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滋賀県 天満宮 北野神社

天満宮 北野神社
滋賀県彦根市馬場1-3-10
祭神: 菅原道真
創建:1620年
0749-22-5631


二代藩主が井伊直孝が上野国北野寺(群馬県安中)の鎮守社天満宮の分霊を頂く。初代直正政は上野箕輪城主のころより領内の北野寺に深く帰依した。
井伊直孝は異母児として生まれ群馬県安中下後に権威あった威徳山北野寺に預けられた。
ここの天満宮の道真を学問の神と信仰、11歳の時神社の左右に杉の木を植え。立身出世を祈願した。大坂冬の陣、夏の陣で手柄を立て1614年彦根城主として任ぜられ、幼い頃過ごした天満宮の分霊を彦根寺の境内に祭り社殿を建立、以後井伊家の守り神とした。
彦根城の守護神となり歴代彦根藩から庇護されてきたが、北野寺は神仏習合の形態であったが明治政府の神仏分離令により独立した。

滋賀大学美術部が毎年奉納する絵馬



菅原道真


菅原道真(すがわらのみちざね)は承和12年(845)6月25日に京の都で生まれました。
菅原氏は代々続く学問の家系で、道真も幼い頃から漢学(中国の古典をもとに中国思想や詩文を研究する学問)の教育を受けて育ちました。


15歳で元服(成人)した道真は現在でいう大学生にあたる文章生(もんじょうしょう)となるため勉学に励み、18歳で試験に合格します。
道真の祖父が20歳、叔父が23歳で試験に合格したことを考えると、道真が秀才であったことがうかがえます。


当時文章生は40人いましたが、このうち成績が優秀な2人のうちの1人に選ばれています。


道真は33歳で、現在でいう漢文学・中国史の大学教授のような地位にあたる 文章博士(もんじょうはかせ)になりました。


また、37歳の時に父親が亡くなってからは、代々菅原家が経営してきた私塾の運営も引き継ぎます。
この私塾を巣立った学者には優秀な人が多く、学界の一大勢力となったため、道真は菅原門下の影響力が強まることを恐れた他の学者たちから嫌われるようになります。
当時学者が政治家として天皇に重用され、出世するというのはとても珍しいことでした。


道真を妬む貴族たちの思惑で、地方にとばされることもありながら、
順調に昇進し、ついには右大臣にまで昇りつめます。
これは当時、藤原時平(ふじわらのときひら)という人が就いていた左大臣に次いで偉い役職でした。


しかし、有力貴族であった藤原氏や他の貴族と違い、ただの学者の家柄出身である菅原道真が偉い役職に就いたことに嫉妬する貴族も多かったようです。
藤原時平を中心に、道真を政界から追い出そうとする動きが強まります。


貴族に嫉妬され、大宰府へ左遷
道真が右大臣に就く少し前に、道真を重用(ちょうよう)してきた宇多天皇は、息子の醍醐天皇に位を譲っていました。
また、菅原道真の娘は、醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう)に嫁いでいました。
藤原時平はこの関係性を利用して道真をおとしいれます。


時平は醍醐天皇に「道真は醍醐天皇を廃し、天皇の弟であり、道真の義理の息子にあたる斉世親王を天皇の位につけようとしている」と告げます。
これは根拠のないうわさであったと言われています。


有能な道真に天皇の位を脅かされることを恐れた醍醐天皇は道真を大宰府の役人に任命し、都から遠い九州の地に追いやってしまいました。


大宰府に左遷され2年後の延喜3年(903)2月25日、菅原道真は重い病にかかり、悔しさの中、亡くなりました。
この時59歳でした。


都で相次ぐ凶事 ~道真の怨霊化~
道真の死後、都では異変が次々と起こります。


まず、疫病(えきびょう)がはやりました。
疫病の他、貴族の死や落雷が相次ぎ、
人々は次第に「これは道真のたたりなのではないか」とうわさするようになります。


道真を大宰府に追いやった中心人物である藤原時平は、
909年、39歳の若さでこの世を去りました。


さらに923年には皇太子・保明(やすあきら)親王が21歳の若さで亡くなります。


これらの出来事に恐れおののいた醍醐天皇は923年、
道真を元の右大臣の位に戻し、道真を大宰府にとばすことを命じた文書を燃やし、
左遷を取り消します。(死んでから簡易を戻すなんて)


しかし異変は収まらず、925年には次の皇太子で藤原時平の孫にあたる慶頼王(よしよりおう)が5歳で他界。


皇族や貴族の死が続き、930年には宮中に雷が落ちます。
落雷を機に醍醐天皇は健康を害し、そのまま亡くなりました。
942年、都に住む女のもとに菅原道真の霊が現れて、
「都にいた頃に好んだ場所である右近の馬場(うこんのうまば、現在の北野)にほこらを建てて、私が立ち寄ることができるようにせよ」
と告げます。


女は身分が低く、社を建てることはできませんでしたが、
ここから道真を天神としてまつることがはじまりました。


その後、7歳の子供に道真の霊がとりつき、右近の馬場に社を建ててまつるよう告げたため、
947年、北野の地に神殿を建て、菅原道真を天満天神としてまつるようになります。


「天神」とは人々に災いを与える荒ぶる神の総称であり、
「天満」とは道真の「怒りが天に満ちた」というお告げに由来するといわれています。


こうして菅原道真は天満天神として、北野天満宮にまつられるようになりました。


大宰府は外交と防衛のために九州におかれた役所でした。
飛鳥時代にはすでに存在していたと考えられています。


菅原道真は無実の罪で都から遠く離れた大宰府の役人に任ぜられ、この地で生涯を閉じます。


遺体は都ではなく大宰府の近くに埋葬されました。


道真の死後、都では道真のたたりとされる異変が相次ぎ、
919年、醍醐天皇は道真の怒りを静めるためこの地に社殿を造るよう命じます。
これが現在の太宰府天満宮のもととなったとされています。


時が経ち1004年、一条天皇は道真に、朝廷で一番偉い役職である太政大臣の位を贈ります。
また、北野に参拝し、同時に大宰府の天満宮でも、天皇の命令により祭事が行われました。


こうして天神信仰は広まり、太宰府天満宮は信仰の中心地となっていきました。


天満天神となった菅原道真のことをまつる神社のことを、天満宮といいます。
はじめ道真は怨霊として恐れられ、怒りを静めるために天満宮が造られました。
しかし、時が経つにつれて怨霊としての性格は薄れ、いろいろな神様として信仰されるようになります。


学問の神様
菅原道真は学問の神様として信仰されています。
これは菅原氏が代々学者の家系であったことや、道真自身が優秀な学者であったことに由来します。


年明けには多くの受験生やその家族が各地の天満宮を訪れます。
合格祈願の絵馬がたくさんかけられている光景を目にしたことがある人も多いでしょう。
道真の命日である2月25日がちょうど国立大学の入学試験日と重なっていることも、合格祈願に訪れる人を増やしているのかもしれません。


また、漢文学に詳しく和歌も得意であったことから文学・和歌の神様や、
これに関連して書道・習字の神様としてもあがめられるようになりました。


室町時代に連歌(れんが)が流行すると、
和歌の神様から派生して連歌の神様としての信仰が生まれます。
連歌とは、和歌に用いられる「五七五」と「七七」の句を次々と詠みつなげていく文芸です。


現在では、和歌や書道にとどまらず、広く文芸・芸能の神様としても知られています。


宇多天皇に重用され、優れた政治家として活躍した菅原道真は、
無実の罪で大宰府に流された後も、自身の潔白と国家の平安を祈り続けたとされています。


最期まで忠実な家臣であった道真は現在、至誠の神様として多くの人々から信仰されています。


また死後、冤罪(えんざい)が認められ太政大臣の位まで贈られたことから、


免罪(めんざい)の神様としても知られています。


雷神・農耕の神様
菅原道真の死後、宮中には雷が落ち、日照りが続き、
貴族たちは道真のたたりだと恐れました。


また、雷を起こしたり、飢饉(ききん)の原因である日照りなどの自然現象をつかさどる荒ぶる神は、
農民にとっても信仰して鎮めるべき存在でした。


こうして各地に天神様をまつる社やほこらが造られ、五穀豊穣の祈願や雨ごい、水害を鎮める祭りが行われるようになりまし
菅原道真をまつる神社は、天満宮・天神社・菅原神社・老松神社・梅が枝神社などと呼ばれ、その数は全国約11,800社になるといわれています。
現在も多くの人々に信仰されていることがわかりますね。

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