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愛知県  犬山祭  ユネスコ文化遺産

犬山祭 
犬山城下町一帯
犬山市大字犬山字富士見町14(犬山駅観光案内所)

華やかな車山(ヤマ)が古い町並みを巡行することで有名な犬山祭は、針綱神社の祭礼として寛永12年(1635)に始まったと伝えられています。祭りに参加する町内は、犬山城下の針綱神社の氏子域からで、現在は13町内から出される車山のほか、3町内から練り物が出され、計16町内が参加しています。13輌の車山は、昭和39年に愛知県有形民俗文化財に指定されました。犬山祭の車山行事は、平成18年に国の重要無形民俗文化財に指定され、平成28年に全国33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されています。













この様に露天商の屋台もゆうに40は超えるほど。
朝から行きまして、屋台で食べ歩き、食堂でおでんで一杯などすごく楽しめます。
夕方4時頃に寄託すれば自動車なども混みません。








これは山車の方向を変えるところです。すごい力ですね。



凄い熱気です。



からくり人形館では、筆を持った人形が神に字を書いていました。
「寿」上手な字 操る人は5人ほど





神社から見た犬山城












唯一珍しい船形の山車です。


車山
他の土地では山車(だし)と言いますがここ犬山では(やま)といいます。
犬山祭に登場する車山13輌のうち、船型である1輌を除く12輌の車山は、犬山で発達した形態で、犬山型と呼ばれています。三層の構造で、上から上山、中山、下山と言います。上山はからくり人形の舞台で、人形の操作を行う中山からの吹き抜けになっています。下山では若衆や子どもたちが囃子を演奏します。13輌の車山すべてが、演目を異にした精巧なからくり人形を載せていることは、犬山祭の大きな特色の一つです。


犬山祭の見どころ
江戸時代から続く車山の祭り。全国的に珍しく全ての車山(13輌)に仕掛けも見事な、からくり人形を備え、からくりを針綱神社に奉納する。昼は咲き誇る桜に劣らぬ華麗さ、夜は365個の提灯をいっせいに灯して巡行する絢爛さが見どころ。重さ5t超の車山を、男達が豪快に持ち上げて方向転換する「どんでん」は大迫力。


 尾張地方の祭車の起源は名古屋・東照宮祭の山車に始まるといわれますが,この東照宮の祭礼が犬山祭に与えた影響も当然あったと思われます.


 しかし名古屋で発展した名古屋型の山車が二層であるのに対し,ここ犬山では独自の発展を遂げ三層の車山へと変化しております。
 このような,いわゆる犬山型の山車は当地以外でも近在の楽田(犬山市),今伊勢(一宮市)でも見ることが出来ます。


それでは各町の山車の紹介
車山名「遊漁神」は、異境から訪れて漁をもたらす神,あるいは商家の福の神とされる「恵比須の鯛釣り」のからくりに因んでつけられています。
 明治維新後の行政区画改革で、魚屋町からこの枝町が分離し、それまで一番車山だった魚屋町「真先」車山に変わって、この遊漁神が一番車山となり、三番叟人形が御幣を左右に振り13輌の車山巡行の安全を祈願します。
 そして試楽の車山揃えには他の車山を代表して余坂先まで巡行して,天王坂のお旅所に向けてからくりを奉納します。


車山の歴史
 祭礼参加当初は雪丸の練り物で,延宝2年(1674)より石引車になりました。(当時引かれた石は,現在妙海寺境内にある稲荷社の座石になっているとの伝承)。
 また,正徳5年(1715)より踊り山になり,石引踊りとして源氏聟入狂言・信濃釈迦踊り・お江戸通り踊りなどがされたとも言われます。
 その後「恵比須鯛釣り」のからくりに変えられましたが、これは犬山城番佐藤金平の作と伝えられています。
 元禄年間(17世紀末)・天保年間(18世紀後半)・文化8年(1811)・文政3年(1820)に大小の修復がなされ,明治10年(1877)には車輪・心棒を残して上部三層を楽田横町に譲渡し,他の車山の上部三層を加えて新たに建造されました。
 昭和37年(1962)には金襴及びラシャ地に龍・獅子・虎の図を金・銀糸で刺繍した水引を新調し,昭和49年(1974)には漆塗り金箔施工をして、19世紀初頭の姿に戻す大修理が行われました。さらに、平成7年には2500万円をかけ修復工事が行われています。


眞先(魚屋町)
車山名「眞先」は、かつて犬山祭に曳き出される13輌の車山の中での一番車山というところに由来しています(現在は当魚屋町から分離した枝町が一番車山になっています.)
 枝町が分離以前の魚屋町には日蓮宗の2寺があり、日蓮宗徒が多く、檀徒の中の有力者が教祖日蓮の木偶を車山に上げたそうです。
 からくりの用具に「日月」と記した垂れ軸と星人形が使われおり、日・月・星の三光に因みこの車山は「三光車」とも呼ばれていました。
 6本の乱杭の上を唐子が支えもなく渡り歩いて行くからくりは、安永3年(1774)に竹田藤吉が制作したもので,このからくりの仕掛けは秘伝でした。それを探ろうとして毎年祭のたびに見に来ていたものが、偶然の機会にその仕組みを知り、岩倉上市場の山車が模倣のからくりを作ったと言われます。
 平成9年(1997)には絶えていた前人形を復活しました。


車山の歴史
 寛永12年(1635)に茶摘みの練り物を出したのが起源で、正保元年(1644)からは車山になり,そのときのからくりは「日蓮上人星下りの図」でした。この車山は台車程度のものだったようです。
 元禄2年(1689)に当魚屋町の大工木村伝助によって車山が建造され,延享元年(1744)には伝助の息子源右衛門によって再建されました。この木村父子いずれかによって,今日の三層車山の原型が作られたと思われます。
 そして安永3年(1774)には名古屋の人形師竹田藤吉によって乱杭渡りの唐子を加えたからくりが作られ、これが今日まで継承されています。
 文化2年(1805)には心棒の破損を機に、それまでの車山よりも高さ・巾とも縮小の改造がなされています。以後,幕の造り替えや部分的修理は行われてきましたが,大規模な改造はされず、昭和54年(1979)に総額520万円をかけて大修復がされ、現在に至っています。


水引幕「白澤」
白澤とは額に三つ,体側の左右に三つ,合計九つの目を持ち,人面の獣身をしています.
 「今昔百鬼拾遺」によれば、中国湖西省東望山の沢に住み,能く言葉を操り万物に通暁しており、治めしめるものが有徳であれば姿をみせたといいます。
 日光東照宮の拝殿にも描かれています。江戸時代には、旅行の護符として、白澤を描いた図を懐に忍ばせれば道中安全の御利益があり,枕元に置いて寝るならば悪夢を見ず,邪気を祓うとも信じられていたそうです。
 また、漢方薬の守護神とされており、安政年間のコレラ大発生の時には辟邪の護符として尊ばれました。
中幕「龍虎」です。


應合子(下本町)
寛永12年(1635)に馬の塔を出したのが祭礼への初参加で、この時に聖の練り物もあわせて出されたともいわれます。車山になったのは寛政8年(1641)で、当時の幕は木綿地を花色に染めた質素なもので,からくりも当町の新三が作った「蜘舞」という青竹に赤い紙を左巻にしたのに人形を付けて、ぐるぐるまき廻す単純なものだったようです。
 その後,時代とともに幕は羅紗地の猩々緋に、水引は錦となり、からくりにも造作が加えられ,唐子人形が添えられて「唐子」のからくりと呼ばれるようになりました。
 宝暦11年(1761)に車山に枡組が取り付けられ、安永4年(1775)には唐子の大人形が小人形を肩にのせるからくりが名古屋の文吉離三によって制作され、今日の車山とからくりの原型が成立したと考えられます。
 天保7年(1836)には大規模な車山の修復が行われ、その4年後に車山の蔵が建造され、現在も車山蔵として用いられています。近年には昭和54年(1979)に総額660万円をかけて車山が修復され、平成10年(1998)からくり人形が全面修復されています。


 應合子の屋根には梵天がありません。
 車山の屋根の天井裏には天保7年に肥田久吾によって書かれた墨書が残されており、それによると、『祭礼への参加は当下本町と魚屋町が寛永12年(1635)に馬の塔・練り物を出して同年であったのに、両町はその前後を争って神主長太夫に判定を求めた。
 ところが、神主は魚屋町から銭五百文の賄賂を受け取って魚屋町を先だとしたので、当町の者が神主の袖を引きちぎった』事などが書かれているといいます。神主の不公平な裁定に対する抵抗の姿が13輌の車山のなかで唯一梵天のない車山になったといわれます。


西王母(中本町)
慶安3年(1649)より車山を出し、当初のからくりは「龍門の滝」であったといわれます。その後,からくりは「西王母」に変えられ,安永5年(1776)に名古屋の人形師竹田藤吉によって「西王母唐子遊び綾渡り」に作り替えられています。
文化11年(1814)・天保11年(1840)に修理が行われ、近年では昭和51年(1976)に総額225万円をかけて上・中山が修理されました。
車山名「西王母」はこの車山のからくりから名付けられたもので、西王母とは中国の西方にある崑崙山にその昔住んでいた神女だといわれます。
 上山の四方にある四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)の彫刻は早瀬長兵衛吉政によるもので、中山欄間の獅子・下山欄間の龍・ぶどう柱の獏なども彼の作と言われます。
 車山の車輪は,方円式といわれる作り方で,材料の木口全体が円周に対し直角になるよう作られています。これは車輪の摩耗を少なく,しかも均一にする上で効果あるもので、犬山13町内の中で唯一のものです。


住吉臺(熊野町)
当初は,「佐与姫」の練り物だったのが、慶安2年(1649)より車山になったといわれます.延宝3年(1675)には当町の大工源七によって改造され,最初のからくりは「大黒天」でした。
 その後,安永8年(1779)の修理を経て文化9年(1812)には車山の塗り直しが行われ、文政7年(1824)当町大工吉右衛門・木挽三治,名古屋京町(現名古屋市中区)の彫物師公勝・漆屋和助らによって車山は再造されました。
 この時点から、今日のからくり「住吉」になったようです。それ以後元治元年(1864)に車山の修理があった他は、車山・からくりともに大きな改造・変化はなく昭和50年(1975)に心棒の取り替えがなされて現在に至っています。
車山名「住吉臺」は「住吉・白楽天」のからくりに因んで付けられたもので、能の「唐の白楽天と老漁夫の知恵問答」から採られたとのことです。
 なお,この車山の天井板に、安永8年(1779)の記として、「叶、千鶴、萬歳、千亀」が天地逆に書き留めてあります。これが何を意味しようとして書かれたのか謎となっています。


浦島(新町)
犬山の車山13台中唯一の船車山です。
からくりは、玉手箱を開けた浦島太郎がたちまち翁になってしまうという、よく知られた浦島太郎の伝説によるもので、現在使われている人形は,昭和3年(1928)に名古屋の玉屋庄兵衛が制作したものです。(平成13年九代目玉屋庄兵衛修復)
 車山名「浦島」はからくりから名付けられたものですが、車山の船首の形状と、構造的にも鶏形をしているところから「鶏車山」とも呼ばれています。


車山の歴史
 慶安3年(1650)より大母衣・小母衣の練り物で祭りに参加.天和3年(1683)より小母衣の武者の練り物に変わりましたが、当時の差し物に軍扇があり、それは大阪屋吉次の家宝とされていたのを借用した物で、豊臣秀吉からの拝領品であったといわれます。
 その後、子供の母衣武者から、安永年間には幟1本の参列に変わりますが、この時点ではまだ車山はなく、18世紀末には花車を曳いて参加していました。
 文化8(1811)年に「黒船」が作られたと伝えられ、嘉永2年(1849)には他町と同様の車山と変えられました。この時のからくりは「龍宮の子供遊び」だったとのことです。
 ところが、明治6年(1873)には名古屋から船型の山車を譲り受け、その翌年に修理をしたと伝えられ、この車山は再び「黒船」と呼ばれましたが、二層作りだったようです。からくりはこのとき既に現在と同じ「浦島」になっています。
 その後、明治20年(1887)に、車輪などを新調。この時に車山は三層に改造されたと考えられます。その後部分的な修理が行われ、昭和55年(1980)に車山全体の解体修理が総額682万円で行われ現在に至っています。



咸英(本町)
中山の欄干は紫檀で作られており、これは明治の始めに,はるばる横浜まで出向いて、一万両で購入したものと伝えられています.また、上山・中山のびわ板は堆朱で豪華さを誇り,下山突き出しは山柿と花梨の材です。
 下山の水引幕の鯉・群鶴の下絵は岸駒によるもので、現在の幕は昭和54年(1979)に再製されました。
 車山名「咸英」は、こうした高価な材料を用い、優れた工芸を施した車山という意味で「すべて秀でる」として,名付けられたものです。
平成11年(1999)からくり人形が、九代目玉屋庄兵衛により修復されました。


岸駒(がんく) 越前守岸駒.江戸後期の画家で岸派の始祖.山車幕として他に亀崎潮干祭の中切組力神車の大幕・水引幕が有名。


車山の歴史
 慶安3年(1650)に巡礼の練り物を出し、その後,唐人の練り物から、元禄12年(1699)には踊り山となり、提灯踊りや俵踊りなどが演じられました。延享2年(1745)より車山となり,当初のからくりは「七福神」で、その後,安永年間に名古屋の人形師竹田藤吉によって「唐子遊び」のからくりに作り替えられ、これが今日までひきつがれています。
 車山は文化2年(1805)に再造.さらに慶応元年(1865)にも再造され現在に至っています。


国香欄(練屋町)
下山の水引は文政4年(1821)制作されたもので、松と鶴があしらわれています。中幕は四神(鳳凰・亀・虎・龍)の刺繍です。
 中幕の正面に、この車山のみ大房を掛けていないのは、この中幕そのものが魔除け幕であると昔から言い伝えられているからです。
 また、上山勾欄がこの車山のみ朱塗りになっているのは、からくりにちなみ牡丹の赤色をあらわしているともいわれております。
 からくりは「石橋」と呼ばれるもので、その後「弁才天石橋獅子」とか「文殊」「獅子牡丹」とも呼ばれましたが、その内容は今日も同じで、人形も当時のものが使われています。


車山の歴史
 慶安3年(1650)から鷹匠の練り物を出し、天和3年(1683)には車山が作られました。その後、元禄13年(1700)には踊り車山となりましたが、享保7年(1722)に、枝町・本町と共に踊りは中止され、寛保2年(1742)にからくりの「文殊菩薩人形」を作り車山も三層へと改造されました。
その後も、享和3年(1803)下山の張り出しが作られ、文化12年(1815)には、車輪が新造されております。
 また天保13年(1842)には,名古屋末広町の瀬川治助父子によって、上山の鶴・中山の龍・下山の狛犬が制作されており、これは「無双彫り」と言われる彫りの深い作りで、車山の四方を一連として組み合わされています。


寿老臺(鍛冶屋町)
慶安4年(1651)に伊勢参りの練り物から、寛文10年(1670)には御座船の車に変えたのが始まりです。その後、元禄15年(1702)に踊り山になって、「笠踊り」「唐人踊り」などが踊られたようです。この時の踊り山の幕は犬山城主からの拝領品の緞子だったといわれます。
 18世紀前半には3層の車山になり、明和9年(1772)に車山の大規模な修復が行われました。この少し前から、からくりは「石橋」となりましたが、18世紀末には名栗町の縫英の布袋人形を譲り受けて「布袋和尚唐子遊び」になったといわれます。その後天保6年(1835)にからくりが変えられましたが、これが現在に伝えられている「寿老人」のからくりと考えられます。
 明治36年(1903)車山が老朽化し、それまでの車山と全く同形のものを新造・復元しました。これは擬宝珠以外は装飾金具・塗料をいっさい用いず、総白木作りで建造されました。
なお,この旧車山は中島郡馬寄村(現一宮市今伊勢町馬寄)に譲渡されて「大聖車」として現存しています。


 車山名「寿老臺」はからくり人形が寿老人であるところから一般にそういわれるようになりましたが、もともとは、「石橋寿老臺」と呼ばれていました。
 下幕・水引は明治41年(1908)に、からくり人形の衣装は大正6年(1917)に新調され、また中幕は大正11年(1922)・昭和24年(1949)・昭和52年(1977)にそれぞれ新調されています。



絳英(名栗町)
延宝2年(1674)から大神楽を出し、元禄2年(1689)より車山になりました。からくりは「布袋和尚」でしたが、鍛冶屋町の寿老臺に譲渡し新たに「時平公・管相公」に替わりました。車山は年を経て修復されてきましたが、文政5年(1822)に下山と車輪が作り替えられ,天保4年(1833)には上山・中山が作り替えられました。また、嘉永7年(1854)には下山が修復され、近年では昭和56年(1981)に総額800万円で全面的に修復が行われ現在に至っています。
 現在のからくり人形は明治2年(1869)に名古屋の人形師土井新三郎によって作られたもので、歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」から題材を採り、右大臣菅原道真と左大臣藤原時平、それに唐子を配して演じられます。
 水引は明治8年(1875)に、からくり人形に合わせて冠・笏・軍配・太刀を羅紗地に金糸・銀糸で縫取りされて作られています。
 車山名「絳英」は縫い物がすぐれているところからつけられたと言い伝えられています。


老松(寺内町)
古くは延宝2年(1674)より「雪丸げ」を台に据えて出していました。これは大きな雪の玉に模した作り物に松の木を添えて飾ったもので、18世紀になると、台に車がつけられて巡行されるようになりました。
 その後、二層の車山になり上層に雪丸げが載せられ、松と梅の木が添えられるようになりました。
 文政13年(1830)になると車山に天井がつけられ、その翌年より、雪丸げに代わって人形からくりが演じられるようになりました。
 現在のからくりは天保2年(1831)からで、昭和58年(1983)に総額892万円をかけて全面的な修復がなされ、昭和62年(1987)には玉屋庄兵衛によって人形修復が行われました。


 車山名「老松」は上山に松の木が飾られているところから命名されたと思われますが、その出自は明確ではありません。人形からくりが巫女舞であることから明治18年(1885)頃には「神子車」とも呼ばれたことがあるようです。


宝袋(余坂)
犬山祭の全13輌の車山のうち,総白木作りはこの宝袋と鍛冶屋町の寿老臺のみで、車山の彫り物は明治3年(1870)に陳里長によって彫られたもので、彫りが荒々しく大型に作られています。
 中山の麾振り人形は通称「余坂のベロ出し」と呼ばれるもので、目玉が二様に変化し,舌を出したり引き込めたりしながら体ごと御幣を左右に振ります。異様な顔つきと青みがかった土色の面相の口から、真っ赤な長い舌を出し、怒りの大きな目玉を剥き出した形相は、一面ユーモラスな面も持ち合わせています。
 なお麾振り人形は、18世紀前半には犬山の各車山につけられていたようですが、その後の改修などによって減少し、現在では宝袋と枝町「遊漁神」にのみ残されています。(平成9年からは魚屋町「真先」にも)
 車山名「宝袋」はからくりの内容から付けられたもので、江戸時代には「二福神」や「大黒車」と呼ばれ、現在でも夜車山の丸提灯には「二福神」と書かれています。
からくりは、大黒天が宝袋に槌をふり下ろすと、袋が割れて中から舟に乗ったえびすが舞い上がるものです。
 平成11年(1999)からくりに因んだ恵比須大黒の水引幕が新調されました。


車山の歴史
 延宝2年(1674)より馬の塔を2匹出し、その2年後に山伏の練り物に変えられました。文化10年(1813)には、練り物に代わって車山が出来、からくりは「二福神」で一説には「山伏・比丘尼」とも言われたようです。
 天保13年(1842)6月に、当時の余坂村内より出た火が折からの風にあおられて大火となり、余坂村は全焼しました。この時の火災により、車山も消失して以後しばらくの間は空白の期間となっています。
 明治3年(1870)になり車山が再造され、からくりも以前のものを再現したと思われる「夷子・大黒二神の舞」です。以後昭和10年(1935)に中幕,昭和31年(1956)に中幕を新調し、昭和51年(1976)には総工費200万円をかけて車山の修復が行われ、現在に至っています。


梅梢戯(外町)
車山名「梅梢戯」は、唐子が梅の梢で戯れるからくりから付けられたものです。また、本楽祭にからくり人形を奉納する際,梅梢戯は上山勾欄に御神酒を供えることを慣例としてます。
 車山の彫刻は、名古屋の彫師早瀬長兵衛の作で、水引の「珊瑚取り老人」の下絵は神原徳輝(鳳章斎)が描いたものです。
 この車山は13輌の中でしんがりとなっていますが、これは車山の創建順位ではなく、巡行届が一番最後になったためだといわれています。


車山の歴史
 延宝2年(1674)より車山を出し、からくりは「七夕二つ星」でしたが、文政10年(1827)玉屋庄兵衛により「梅渡り」のからくりが作られ、このからくりはその後現在に続いています。
 車山は明治10年(1877)に車輪と車軸を除いて、三層が新しく建造されました。制作費は当時の金額で総額848円余りにもなりましたが,この支出は町内の人々にとって大きな負担であり、町所有の家屋を売却したり、講をしたり,旧車山の売却などをして費用を捻出したそうです。
 昭和51年(1976)にからくり人形が7代目玉屋庄兵衛によって修理されています。また、昭和53年(1878)には心棒・梶棒そして上山四本柱が総額400万円で新調されました。


参考資料:犬山市史
犬山お城まつり実行委員会発行「犬山祭」パンフレット
犬山祭保存会からくり委員会編集「からくり解説集」
犬山祭保存会からくり委員会「からくり夢競演解説台本」
山崎構成著「曳山の人形戯」など
以上資料により引用



練り物
犬山祭は、今でこそ車山を中心とした祭礼になっていますが、祭りが始められた当初は、練り物とよばれる趣向をこらした作り物や仮装などの行列が祭礼を賑わしていました。その伝統を3町内が現在まで引き継いでいます。犬山祭は当初の練り物を一部に残しながら、パフォーマンス主体の練り物の祭りから、次第に造形物主体の車山の祭りへと発展してきたのです。


1998年(平成10年)からは10月にも「秋の犬山お城まつり」が開催されるようになり、数輌の車山巡行と「からくり夢競演」と題して13町内のからくりと有志によるからくり披露が針綱神社前広場で実施されていた。2003年(平成15年)の初日(10月25日)には車山13両、2004年(平成16年)にも車山を12両が針綱神社に集結するなどの豪華な祭が行われた(博覧会協会からも補助金が出された)。しかし2005年(平成17年)には財政難で秋の方は中止の危機に瀕し、市からの補助金に出来る限り依存しない「城下町秋まつり」へ変更された。車山の巡行は再び春のみに行われることとなっています。
2007年(平成19年)、春の「犬山お城まつり」の一環として実施されていた犬山祭「宵まつり」を廃止し、その予算を原資として「城下町秋まつり」の一環事業のような形で秋季の車山揃えが実現した(10町内のみ参加)


どんでん館
4輌の車山が常設展示されており、祭礼以外でも間近で車山を見ることができ、祭りの雰囲気を味わうことが出来ます。

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