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滋賀県 旧跡 平家終焉の地 「宗盛塚」「蛙なかずの池」

平家終焉の地 「宗盛塚」「蛙なかずの池」


住所:滋賀県野洲市大篠原 国道8号から少し入る。
道の駅鏡の里から4分 うっかりするととおり過ぎてしまいます。
普通車:ありますが数台


平家終焉の地平家終焉の地はほとんど国道8号線に面した場所にあるのですが、案内板がなければまず気付くことはないぐらいひっそりとしている。ここには、この地で斬首された平家の長者・平宗盛とその嫡男・平清宗の胴塚が残されている。


義経が元服した滋賀県竜王町の「鏡の宿」から、京の方へ少し通り過ぎた野洲町大篠原(おおしのはら)は、平家終焉の地であります。
1185年3月24日壇ノ浦合戦で敗れた平家一門はことごとく入水、戦死しました。
しかし一門のうち建礼門院(けんれいもんいん)、平宗盛(たいらのむねもり)父子、清盛の妻の兄平時忠(たいらのときただ)だけは捕らえられました。
平家物語』における宗盛の人物像は、まさに愚鈍そのもの。偉大な父・清盛、優秀な兄の重盛、弟の知盛の才能と対比させる目的もあるが、徹底的に無能ぶりを書き立てている。
源平最後の戦いである壇ノ浦の戦いにおいても、宗盛は終始狼狽えるだけで、結局入水もままならぬために家来に海に突き落とされている。しかも泳ぎが達者であったために、清宗と共に沈むことなく浮かんでいたところを源氏方に捕縛されてしまう。



宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉に向かいましたが、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越(こしごえ)から京に引き返します。しかし、義経は鎌倉に入れなかったが、宗盛父子は源氏の棟梁源頼朝の前に引き出されて尋問を受けるも、どうにかして助命を請おうと言い訳を続け、周囲から嘲笑されてしまいます。しかしその願いは叶わず義経により、京へと護送される。
京まであと一日の、ここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総大将宗盛とその子清宗を処刑いたしました。
義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられました。
今は狭くなっていますが、塚の前には広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなった事から「蛙なかずの池」とも呼ばれています。
現在は、「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた碑と風雪に耐えた石仏がまつられています。
義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っておりますが、その日は義経自ら元服した「鏡の宿」を血で穢(けが)すのを避けてわざと通り過ぎたと伝えられております。


滋賀県竜王町観光協会より参考としています。

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