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愛知県 尾張4大観音 龍泉寺・ 龍泉寺城

龍泉寺
住所:愛知県名古屋市守山区竜泉寺1-902
山号:松洞山
宗派:天台宗
創建:延暦14年(795)
開基:伝教大師(最澄)
本尊:馬頭観音
駐車場:あり 10数台
仁王門の前が便利、東門の階段下にも駐車場あります。
☎::052-794-3647
交通機関
喜多山(愛知県)駅出口から徒歩約31分
大森・金城学院前駅出口から徒歩約32分





多宝塔の彫刻




龍泉寺城

 春日井市方面 中央の煙突は王子製紙

城の入り口

円空仏

円空仏で円空仏の字、センスないね

弘法大師直筆

天井の龍の画


昭和天皇

昭和天皇御前会議

歴史
宝暦5年(1755年)に記された古文書「龍泉寺記」には、「その昔、伝教大師が熱田神宮に参篭中、龍神の御告げを受け、龍の住む多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀った」という内容が記述されています。


そのため、龍泉の名前もこの話に由来するといわれています。一方では、弘法大師空海も同じように、熱田神宮参篭中のおり、熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納しており、龍泉寺は熱田の奥の院といわれてきました。このため、この寺は伝教・弘法大師の開基ともされています。



このように長い歴史をもつ龍泉寺ですが、これまでに二度の火災に見舞われています。天正12年(1584年)小牧長久手の役のおり、豊臣秀吉が当山に陣し退却するとき、池田勝入の部下により放火焼失、慶長3年(1598年)、秀純大和尚が堂塔を再興しました。


しかし、明治39年(1906年)に再び放火に遇い、多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが灰と化しました。ところが幸運にも、焼跡から、慶長小判百枚が発掘されたので、それを基金とし、多くの御信者の御寄付とをあわせ、本堂が再建され、今日に至っています。



また、龍泉寺は、荒子観音、笠寺、甚目寺と並んで尾張四観音の一つとして、 毎年2月3日の「節分会」には数万人の近在の参拝者で賑わうことでも有名なお寺です。


400年程度前に、徳川家康が名古屋城築城の際に、名古屋城から見て鬼門の方角にあたる寺院を名古屋城の鎮護として尾張四観音と定めたようです。



熱田神宮の奥の院と称する名刹。尾張四観音の一つで節分には大いに賑わう。江戸時代には大森合宿や吉根合宿等で、豊作や雨乞い祈願のための「龍泉寺おまんと(う)」が奉納された。


龍泉寺は小牧・長久手の戦いで秀吉がここに布陣し、小幡城の家康と対峙した時、寺堂を焼き払われたが、慶長3年(1598)秀純和尚が再興した。
その後明治39年火災により仁王門・多宝塔を除いて全焼、44年再建。


仁王門(国重要文化財(1928年指定)
三間一戸楼門入母屋造り柿葺き、正面七.四米 側面四.六米建造。年代は、天井裏から発見された板札に慶長12年(1607年)の日付があり、古記録や様式からもこの年次の建造とみられる。



ただし、この門は高針村(名古屋市名東区)から移したと伝えられており室町時代のものを慶長期に移建した可能性もあります。



龍泉寺仁王門は、昭和3年4月4日に国の重要文化財に指定され、昭和31年に解体修理を行い、昭和32年6月18日に造立板札が追加指定され、昭和55年に屋根部分修理が行われました。近年では平成15年に屋根の全面葺き替えが行われました。



本堂
明治39年放火により焼失後、焼跡から慶長小判百枚が掘り出された為、それを基金として明治44年現在の本堂が再建されました。本尊は、厄除、開運の馬頭観音をお祀りしており、古くから一般信徒の厚い信仰を集めております。



木造地蔵菩薩立像


本尊:円空作の馬頭観音


節分には本尊にちなんだ春駒が授与されています。


多宝塔
大日如来像がお祀りしてありましたが長久手合戦の際焼失。慶長3年から復興され、更に明治年間に大修理、現在に至っており、阿弥陀如来が安置してあります。



この多宝塔は、江戸後期以降に位置が移され、一部改修を受けているものの、中世から近世にいたる多宝塔の技法を理解する上で、近世初期の貴重な遺構である。


鐘楼
明治40年に再建されたが、鐘は第2次大戦中供出、以後昭和34年「平和の鐘」として近郷の有志の方々によって寄進され、日々、平和の鐘の音を響かせています。
私たちも、賽銭箱に10円をいれ1衝き、いい音色でした。



書院 見学できません
昭和50年に建造された清潔な外観の書院。仁王門をくぐってすぐ右側に位置します。


回向院 見学できません
龍泉寺城の東、下方にひっそりとたたずむ回向院。向かって右手にある趣深い放生池と並び清閑な景観を醸し出しています。


ここには、猫が三匹生息、茶色2匹、黒一匹、飼い猫でしょうね。



龍泉寺城(拝観料100円)
展望台


歴史
お寺のすぐ北側に守山区唯一のお城として昭和39年に現在復元されていますが、もとあった位置についてははっきりしていません。弘治2年(1556年)織田信長の弟、信行によって築かれました。



この織田信行は、兄信長の暗殺をそそのかされ清須城に兄信長を打ち取りに赴き逆に打ちとられた、間抜けです。
戦国時代に、兄弟が争ってはろくでもない。
信行は斎藤竜興と通じ信長を廃嫡しようと当初は柴田勝家も加担していましたが、信長の器量にほれ、以降は参加拒否していましたが。信行は他の家老のおだてに乗り会えない最期。


天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた『小牧・長久手の戦い』ついて少々。


尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれました。


『小牧・長久手の戦い』は、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起き、全国規模の戦役でした。天正12年(1584年)3月21日、3万の軍勢を率いて秀吉は家康と戦うため西へ、27日に犬山城へ入りました。一方、家康は小牧山に陣を敷き、清洲、三河との連絡のため各地に砦を作り、小幡城を修復し本多広孝を配しました。



両軍の勢力は秀吉軍15万余人、対する家康軍は6万余人とされます。しかし家康は、この数の劣性を補うに十分の根来衆、雑賀衆を初め多くの忍びの者を擁していました。


秀吉軍の池田信輝は、家康が小牧山に陣を敷いている隙に、家康の本拠地三河を攻め、家康を孤立する作戦を進言し、4月8日夜半、池田信輝、森長可、堀秀政、三好秀次らに率いられた軍勢2万余は楽田(愛知県小牧市)を出発しました。


三河攻めに向かう秀吉軍の2万余は、庄内川龍泉寺下、上ノ瀬、中ノ瀬、下ノ瀬辺りを夜間に渡河しました。徳川軍の小幡城の本多広孝はいち早く情報を入手、家康隊は直ちに小幡城に夜間行軍で移動し、秀吉軍を分断する作戦に出ました。


秀吉軍は、三好隊を白山林(守山区本地が丘他)に追撃、隙を付かれた三好軍は壊滅状態になり、9日午前4時頃に始まった戦いは約1時間で終結しました。


秀吉軍の三好隊は、長久手方面へ敗走、敗戦の報を聞いた池田信輝、森長可軍は、直ちに仏が根(愛知県長久手町)に陣を敷きますが、追走した家康側の井伊直正軍の鉄砲攻撃を受け、信輝、長可は討ち死、戦いはお昼頃には終結しました。


夕刻4時頃家康隊は小幡城に戻り、この頃秀吉本体は犬山城を出て楽田城へ移動、一戦を交えるため長久手を目指していましたが、日が暮れ、龍泉寺城に入りました。


秀吉の龍泉寺城と、家康の小幡城の距離は2キロほど、秀吉は明朝の総攻撃を命じ、すぐさまの攻撃を躊躇しました。一方、小幡城に入った家康隊は情報戦で秀吉本体が龍泉寺城に入った事を確認しますと、素早く、僅かな兵を残して、夜陰に紛れ庄内川を渡河し、本陣の小牧城に帰還しました。
翌10日の朝、この事に気付いた秀吉は、真偽のほどはともかく、『罠にももちにもかけることができない。敵ながら天晴れ』と言ったとも伝わります。そして秀吉本隊も龍泉寺に火を放ち楽田城に引き上げました。


秀吉は合戦から半年以上経った11月12日に、信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾しました。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は11月17日に三河に帰国しました。


江戸時代の『尾張名所図会』の『後編第四巻春日井郡』の『龍泉寺』の図には、本堂裏手に『太閤岩』が描かれ、その右手の多宝塔の裏辺りに『秀吉公一夜堀跡』と記されています。多宝塔は現在の位置ではなく、仁王門に向かって右手に記されていました。現在の書院辺りのようです。



『小牧・長久手の戦い』は、徳川家康と豊臣秀吉が直接対決した、唯一の戦いでした。


現在でも境内の周囲の一部には、『太閤堀(一夜堀)』と呼ばれる、秀吉が築いた空掘が残っているようですがどこだかわかりませんでした。


これ随分山の上ですから堀など必要であったのかなとも思います。
この戦が後々の両者の遺恨となっていくのです。


家康は小田原城落城の後江戸へ追いやられます。
この事で秀吉の朝鮮の戦には参戦しなくても良かったのです。


歴史は面白いですね。🤗


(龍泉寺城は日曜、祝日の午前9時から午後3 時半のみ開館)
ここが宝物館になっている。
千体仏五百数十体

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