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西国三十三カ所観音巡礼の旅  桂昌院ゆかりの寺 善峯寺・諸病を癒す釈迦涅槃像 穴太寺

2019年5月20日、日本遺産登録の発表が文化庁より行われました。
1300年以上の歴史を誇る「西国三十三所観音巡礼」が、日本遺産に認定されました


 桜の時期が一番美しい。


第20番札所 善峯寺  桂昌院のゆかりの寺  松の寺
住所:京都府京都市西京区大原野小塩町1372
山号:西山
宗派:善峰観音宗(天台宗系単立)
本尊:千手観世音菩薩 : 安居院(あぐい)仁弘法師 作
   千手観世音菩薩 : 源算上人           の二体が祀れれている。
創建:長元2年
御詠歌:野をもすぎ山路(やまじ)にむかふ雨の空 よしみねよりも晴るる夕立
電話:


善峯寺は平安中期の長元2年(1029)源信の弟子の源算上人によって創建された。長元7年(1034)後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号が下賜されます。長久3年(1042)後朱雀天皇勅命により、洛東鷲尾寺の仁弘法師御作千手観音を当山に遷して本尊とされて、先の観音像を別に祀られました。


建久3年(1192)後鳥羽天皇より現在の「善峯寺」の宸額が下賜され。また白河天皇や後花園天皇により伽藍寄進。後嵯峨天皇や後深草天皇など皇室の御崇敬をうけた。


鎌倉時代には慈鎮和尚や証空上人が住職を勤め、また西山宮道覚入道親王を始め、青蓮院門跡より多くの親王が籠居されたので、西宮門跡と称された。室町時代には僧坊52に及んだが、応仁の乱により大半の坊が焼失し。その後、江戸時代には徳川5代将軍綱吉公の生母である桂昌院を大檀那として、現存の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂が復興された。

山門・本堂は元禄5年(1692年)、山内最古での建物である多宝塔は元和7年(1621年)の建立。他の建物は上で記述したように桂昌院の援助により整備された。


楼門式で楼上には運慶作の本尊。文殊菩薩と両脇・金剛力士像があると聞くが、ここはで拝観できない。特別拝観がないか待ち遠しい。

鐘楼

護摩堂

経堂
えま堂とよぶ。宝永2年(1705年) 
祈願成就絵馬堂 

経堂内部



多宝塔 (重要文化財)
江戸時代初期元和7年(1621年)賢弘法師により再建された。檜皮葺、高さ12m
ここには上奏を支える邪鬼がいます。4隅



観音堂(本堂)
元禄5年(1692年)再建

釈迦堂
明治18年建立
開山堂・桂昌院廟から十三仏堂を経て釈迦堂に出る

阿弥陀堂 寛文13年(1643年)
常行昧三堂(さんまい)徳川家並びに信者位牌が並ぶ


薬師堂
最上部に建つ

開山堂
開山堂・桂昌院廟から十三仏堂を経て釈迦堂へ

開山堂内部

桂昌殿
善峯寺を拭こう下5代将軍徳川綱吉も母桂昌院の像があります。

桂昌院について
京都の八百屋の娘でっ前は玉子、母親が一条家の家司と再婚したのが縁で玉子は徳川三代将軍家光の側室お万の方の腰元となる。


大奥で働くうちに姿が家光の目に留まり徳松(後の五代将軍綱吉を産む。家光が亡くなった後玉子は髪をおとし、桂昌院と名を改め徳松は綱吉と改めた、四代将軍家綱に子供がいなかったことから家綱が亡くなった後綱吉が五代将軍となり、桂昌院は将軍の母として江戸城に入った。ここで満ち足りた生活を始めた桂昌院は幼い頃のゆかりの善峯寺はじめ多くの寺の復興に尽くした。


寛永2年(1705年)79歳で亡くなり遺骸は増上寺(東京)に葬られたが、善峯寺では恩に報うため遺髪を桂昌院廟所に納めて祀っている。


青蓮院宮墓地
境内の最も奥に位置して、覚快法皇(鳥羽天皇子)、道覚法親王(後鳥羽天皇皇子)_
慈道法親王(亀山天皇皇子)尊円法皇(伏見天皇皇子)、尊道法親王(後伏見天皇皇子)
等々の墓がある。もちろん宮内省の管轄下にある。


本尊
秘仏と脇本尊ということで二体の本尊がある。
本尊は木造漆箔、像の高さは178.8㎝、平安後期から鎌倉時代の作。安居院(あぐい)仁弘法師 作


脇本尊
像の高さは174.5㎝ 寺の創建時期と同じ11世紀前半で全身黒ずんでいるようです。
源算上人 の作

遊龍の松(五葉松、樹齢600年以上、国指定天然記念物 昭和7年指定)
平成5年残念ですが、松くい虫で15mほど切られたそうです。

  松と多宝塔背景に筆者
  




多宝塔  江戸時代 1621年  重用重用文化財

 桂昌院お手植え桜ともみじが絡み合う


 幸福地蔵


十三仏堂

青蓮の滝



  本坊

多宝塔



  奥の院


十三重石塔



バスで来ますとここに出ます



第21番札所 穴太寺

住所:京都府亀岡市曽我部町穴太東辻46
山号:菩提山
宗派:天台宗
本尊:薬師如来
創建:705年(慶雲2年)
開基:大伴古麻呂  文武天皇(勅願)
御詠歌:かかる世に 生まれあう身のあな憂やと 思はでたのめ十声一声


穴太は、絵師・円山応拳の生まれ育ったところとして知られています。


 応和2年(962年)、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成が京都の仏師感世に聖観世音菩薩像の制作を依頼、造立したと伝えられていますが、観世音菩薩像の造立は寛弘7年(1010年)であるという説もある。


聖観世音菩薩像完成後、宮成が感世に礼(礼物は馬であったともいわれている)を渡したが、宮成はその礼物を渡すのが惜しくなり、京都に帰る仏師を待ち伏せして矢を射た。翌日、仏師感世が生きているのを知り、自分の放った矢が観世音菩薩像の胸に突き刺さっているのを見た宇治宮成は、自分の行いを悔い、仏門に入りその観世
音菩薩像を本尊として祀った。


 


仁王門
江戸時代中期 享保20んn(1735年)



鐘楼
宝暦9年(1759年)の建立


本堂
再建

 珍しい本堂の入り口の様子また天井には多くの千社札今は張るとは禁じられていると思います。

本堂につるされた縣仏,ほとんど金箔はげ落ちておりすこし箔が見える。
かけぼとけというが、銅などの円板に仏像・神像の半肉彫の鋳像などを付けたもの。柱や壁にかけて礼拝したもので、平安後期に本地垂迹ほんじすいじやくの思想から生まれ、鎌倉・室町時代に盛行した。


 本堂の厨子の中には本尊の薬師如来と札所本尊の聖観世音菩薩が安置されている。

多宝塔
文化元年(1804年)に建てられたも亀岡市では唯一の木造塔である。



円応院の西側、護摩堂に続く露地にある庭である。

  本道のの庭園である。 まるで額縁のようです。


本堂の東側に納経所があるがその横に念仏堂が建てられている。ここには阿弥陀如来坐像が安置されているようである。


 縁起の項で述べたように説話では、宮成は当初、仏心のない人だったが、後に仏門に入り本尊を祀ったというから、宮成が実在の人物であるとすれば、穴太寺にとっては縁の深い人だったと思われる。そのような宮成の墓としては規模といい、場所といい冷遇されているような気がしてならない。特に墓の場所は目につきにくい所にある。



なで仏 (木彫の釈迦涅槃像)
明治時代の住職が 天井裏で眠っていたこの像を見つけたといいます。
その発端は、大阪天満の天野という夫人が「18歳になる孫娘の病気平癒をお願いしたところ寝姿のお釈迦さまが現れてお助けくださった。


その仏さまは このお寺にお籠りになっておられる。と言って、穴太寺を訪れました。
そこで寺中を捜したところ、天井裏で眠っておられたというのです。


撫でさすられて黒光りのお釈迦さま、布団をめくりなでさすり自分の体も同じところをなでさするとご利益があるといいます。
願いが叶ったら布団を奉納します。
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