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西国三十三カ所観音巡礼の旅 舞鶴 成相寺・松尾寺 寄り道 金剛院(三島由紀夫の小説「金閣寺」の舞台。)

2019年5月20日、日本遺産登録の発表が文化庁より行われました。
1300年以上の歴史を誇る「西国三十三所観音巡礼」が、日本遺産に認定されました。


癒しの心で出かけました。
日本三景でも有名です、天橋立の山上にあります。
天橋立は二回ほど来ているので今回はお寺だけに寄ります。
疲れた時筋肉のこわばりには、バナナ、そしてチョコレートが良いですよ。


第28番札所 成相寺
住所:京都府宮津市成相寺339
山号:成相山
宗派:真言宗単立
本尊:聖観世音菩薩  
創建:704年(慶雲元年)
開基:真応上人
御詠歌:波の音 松のひびきも成相の 風ふきわたす天の橋立 
電話:0772-27ー0018


成相寺の旧境内が国の史跡に指定されました。


山頂まで車で上れます。道が細いので、注意が必要ですよ。


一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中、深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となりました。死を予感した僧は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈りました。


すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に傷ついた鹿が倒れているのに気付きました。僧として肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して鹿の腿をそいで鍋に入れて煮て食べました。やがて雪も消え、里人達が登って来て堂内を見ると、本尊の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散っていました。 それを知らされた僧は観音様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになりました。此れよりこの寺を願う事成り合う寺、成合(相)寺と名付けました。 
                            成相寺説明文より


日本三景天橋立を眼下に望む景勝地にあり、元々は日本古来の山岳宗教の修験場であった。日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つとして信仰を集めてまいりました。


本堂から1kmの成相山山頂には、360゜楽しめるパノラマ展望台があり、阿蘇海、天橋立の眺望がとても美しいです。また有名な、股覗きができます。

本堂


本尊は美人観音


額の虎・・何かな
門裏にも天満のような


真向きの龍 本堂内陣右手
飛騨の伝統的な彫刻職人『左甚五郎』作
江戸時代に雨乞いの為、龍の彫刻を成相寺に奉納することになり、折しも宮津に滞在していた甚五郎に依頼しました。
しかし、見たこともない、龍の彫刻など彫れるかと、そんな中ある夜夢の中で、龍の住処を教えられ、夢で教えられた場所、成相のとある滝壺へ降り立ち、観音堂に向かい祈ること三日後に、滝壺から龍が姿を現し天空へと立上り雲の間に消えていったと、こうして完成したのが「真向きの龍」
何処から見ても龍の眼がこちらを見ている。


撞かずの鐘 本堂への石段右手にある
寺に新しく梵鐘を造ることになり、寄進を求めたところ、裕福そうな女房が「子供はたくさんいるが、寺に寄進する金はない」と断り、やがて鋳造の日、大勢の見物人中に女房も乳呑み児を抱いて見物していた。


そして、あろうことか誤って銅湯の入ったルツボの中に、乳呑み児を落としてしまった、鐘は見事に鋳上がったり撞いてみると山々に美しい音色が響いた。しかし耳を澄ませば、母親を呼ぶが悲しい声が聞こえてくるので、人々は乳飲み子の成仏を願い、この鐘を撞くことを一切止め、以後『撞かずの鐘』と呼ばれている


撞かずの鐘は、京都法恩寺にもあります。滋賀県にもありましたが、私の記録は紛失してしまい何処であったかわかりませ。赤穂浪士47士をお祀りしていたことと、庭の池の傍に鐘楼があり、立て看板に娘と龍、蛇の化身したことが書いてあったことは記憶しています。


一願一言地蔵
「成相寺」の名の由来にもある。「成相寺」は願い事が成り合う寺で、一願を一言でお願いすればどんな願いも必ず叶えてくれるという、約620年前に創られた地蔵は、本当にご利益がありそうに思えるかなり歴史を感じさせる。安楽ポックリの往生も叶うと伝えられている霊験あらたかなお地蔵さんでもあるのです。
お願いは一つだけ。


鉄湯船
成相寺の湯屋で湯船として使用されていたものといわれ、沸かした湯をこれに入れ、かかり湯・薬湯を沸かして怪我や病気の人を治療するために使われたといわれています。
この「鉄湯船」は鋳物師山河貞清によって鎌倉時代、正応3年(1290年)に作られたものとされ、重要文化財に指定されている。
金属製の龍の飾りが付けられており、その口から水が流れ出て、この水は成相寺創始当初の本堂のあった場所から湧き出ているものをここまで引いてきているといわれ、名水とされている。


西国巡礼堂
このお堂には、三十三各霊場のご本尊が安置してあり、この堂に参拝されると三十三ヶ霊場を巡回と同じご利益があるそうです。

五重塔
成相寺は、文武天皇の勅願所として慶雲元(704)年に真応上人が創建したと伝えられている。これは、雪舟が描いた「国宝天橋立図」に描かれている五重塔を、平成に入ってから復元した新しい塔で、鎌倉時代の建築様式を再現した木造塔である。

奇怪な話の底なし沼
見た目普通の池、なぜ底なし沼なのかな。

山頂からの眺望



第29番札所 松尾寺
住所:京都府舞鶴市松尾532
宗派:真言宗醍醐派
本尊:座像馬頭観世音菩薩
創建:慶雲5年(708年)
開基:威光上人
御詠歌:そのかみはいくよへ ぬらん便りをば 千歳もここに松の尾の寺 


松尾寺の仏舞(まつのおでらのほとけまい)は、京都府舞鶴市にある松尾寺に伝わる宗教的儀式。国の重要無形民俗文化財に指定され、毎年5月8日に一般公開されている。 


仏舞は大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来の三像の面を着け、越天楽の譜に合わせて優雅に舞うもので、奈良時代に唐から伝えられたものと言われる。仏舞の由来や始まりは松尾寺の古い記録が焼失してしまったため不明だが、約600年前の江戸時代初期には既に舞われていた記録は残っている。
 
現在は、寺と檀家の人などで作る「松尾寺仏舞保存会」の手により執り行われており、毎年5月8日の正午すぎに、本堂で僧侶が読経した後、6体の如来が登場し、雅楽の太鼓や笛の演奏音に合わせて、ゆっくりと両手を目の前で翳したり、内や外を向いたり、上下させながら回るなどのゆるやかな舞いを披露する。
                          (Wikipedia)より引用



松尾寺が位置する青葉山(699m)は、その秀麗なさまは「若狭富士」と呼称されている。この山は死火山で、昔は火焔を噴き上げていた、噴流は真下の日本海にそそぎ壮絶な水煙上げていたとも伝えられています。厳しい表情の険峻な山は、早くから修験道修行の場となっていた。


中国から渡来した威光上人が青葉山中の松の大木の下で修行中に馬頭観音像を感得し、慶雲5年(708年)にこの松の木の下に草庵を造り、観音像を安置したのが松尾寺の創始とされている。


この霊験が都に伝わり、8世紀初頭に元明天皇(707~715年)は藤原武智麻呂に命じ、本堂を建立させ、馬頭観音を刻ませたという。
織田信長の兵火により全焼、その後、復興し現在の寺観になったのは享保15年(1730年)という。

仁王門
現在の仁王門は江戸中期の享保15年~享和2年(1730~1802年)に建立風格の良く現れた建物です。、京都府の文化財に指定されています。


ここの仁王さん出張中でいません。


現存の「本堂」は享保5年に着工し、10年の歳月をかけ享保15年(1730年)に完工したものといわれており、京都府の文化財に指定されている。
二重屋根の特異な形をし宝形造。
過去・現愛・未来を唐破風、千鳥破風の屋根


手水所
本堂と同じ宝形造

鐘楼  
本堂前の階段を上がるとあります。
そのそばには大きな銀杏の木があり、この木は元永2年(1119年)鳥羽天皇がお手植えした銀杏と伝わっている。銀杏の木は舞鶴市の文化財


経堂
まるで土蔵のようであるが経堂です。
仁王門と同時期の享保2年から享和2年(1730年~1802年)建築


馬頭観音像
三十三カ所霊場の中で唯一の観音様です。
農耕の守り仏として、あるいは牛馬畜産、車馬交通、また競馬に因む信仰を今もなお広く集めています。

  渡廊下



寄り道
金剛院

住所:京都府舞鶴市鹿原595
山号:鹿原山
宗派:真言宗東寺派
本尊:波切不動明王
創建:天長6年(829年)
開基:高岳親王
関西花の寺(紅葉)第三番霊場


三島由紀夫の小説「金閣寺」の舞台。


高岳親王によって天長6年(892年)に開かれ、白河天皇が中興したと伝えられる。境内にある三重の塔は重要文化財。


宝物殿には平安時代の「阿弥陀如来座像」「増長天立像」や鎌倉時代の仏師快慶作「深沙大将立像」「執金剛神立像」など多数の重要文化財などが展示されている。関西花の寺第3番札所。「丹後のもみじ寺」ともよばれ、例年11月には数千本のもみじが紅葉する。
 
高岳親王は大同4年(809年)に嵯峨天皇の皇太子にたてられたが、翌大同5年(810年)薬子の変が起こり皇太子を廃されてしまう。


弘仁13年(822年)四品の位を受け名誉回復するも返上し出家、真如と名乗った。
(皇族で最初に出家した親王らしい。)
その後空海の元で修行し、空海の十大弟子となった。
承和2年(835年)空海入定の際も重きをなしている。
貞観4年(862年)真如は唐へ渡り(長安に着いたのは貞観6年(864年)) 密教の教えを受けるが
満足できず、天竺行きを決意。
貞観7年( 865年)、海路天竺を目指したがその後は消息不明となり、羅越国にて亡くなったと伝えられている。


真如入唐後寺は荒廃したらしいが、永保2年(1081年)白河法皇により再興。
本尊も当初は阿弥陀如来であったがその際不動明王が勧請された。
久安2年(1146年)には藤原得子(美福門院)が再再興している。


戦国時代になると丹後国は細川氏の所領となり、細川幽斎もまた金剛院に帰依し、
鶴亀の庭とともに楓を植樹している。

 


三重塔

  鐘楼

  本堂

 本堂の入り口  菊の紋章があった。




高さ22m、幹周5.3m。


宝物殿
以下は当寺の所蔵仏像の説明です。
深沙大将(じんじゃだいしょう)立像  重用文化財
(鎌倉時代 快慶作)〈寄木造・彩色 像高84㎝〉


鎌倉時代の有名な仏師快慶の代表作とも言われる仏像です。
この像の左足の内側に「巧匠アン(梵字)阿弥陀」の墨書銘があり、快慶が法橋の称号を受けた1203年より前の初期の作品であることがわかる。


 深沙大将(じんじゃだいしょう)は、多聞天の化身ともいわれますが、西遊記の話の元となった唐の玄奘(げんじょう)三蔵法師が仏典を求めて天竺(インド)への旅の途中、砂漠で危険な目にあった時にその危険から救ってくれたという仏教の守護神です。


 その姿は、左手で青蛇をつかみ(この像は欠失)、右手の掌を前にして構え、腰布(獣皮)だけを身に着けた上半身裸の憤怒の表情をした力士形の像で、砂漠を乗り越える獣の象徴とされる象の口から足を出しています。


腹部に子供の顔を現す仏像もありますが、この像にはありません。
また三蔵法師は何度もこの深沙大将に食われたとされ、そして何度も生まれ変わったといわれています。このため、この深沙大将の首から胸の前には前世の法師の髑髏(どくろ)を飾りとしてつけていたといわれますが、この像は欠損したようで現存していません、


この像は、髪を逆立て、その顔はすさまじいばかりの忿怒の表情をしており、また全体に動きのある構図でありながら、筋骨たくましい体やしっかりした腰の力強さなど、写実的な迫力に満ちており、仏師快慶の初期の造像姿勢が表現されている傑作といえる。


深沙大将の造像例は比較的少なく、全国でも9例ほどとも言われています。金剛院のほか、重要文化財に指定されているのは、高野山の霊宝館、福井県小浜市の明通寺、岐阜県揖斐郡の横蔵寺の像が挙げられますが、その他に三重県鈴鹿市の神宮寺や東京都の深大寺などの像など数件があります。


執金剛神(しゅこんごうしん)立像【重文】(鎌倉時代 快慶作)〈寄木造・彩色 像高86㎝〉


鎌倉時代の有名な仏師快慶の代表作と言われています。
執金剛神(しゅこんごうしん)像と深沙大将像は宝物館に入って右手にガラスケースの中に安置されています。


制作年代も「巧匠アン(梵字)阿弥陀」の墨書銘があるため、深沙大将像と同じく快慶初期の作品です。この2つの像は良く似ており、一対として製作されたものと考えられます。


執金剛神(しゅこんごうしん)は「金剛杵(こんごうしょ)を執(と)るもの」の意味で、手にはとても強く固い法具である「金剛杵」を持ってお釈迦様を守護する神です。その起源はギリシア神話のヘラクレスであるとも言われており、後にこの執金剛神が、この像が後に、阿吽の左右2つの「仁王(金剛力士)像」として表現されるようになったと考えられています。


しかし、仁王像は筋肉隆々の力士像ですが、執金剛神単独で表現される時は、甲冑(かっちゅう、よろいかぶと)をつけた武装した形で表現されます。
執金剛神像も深沙大将像と同じく日本での作例は少なく、東大寺法華堂(三月堂)の秘仏が有名です。


この金剛院の執金剛神像はこの国宝の法華堂(三月堂)像とよく似ており、快慶が法華堂の像を学んでつくったものと推測されています。


東大寺法華堂
法華堂の像が等身大の塑造であるのに対し、こちらの金剛院の像はそれよりも小さな寄木造りです。


阿弥陀如来坐像 重用文化財(平安時代後期)〈寄木造 像高:約170cm〉
増長天・多聞天立像 重用文化財(平安時代後期)〈寄木造 像高:約160cm〉
金剛力士像 2躯 重用文化財(鎌倉時代)〈寄木造 像高:約180cm〉


金剛院以外にある像は、この金剛院にも近い「松尾寺」に安置されている「阿弥陀如来坐像」と京丹後市にある「如意寺」の「地蔵菩薩坐像」の2体


                      以上 見仏入門から
                      仏像に興味のある方は是非ご覧ください

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