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日光  天界大僧正の墓 慈眼堂

2021年10月3日リンク設定しリライトしました。
天界大僧正の墓 慈眼堂
ここを参拝するには、輪王寺大猷院の入り口で申し出る必要があります。私たちは、今回は行きませんでしたが、概要だけ書いておきます。


大猷院からでてきて右側に法華堂と常行堂があります。その間に延命坂という石段があります。登りきると、「慈眼堂・じげんどう」があります。慈眼堂は、天海大僧正のお墓のあるところです。


天海大僧正は、徳川家康の顧問として、江戸幕府の政策に深く関わった人です。
2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光にも仕えました。


536年?に生まれたとされる天台宗の僧で、南光坊天海、智楽院とも呼ばれます。
出身は陸奥国会津郡高田の郷と考えられ、三浦氏を祖にする蘆名氏の第12代当主・蘆名盛高(蘆名修理太夫平盛高)の一族で、舟木景光(舟木兵部少輔景光)の長男として生まれました。舩木、船木とも書きます。


母は蘆名盛常の娘で、天海の最初の名前は舟木兵太郎です。
生年に関しては1510年、1530年、1542年、1554年の説もありますが、没年は1643年10月2日ですので、108歳と長寿だったことが伺えます。
11歳の頃に、家督を弟に譲って出家し、龍興寺の名僧・弁誉舜幸法印に師事すると「随風」と号しました。


貧乏が理由で出家したと、のちに語ったとも言われています。
4歳の頃には、故郷・会津を出て修行の旅に出ます。
この時、宇都宮の粉河寺・皇舜権僧正の元には慕って多くの修行僧が学んでおり、随風も約1年、天台宗を学びました。
また、この時、随風は皇舜が驚くほどに成長し、多くの人脈も得たようです。


18歳のときには比叡山延暦寺の実全 (神蔵寺) に師事すると、また天海は評価されています


20歳の時には、大津の三井寺 (園城寺) の尊実、21歳のときには南都の中国人・林和成重から日本書紀と漢史を学びます。
22歳になった随風 (天海) は、奈良・興福寺にて空実から学を深めますが、母が危篤との知らせを受けると、23歳のとき会津に戻っています。
自ら葬儀も全て行い、喪が明けると下野・足利学校にて儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学などを学び、2年ほどで頭角を現します。
そして、ほぼ極めたと言う事で、29歳のときに上野国新川の善昌寺にて遊学しました
1571年には、明智光秀の仲介を受けて、甲斐の武田信玄に招かれます。
その折り、織田信長が比叡山を焼き打ちしたため、随風 (天海) はそのまま甲府に住みました。


天界が明智光秀という説はここでおかしくなりますね。比叡山を焼き討ちした実行者は明智光秀です。


随風 (天海) の名声は会津にも伝わり、1573年、蘆名家の16代当主・蘆名盛氏から、先祖供養などのために故郷に戻るよう要請されます。


このため、随風 (天海) は武田信玄の許可を得て、帰国しました。
黒川城(鶴ヶ城)の稲荷堂の別当を任され、約16年間、会津にて僧侶と神職を兼務しています。


しかし、1589年6月5日、摺上原の戦いにて蘆名義広が伊達政宗に大敗し、蘆名家は壊滅します。
蘆名義広は、黒川城を捨てて常陸の父・佐竹義重の元に逃れる事になり、随風 (天海)は甲冑を身をつけ、蘆名義広を護衛して太田城へ同行しました。


そして、武蔵は河越城下の無量寿寺北院(のちの喜多院)に移り豪海僧正に師事すると「天海」を名乗ったとされます。


豊臣秀吉の小田原城攻めの後、秀吉から江戸に遭いやられることとなります。家康は鎌倉に行くと、鎌倉幕府のように滅ぼされると思います。江戸城に入ったのですが、江戸城とは名ばかりのペンペン草の生えた荒れ地でした。


600年、関ヶ原の戦いの際にも、軍師のひとりとして参陣したようで「関ヶ原合戦図屏風 」(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)には、鎧兜姿の「南光坊」(60歳くらいか?)が描かれています。
また、徳川家康が幕府を開く際の本拠地を相談された際に、天海が「江戸が最適」だと助言、(大阪に劣らない)したとされています。実際の土地は荒れ放題、沼地が多く葦が茂る土地でした。それを開墾したのです。


江戸の街は天海が設計したと言われており、民衆に人気のあった平将門の霊を守護神にしています。
また、五色不動尊を要所に配置し、東海道五十三次の整備など都市造りに着手しました。
1607年、天海は比叡山延暦寺の南光坊に移って比叡山探題執行を命じられ、延暦寺再興にも尽力しました。


そのため「南光坊天海」(なんこうぼうてんかい)と呼ばれるに至っています。
1610年までには、駿府城に戻っていて天台宗の講義など行っており、感銘した徳川家康は「もっと早く聞きたかった」と発言しています。
1611年、南光坊天海は正僧正に任ぜられると、後陽成天皇の勅命で教徒・毘沙門堂の再興を開始しています。


1612年には、徳川家康から喜多院 (無量寿寺) へ戻るよう指示を受けており、徳川家より寺領4万8千坪、500石が寄進されました。


1613年には、駿府城から徳川家康が自ら喜多院を訪れていますが、この頃から頻繁に徳川家康と天海が江戸城などで議論している行動が見受けられます。
日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する一方で、1614年、大坂の陣のきっかけとなる「方広寺鐘銘事件」が起きますが、天海が授けた策だとする説もあります。


大阪冬の陣にて、天海は徳川家康の本陣に参陣し、1615年の大阪夏の陣でも同様に陣幕に入り、その後二条城に滞在。1616年、鷹狩りに出た徳川家康が倒れたと聞くと、急ぎ駿府城に赴いて、藤堂高虎の屋敷があった上野に東照宮を造営する話となりました。


余談ですが、秀吉は「関白」位で言いますと、天皇の次に偉い人。しかし、征夷大将軍にはなれません。家柄が百姓、足軽でした。征夷大将軍は源氏の血をひくものだけでした。


ここが重要すごい人なんです。
そして、天海が朝廷に掛け合って徳川家康が太政大臣になりますが、武士においては、平清盛、足利義満 (源義満)、豊臣秀吉に次いで史上4人目の快挙となります。


死の間際、徳川家康は、天海、本多正純、以心崇伝(金地院崇伝)の3人を枕元に呼び、あとを託しました。
大僧正となった天海は葬儀の導師をつとめ、徳川家康の神号を巡り以心崇伝、本多正純らと争うも「東照大権現」の主張を通し、家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮に改葬しました。徳川秀忠、徳川家光も天海を厚く信頼し、幕政において天海の権力も頂点に達します。


徳川家康を祀る東照宮は全国に515社も建立されました。
現存は約130社が残っています。
福島正則が武家諸法度に問われた際には、天海が嘆願書を徳川秀忠に提出したため、福島正則は信州への減封で済んだとも言われています。
今、国宝となりました、久能山東照宮も修理が終わりすごく立派になりました。
もう一つは、滋賀県琵琶湖ほとりの日吉東照宮、ここが天海が日光東照宮のお手本としたと言われています。



1624年には、天台宗関東総本山として上野に寛永寺を創建。
徳川家の菩提寺は、2代将軍・徳川秀忠が眠る、芝の増上寺でしたが、以後、寛永寺が徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。
「東の比叡山」となった寛永寺の大部分は幕末の上野戦争で焼けましたが、現在の寛永寺・本堂は川越の喜多院・本地堂を移築したものです。
晩年の天海は、堀直寄・柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走したと言います。
何度も徳川家光の見舞いを受けた南光坊天海は、1643年10月2日、寛永寺の子院・本覚院にて没しました。108歳(諸説あり)です。


遺書、遺宝が徳川家光に渡されると、激しく嗚咽したと伝わります。
遺言により、天海は徳川家康が眠る日光山 (大黒山) に埋葬されました。


国の重要文化財である慈眼堂 (日光山輪王寺の天海墓)ですが、原則非公開(関係者以外立ち入り禁止)となっています。


ただし、国宝・大猷院の入口受付にて「慈眼堂(じげんどう)のお参りをしたい」と申し出て拝観料を納めると、パンフレットを頂けて訪れることができます。
さて、3代将軍・徳川家光は天海に大いに帰依していたため、自分の葬儀は寛永寺に行わせました。


7番目の大師
更に遺骸は、徳川家康の廟がある日光と言うより、天海大僧正の霊廟がある慈眼堂の近くにと言う事で、大猷院廟(たいゆういん-びょう)がここにあるのです。
天海の死から5年後、朝廷から慈眼大師(じげんだいし)の諡号が与えられていますが、朝廷から賜る大師号としては史上最後であり、日本で7番目の大師様でした。


天海は足利将軍12代・足利義晴の子という説や、明智光秀が本能寺の変で敗れた後、天海になったという説もあります。
その出自の不明さや、江戸幕府の中枢を担った経緯から、天海は色々なドラマ・映画・小説などにも登場致しますが、実際の天海はどのような高僧だったのかと思いを馳せるのも良いものです。

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