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京都最古の禅寺 建仁寺 双竜に風神雷神図

2021年10月2日記事修正しリライトしました。
建仁寺  世界遺産
住所:京都市東山区小松町584
山号:東山
開山:明庵栄西
宗派:臨済宗建仁寺派大本山
電話:075-561-0190
駐車場:意外と広いのです。40数台。無料
市バス「東山安井」より徒歩5分。
京阪電車「四条駅」より徒歩7分。
阪急電車「河原町駅」より徒歩10分。


京都五山の第三位に列せられています。建仁寺は多くの文化財を保有し、「風神雷神図」は本やテレビで観たことがあると思います。しかし、この屏風は塔頭(妙光寺)からの寄贈でしかも本物は京都博物館に寄託されています。


また多くの重要な絵画も京都博物館に寄託しており、本物はありません。精密の複製画が展示されておりますので、写真は撮影可能となっています。


1202年(建仁2年)、鎌倉幕府第2代将軍の源頼家が土地を寄付し、臨済宗の開祖である栄西によって開山されました。


栄西
備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。


建仁寺の名前は元号を寺号となりました。
創建時は密教の力が強く、天台、真言、禅の三宗兼学の道場とされていました。
1258年に東福寺を開山した円爾弁円(えんにべんえん)が建仁寺に入寺、翌年には宋の禅僧、蘭渓道隆の入寺をきっかけに禅の道場となります。


応仁の乱で伽藍は焼失。
一時荒廃の一途をたどり、天正年間に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興され、徳川幕府の保護受け、明治時代に臨済宗建仁寺派として分派独立し大本山となります。


鎌倉時代の遺構を伝える「勅使門」重要文化財
鎌倉時代後期の遺構を伝える銅板葺切妻造になっています。
この門は戦乱の矢の痕が残っていることから、「矢の権門」「矢立門」と呼ばれています。


平重盛の六波羅邸の門、または平教盛の館門を移築したものと伝えられています。


望闕楼の別名を持つ「三門」
1923年に静岡県浜名郡の安寧寺から移築されたもの。


三門とは
空門・無相門・無作門の三解脱門。
「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名づけられました。
楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者、十六羅漢が祀られており、二層の屋根を持っています。



建仁寺パンフレットより


双龍が見事な「法堂(はっとう)」
 明和二年(1765年に)建立された法堂は仏殿を兼ね、別名を拈華堂(ねんげどう)と言います。歴史のある建物です。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。


この法堂には2002年に、創建800年を記念して小泉淳作が描いた、双龍の天井絵があり迫力を感じます。
建物は五間四間の禅宗様仏殿建築になっており、内部には本尊の釈迦如来座像、脇侍迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。



方丈 重用文化財
有名な風神雷神図屏風の複製を展示されています(複製画)
1599年、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が広島にある安国寺から移築したものです。


1934年に台風で全壊しましたが、1940年に再建されました。
優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。白砂に縁苔と巨岩を配した「大雄苑」と称される枯山水の前庭は、大らかな味わいがあります。
二曲一双屏風の風神雷神図屏風の複製画


襖絵
海北友松筆《雲龍図》
海北友松筆の《雲龍図(1599年)》は、方丈の玄関に最も近い下間(礼の間)にたてられた襖に描かれた。


黒雲の中から姿を現した阿吽二匹の龍が向き合って動と静で対峙し視線をぶつけあう姿が描かれている。襖のサイズは、縦2M近く、横は4面で5~8Mずつの迫力ある大画面である。
この襖絵が吹け静画とはわからない実に成功にできています。


 建仁寺方丈で見る《建仁寺方丈障壁画》は《綴(つづり)プロジェクト》で作成された高精細複製品です。


桃山時代の画壇の巨匠・海北友松(かいほうゆうしょう)は建仁寺と関係が深く、彼の描いた襖絵「竹林七賢図」・「雲龍図」・「花鳥図」等が文化財として建仁寺に数多く残されています。また、「生々流転」・「伯楽」・「深秋」・「松韻」など、大正から昭和にかけて活躍した橋本関雪画伯(1883~1945)の晩年の傑作も目にすることができます。


風神雷神図屏風と雲龍図襖絵のオリジナルは、京都国立博物館で保存されています。
有名な風神雷神図ですが、これはもともと1639年に妙光寺に奉納されましたが、その後建仁寺に寄贈されました。


これは建仁寺が妙光寺の再建に尽力していただいたお礼としてなされたものです。妙光寺にも精巧な複製画があります。


本図には落款も印章もありませんが、宗達の真作として、しかも晩年の最高傑作とされています。二曲一双の屏風全面に金箔を押し、右双に風神、左双に雷神を描いています。


風神雷神図は建仁寺に戻ると雷鳴が響くという言い伝えがあります。
左に雷神、右に風神が描かれ、縦154.5センチ、横169.8センチの大きさがあります。


「本坊(庫裏)」
拝観の入口になっている本坊(庫裏)。
もともと庫裏は台所を意味しています。
1814年に建立されました。
正面に見える「大哉心乎」の額は、栄西の興禅護国論の冒頭部分になります。

秀吉の北野大茶会での副席「東陽坊」
秀吉は茶会、花見が好きですね。
東陽坊は、1587年豊臣秀吉が催した北野大茶会の際、紙屋川の土手に造られた副席です。


千利休の高弟、真如堂東陽坊長盛好みと言われています。
二帖台目席の規範とされ、大正時代に移築されました。
西側には「建仁寺垣」が設けられています。


竹垣の中でも最も知名度が高く、多くの人が竹垣についてイメージされる竹垣です


栄西の墓所「開山堂」


楼門
旧名護院の開山堂。
栄西の墓所になります。
開山堂には、方丈、経蔵、開山塔、楼門などがあり、苔が広がる庭園には栄西が植えたと言われる菩提樹があります。
現在は非公開です。


建仁寺には庭園が3つあり、それぞれ美しさが異なります。

大雄苑(だいおうえん)は1940年に造られた枯山水庭園で、方丈の南側にあります。
中国の百丈山を模し、百丈山は別名大雄山ということからこの名が付きました。
庭園内にある石塔は織田信長の供養塔で織田有楽斎が兄の供養として建てたと言われています。


方丈の縁側に座って、景観豊かな日本庭園を眺めるひと時は、有意義な時間となることでしょう。
他の臨済宗のお寺と比べても一際大きい庭園は、名前の通り雄大な庭園です。

 


潮音庭(ちょうおんてい)は小書院と大書院の間にある庭で、苔の美しい庭。
法堂の三尊仏に見立てた三尊石が置かれています。


夏は緑の苔、秋は紅葉がとても見事です。
四角い形の庭を囲むように廊下が配置され、吹き抜けのようになっている庭園を様々な角度から鑑賞できます。


「〇△ロ乃庭(まるさんかくしかくのにわ)は小書院にあります。
2006年に造られ、臨済宗古月派の禅僧で画家でもある仙厓義梵の「○△ロ」の掛軸が元となっています。


「〇△ロ乃庭」は、江戸時代の禅僧僧、仙厓義梵の「〇△ロ」掛け軸が元になっている庭です。
 
名前の通り、〇・△・ロの記号を組み合わせて庭が作られています。
 
禅の四大思想(地・水・火・風)の地・火・水を表しているという庭は、現代アートのような斬新さすら感じさせます。
奥からロ・〇、手前の砂が盛り上がっている部分が2等辺三角形となっています。
 
四国の大雄寺のロープウエイにも「〇△ロ」のマークがありました。 


京都で3番目に大きい「陀羅尼の鐘(だらにのかね)」
北門を入ってすぐ左手にある鐘楼の鐘をいいます。


開山在世の際、源氏物語のモデルになった源融が、釜ヶ淵の深淵に 沈んでいたものを「えいさい チョスゲ」と、栄西の名を呼びながら引き上げたと伝えられています。


修行僧が床に就く亥の刻(夜の10時過ぎ)に、観音慈救陀羅尼を一万返唱しながらつくことからこの名がつきました。
梵鐘は京都で3番目に大きいと言われています。



鳥羽美花筆襖絵「凪」

浴室
寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)によって建立されました。七堂伽藍の一つで、内部は待合・浴室・土間(火炊場)に三分されています。湯気で体を温める蒸し風呂
禅寺では入浴も修行の一つでした。激しい作法が細かく定められています。


最後迄読んでいただきありがとうございます。

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