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滋賀県 金勝寺  こんしょうじ

2021年10月3日記事修正しリライトしました。
勝寺  こんしょうじ
住所:滋賀県栗東市荒張1394
山号 金勝山
宗派 :天台宗
開基: 良弁僧正 (ろうべんそうじょう)
創建: 天平五年 (733年) 聖武天皇の勅願時
本尊: 釈迦如来坐像(重文)
☎(山上本坊) 077-558-2996 (里坊) 077-558-0058
拝観料: 500円
駐車場:あり
名神高速 栗東インターチェンジから信楽・金勝山方面へ、約25分


交通機関
JR草津線「手原駅」下車 バス 30分 こんぜシャトルバス「金勝寺」下車(季節運行)
JR琵琶湖線「草津駅」下車 バス 20分 金勝線「中村」下車、タクシー待機場からタクシー20分


「栗東八景」のうちのひとつ「夏清の幽玄」に選ばれています。


平成元年(1989)10月、栗東市(当時栗東町)はみどりと文化のまち栗東にふさわしい現代の景勝地として新たに栗東八景を選定しました。


①青麦の薫風(せいばくのくんぷう)
大宝神社
大宝年間の創建といわれる大宝神社は、中山道沿いの広い参道の左手には立派な四脚門を見ることができます


②彼岸の繁華(ひがんのはんか)
木洩れ日の新善光寺 紹介済みです
信濃善光寺の一光三尊阿弥陀仏の分身を安置する鎌倉時代創建の新善光寺です。


➂積日の海道と城跡(せきじつのかいどうとしろあと)
日向山と和中散
六地蔵は、東海道の石部宿と草津宿のおよそ中間地点にあり、「間の宿」と呼ばれていました。ここは商売に適していたため、旅人に薬を売る薬屋が数件ありました。


江戸時代の慶長16年(1611年)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したため、喜んだ家康がこの薬を「和中散」と名づけたと伝えられます。胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝されました。


和中散屋を営むかたわら、小休屋も兼ねていた大角弥右衛門家には多くの大名が休憩に立ち寄っていたようです。


旧東海道の昔を今に伝える「和中散本舗」の庭園は、小堀遠州の作といわれます。ここは拝見できなかったですが、是非行きたいです。予約が必要


④泉面の雪花(せんめんのせっか)
雪化粧の東方山安養寺
天平12(740)年、聖武天皇の勅願により僧良弁が開基したと伝えられ、また長享元(1487)年には将軍足利義尚が、ここ鈎の里安養寺に出陣しました。


近江八景を形どった庭園は、雪化粧されますと水面に咲く雪の花が実に見事だそうです。


私たちが訪れた時は、冬ではありませんでした。


⑤飛翔の羽音(ひしょうのはおと)
栗東自然観察の森
昭和63年(1988年)にオープンした栗東自然観察の森は、自然を人の五感を通して学びとる施設です。森の中にはネイチャーセンター、探検道、観察小屋などの施設があり、指導員のもと、身近に自然を観察することができます。


⑥払暁の駒音(ふつぎょうのこまおと)
栗東トレーニングセンター
ここは日本でも指折りの馬の調教センター。
多くの名馬が出走前に体調を整え、輸送車で送り出されていきます。


⑦陽春の風光(ようしゅんのふうこう)
県民の森の薫風
昭和50年5月に第26回全国植樹祭が開催された場所で、現在は滋賀日産リーフの森(県民の森)として広く人々に親しまれています



近江平野の新名所


⑧夏清の幽玄(かせいのゆうげん)
金勝寺と森林浴の森



阿形、吽形さん、相当傷んでいます。玉眼だけはきりっとしていました。おそらく修復でしょうね。鎌倉時代の作です。


本堂。桁裄三間、梁間四間、寄棟造、銅板葺、一間向拝付き。今日、正面扉は閉じられて両側の戸口からの入堂です。

本尊釈迦如来坐像(重文)。像高2.2m、檜寄せ木造り、平安後期の作。
 正面から拝見すると像の迫力はすごいです。しかし、金箔も彩色も今はなく、黒漆のみが体を覆っていてこわいくらいに感じます。


光背はまだ金箔が残っていました。これも後期の作であろう。
本尊サイドには開基良弁さんの木像も安置されています。


二月堂には檜の一木造りで高さ360.5cmの巨大な軍荼利明王像が安置されていました。


檜の一木造りで、膝下や天衣は後補ではあるが、平安時代藤原期の作という。
二月堂。桁裄三間、梁間四間、銅板葺、入母屋造、一間向拝付きの小さいお堂。
小さなお堂に大きな像何かアンバランスな感じです。


一面八臂で二臂を胸前でクロス、後六臂に様々な武器を持っています。
娘のクロスした像は見かけまぜんでした。

本堂後ろに御香水館。加持修法のための清水井戸。嘗ては御所に正月祝いの水として献上していたそうです


本堂裏高台にある虚空蔵堂への参道。
眼下に本堂が見える

本堂裏高台にある虚空蔵堂への参道。

往時の講堂の礎石縦5石横7石かなり大きいです。

虚空蔵堂
桁裄三間、梁間五間、入母屋造、銅板葺、一間向拝付。
虚空蔵堂内陣の須弥壇。中央本尊虚空蔵菩薩半跏像
本尊虚空蔵菩薩半跏像 (重文)。像高約2m、一木造、彫眼、平安時代。


馬頭観音堂。方三間、宝形造、銅板葺 (右側)
内部を見ることはできませんでした。

虚空蔵菩薩
ナビで向かったら迷いました。戻って
道の駅「こんぜの里」前を右に、細いですが舗装された参道山道(ハイッキングコース)を進むと、立派な石碑があります。


奈良の都を守る国家鎮護の祈願寺として、 東大寺の初代別当良弁が開基し、八世紀の中頃までに近江の二十五別院を総括する金勝山大菩提寺として法相宗興福寺の仏教道場であった。


弘仁六年(815年)嵯峨天皇の勅願をうけ、興福寺の高僧願安が、伽藍を整備し天長十年(833年) 仁明天皇により鎮護国家の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられ、金勝の勅願を受けて現在の寺名である金勝寺となった。中世には源頼朝・義経、足利尊氏・義詮(よしあきら)など、錚々たる人々が帰依し、湖南仏教文化の中心であったが今はひっそり。
余り訪れる人もありません。


国家の寺院という位置付けにあったことから、大寺院として多くの僧坊と宗徒を抱えたと寺伝は伝えている。


湖南から湖東あたりにかけて大きな求心力を持ったこの地域を「金勝寺文化圏」とも称されていて、現在も湖南三山(すでに紹介済み)などでは古像を多く伝えており、その中心地がこの金勝寺であった。


最後迄読んでいただきありがとうございます。

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