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隠れ里 滋 賀県北部 琵琶湖北隅 菅浦・須賀神社・長福寺跡

隠れ里 滋賀県北部  
平成25年10月22日(火)


長浜市西浅井町菅浦は琵琶湖北部、葛籠男半島の先端にできた小湾の湾奥に位置する集落である。背後は急峻な山腹斜面が迫る。そのため昭和46年に奥琵琶湖パークウエイが開通するまでは、自動車が通じる道も無かった集落で、他村とは隔離された別世界であったが、平安・鎌倉期の文献に記録が残る程歴史ある集落である。


また、この菅浦集落は日本の中世の惣村活動の地としても有名で、その様相は鎮守須賀神社に「菅浦文書」として残され、中世村落の研究資料として保存されている。
古代から湖上交通の要津塩津とともに知られた湊で、塩津湊航行時の退避湊でもあった。
もとは大浦庄であったが、菅浦庄が成立、その両者間の境相論が永仁3年(1295)より150年間にわたって繰り返され、数度の刃傷事件を伴い、文安2年(1445)と寛正2年(1461)には、庄民をも巻き込んだ大きな合戦にもなり、菅浦惣庄では老若男女書置きを残して死ぬ覚悟の合戦であった。


江戸時代、寛永11年(1634)では石川領。元禄14年(1701)では膳所藩本多氏領で、そのまま明治を向かえる。


慶長7年(1602)では屋敷地登録人101人・無屋敷登録人29人であったが、寛政4年(1792)には家数102軒・人数447となり、慶応4年(1868)には家数99軒・人数428に減少している。


菅浦は漁港でもあり、天保3年(1832)には丸船16艘、小船11艘、田地養船4艘があった。
湖岸に近い道に沿っては石垣が連続して積まれている。海ではないが、大きな琵琶湖だから、風雨の強い時には、波も荒いのだろう。只この石垣は今の湖岸から随分山側になっているのは、湖岸の砂浜が大きく埋め立てられた為と思われる。


江戸時代から半農半漁の集落であったので、特別大きな豪商と云われる商家の建物も無いようだが、湖岸に向かって石垣が積まれた町並みは、この地独特の町並み風景であった。

この村落の入り口

須賀神社
土足厳禁入口から奥へ真っ直ぐのみちが遠いスリッパ若しくは素足で参拝することになる。
四足門からすぐ須賀神社の鳥居がある。ここはこの地に隠れ住んでおられたと伝えられる
淳仁天皇をお祀りしている。


長福寺跡
浅井長政の由緒寺
長政の次男・万菊丸(万寿丸、茶々姫の弟)が逃れたとされる寺。
万寿丸はのがれたが、信長の詰問によりお市の方が居所を白状し、秀吉の手により、関ケ原でデンガク刺し(鉄の棒でお尻の穴から口に向け串刺しの刑、しかも内臓には傷をつけないようゆっくり刺すので、そのむごたらしさはない。



菅浦へ落ち延びられた淳仁天皇の菩提寺である。
蹴鞠、射的場などがあった。

阿弥陀寺
ご本尊仏は阿弥陀寺に安置されている。
山にへばりついている村なので
石段を登った所に本堂がある


東門



つづらお展望台
 奥琵琶湖パークウエイここから琵琶湖が眺められる台風の影響でここからUターン 岩熊までは通行止めであった。

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