊験にあやかれるものがたくさんあり、さまざまなご利益を祈願できることから「御利益のよろず屋」とも呼ばれています。


説法石
心静かに瞑想して如来の説いた法を聞く。
「説法石(せっぽういし)


おかけください
おしゃかさまが説法され修行されたインドの霊鷲山(りょうじゃせん)の石が埋め込んであります。


大師堂
ここは大師堂が本堂の右側にあります。



イブキビャクシン木
樹齢1000年ともいわれているイブキビャクシンの大木の下に安置されている。
木の高さは20mあるそうです。(松山市の天然記念物)




門前長珍屋に泊まる。


次の第47番札所・八坂寺まで約0.9km


第1番札所から902.4㎞


第47番八坂寺(やさかじ)
住所:愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773番地
山号:熊野山(くまのざん)
院名:妙見院(みょうけんいん)
宗派:真言宗醍醐派
創建:伝:大宝元年(701)
開基:伝:役行者、文武天皇(勅願)
御本尊:阿弥陀如来


☎:089-963-0271
駐車場:無料、普通50台
 駐車場無料は助かる。
松山自動車道・松山ICから国道33号を砥部町方面へ。さらに県道23号を重信町方面へ
約20分


交通機関:
JR予讃線松山駅から約16km
松山駅からバス八坂寺前にて下車400m 


真言:おん あみりた ていぜい からうん


御詠歌:花を見て 歌読む人は 八坂寺 三仏じょうの 縁とこそ聞け


寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが建ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせています。


お寺は役の行者・小角の開基で 大宝元年(701)小千伊予守正興が 文武天皇の勅願によって創建した と伝えられています。  
伊予国司越智玉興が七堂伽藍を建立しました。
このとき、八ヶ所の坂を切り開き道路を作ったことから、八坂寺という名がつけられたといいます。


それから100年余りのち 弘仁6年(815)に、弘法大師がこの地を訪れ、ここを四国霊場47番と定めました。


 八坂寺は、修験道の根本道場として知られるようになりました。
また、紀州の熊野権現や十二社権現を祀り熊野山八王子と称して僧兵を擁したり、末寺48ヶ寺を数えるほどに栄えました。
しかしその後の戦国時代には、度々兵火や火災に遭い、寺の規模は縮小していきました。


廊下橋側面

三門はユニークです
しめ縄がびっしり。
そして橋を渡る廊下橋。
この様な門は初めてです。
朱塗りの橋がかかる山門の天井画が美しい。
山門天井画本堂と大師堂の間。「極楽の途」「地獄の途」があり、極楽には美しい浄土が、地獄には餓鬼道、畜生道、修羅道などが描かれています。

鐘楼

大師堂
破風屋根の立派な建物
明治年間 (1869‐1912)に再建されたものです。


本堂
本堂は鉄筋コンクリート造りであった。


熊野十二社権現堂
紀州から熊野権現を勧進して十二社権現とともに祀り、修験道の根本道場として栄え、12坊、48の末寺を持ち多くの僧兵を抱える大寺となりました。



天正年間[1573年-1592年]には兵火によって焼失してからは寺域も縮小し、現在の境内は、十二社権現と熊野権現が祀られていた宮跡であったのです。

閻魔堂
本堂と大師堂の間にあります。
「極楽の途」「地獄の途」があり、極楽には美しい浄土が、地獄には餓鬼道、畜生道、修羅道などが描かれています。



不動明王像(いやさか不動)
平成17年に建立、以来毎年4月29日柴灯護摩供が催行されます。


宝篋印塔と層塔(写真はありません)
宝篋印塔は納経所の前付近に、層塔は大師堂の前付近にあります。


八坂寺→4.4km→48番:西林寺

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