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長野県 松本城

松本城   昨年公開しましたが記事がないので再度公開しました。
住所:長野県松本市丸の内4-1
電話:0263-32-2902
築城:1504年(永正元年)
駐車場:市営開智駐車場 
このお城には三回訪れました。
ここは2時間は必要です


松本城は、長野県の松本市に築城されたお城です。松本城の城跡は、国の史跡として指定されています。さらに日本には天守が国宝に指定されているお城が5城存在し、松本城はその5つのお城のひとつです。黒と白の美しいコントラストが特徴です。


松本城は、戦国時代の1504年(永正元年)に築城された「深志城(ふかしじょう)」が前身。深志城は、島立氏が建てたとされています。築城後、詳しい城主は分かっていませんが、30年程、武田信玄によって統治されていた時期もありました。
1582年(天正10年)に織田信長による武田氏の滅亡、さらに同年に起こった本能寺の変などを経て、小笠原洞雪斎(どうせつさい)が深志城を奪還。のちに城主となった小笠原貞慶(さだよし)によって「松本城」と名前が改められました。


小笠原貞慶は、お城の名前を改めた3年後の1585年(天正13年)には、土手や屋敷を築くなど、城郭をはじめ城下町の整備を行ないました。
その後、1590年(天正18年)に石川数正が城主となっています。石川数正は息子・康長とともに、前城主である小笠原貞慶が行なっていた城郭・城下町の整備や拡張を引き継ぎました。文禄元年に数正が亡くなり、城主は康長に替わり、1593年(文禄2年)には、康長は松本城の天守の建設にも着手したのです。


590年(天正18年)に石川数正(元徳川家康の側近、しかし秀吉のため家康を裏切ることになります。秀吉の人たらし?)が城主になって以降、大政奉還が行なわれた1867年(慶応3年)までに城主は23名。石川氏・小笠原氏・戸田氏・松平氏・堀田氏・水野氏の6家が、松本城の城主を務めていました。


1634年(寛永11年)には松本城の天守に戦とは縁のない「月見櫓」
(将軍家光が来ると言うことで造られたが将軍は来ませんでした)
辰巳附櫓が増設されました。


松本城は2度火災に遭遇1度目は1727年(享保12年)、2度目は1775年(安永5年)です。
1度目の火事では本丸御殿を全焼
2度目の火事では三の丸と二の丸の一部を焼失しました。


松本城の最後の城主は、戸田光則です。戸田光則は明治維新後、版籍奉還を政府に申し出、松本藩知事となりました。その後、1871年(明治4年)には廃藩置県が行なわれ、松本藩は松本県になり、松本城の二の丸は県庁となっています。


天守の残っているお城は、日本に12城のみです。
五重の外部構造を持った天守は、松本城と姫路城の2城のみです。


松本城の外部構造は五重ですが、内部は6階建ての構造になっており、外から見える階層と内部の階層が異なっています。
これは焼失した安土城と同じです。


松本城は「望楼型(ぼうろうがた)」と呼ばれる、1・2階部分に3階以上の建物を載せたような天守の造りをしています。


黒門
一の門である「黒門」は、本丸御殿と天守に入るための重要な門です。築城された当時、黒は格調の高い色調とされていたため、その名が付けられたとされています。
昭和35年(1960年)に復元


二の門と枡形(高麗門)
内堀を渡ったところにある門で、高麗門です。平成元年11月、この門とこれに続く控塀(ひかえべい)がつくられ、枡形が復元されました。
平成2年(1990年)復元

二の門と玄蕃石


太鼓門
太鼓門桝形は文禄4年[1595年]ころ築かれた。門台北石垣に大太鼓が置かれていました。
時の合図、登城の合図、火急の合図に使われました。
現在の太鼓門は平成十一年に復元。


太鼓門の上には「太鼓楼」と呼ばれる、太鼓や鐘を鳴らすことによって時刻を知らせたり、城の家臣に情報を伝達したりする楼として使用されていました。このことから「太鼓門」という名が付けられています。


太鼓門の付近には「玄蕃石(げんばいし)」という名前の付けられた、高さが6m重さおよそ22.5tの巨大な石(玢岩(ひんがん)があります。
玢岩は大きくは安山岩に分類され、石基がやや荒いものをいいます。


玄蕃石は、運搬の秘話や苦労が「玄蕃石伝説」となって伝承されており、当時の城主であった石川玄蕃頭康長が運ばせた石だとされています。


月見櫓・辰巳付櫓
月見をするための櫓のことです。お城は本来、戦に備えるために武器が設置されています。
松本城の月見櫓は、戦国時代を終えた江戸時代初期(将軍徳川家光を迎えるために増設されました。しかし家光は来ませんでした。
天守に月見櫓が存在するのは、松本城の特徴です。
高さ11.1mあります・


その後ろの辰巳櫓は14.7m



同時期に作られました。
一階は武者窓、二階は花頭窓、花頭窓の内側に引き分け板戸が設けられ雨水を流す工夫がされています。


   松本城パンフレットより


大天守・乾小天守
大天守と乾小天守は渡櫓で繋がっています。
大天守
高さ28.4m


乾小天守
高さ16.8m


渡櫓
12.0m


一階
「石落(いしおとし)」と呼ばれる開閉式の扉があります。戦国時代、敵に攻め入れられた際に石垣を昇ってくる敵兵に対して石を落としたことから、この名前が付いたのです。また、熱湯を石落からかけたり、火縄銃で敵兵を打ち落とす際にも使わた。
この仕掛けは多くの城に見受けられます。


二階(武者だまりの部屋)
武者窓(むしゃまど)は、竪格子窓(たてごうしまど)とも呼ばれ、大天守の2階に存在。東、西、南の三方に、三連から五連の格子がはめ込まれ、格子の隙間から火縄銃を撃っていたとされています。
四部屋別れています。

三階
三階部分には、窓のない「隠し階」が存在。別名、暗闇重(くらやみじゅう)とも呼ばれている階です。
明かりは南側の千鳥破風(ちどりはふ)の格子から僅かに入るにのみの構造。
敵にはわからない構造でわずかな光は南側の木連格子からです。


柱は手斧(ちょうな)がけの跡が残ったまま。鉋(かんな)がけがなされているのは居所とされた四階以上です。
ここは乾小天守三階と同じく下から二重目の屋根がこの階の周囲を巡ってつくられているため窓が作れません。
戦時は倉庫・避難所としてつかわれたと考えられています。

四階(御座所)
この室内はすべて檜でできています天井も高くし四方から光が入るよう工夫されています。
鴨居のうえに小壁もあります。
城主が天守に入ったときはここに座を構えたとおもわれます。
戦時に城主がここに入るということは、戦闘の最終局面を迎えることになります。


四階から五階への階段は、天守閣の急な階段の中でも最大の難所で、梁(はり)が階段に近接し、傾斜が60度もあるそうです。


五階
本城の大天守は、1900年代(明治30年代)に入り傾いてしまい、倒壊してしまう恐れがありました。そのため、1903年(明治36年)から1913年(大正2年)、およそ10年かけて大天守の修繕が大掛かりに行なわれました。


この修繕の際、傾いた天守を直すために、「柱に縄をかけて引き起こした」という言い伝えがあるのです。大天守の5階の北側には、当時の引き起こした痕跡だと考えられる縄の跡があり、松本城の見どころのひとつとなっています。


五楷は重臣たちに作戦会議に使われたようです。
室内が4.54mと高いため
五階から六階へ階段は踊り場があります。
城郭に踊場があるのも珍しいです。



六階
大天守の六階部分の天井には「桔木(はねぎ)構造」と呼ばれる、テコの原理を使った構造が見られます。桔木構造は、鎌倉時代から日本で使われてきた建築技術です。この桔木構造によって、瓦屋根の軒下が下がらないようになっています。


二十六夜神
天井に中央に祀られた神様
松本城を守る神様です

天守からの眺望


本丸御殿跡
松本城の本丸御殿は、天守と同時期に建設されたとされていますが、1727年(享保12年)に起こった火事によって焼失してしまいました。
松本城の本丸御殿は、広さがおよそ830坪あり、部屋は60ほどあったとされています。


二の丸御殿跡

水野忠直灯篭
徳川幕府4代目の将軍である徳川家綱の供養のために、上野の寛永寺水野忠直が奉納した灯籠です。水野忠直は、1710年(宝永7年)ごろに松本藩の藩主でした。
灯籠には、奉納した当時の日付や奉納した水野忠直の名前など、当時刻まれた文字を見ることが出来ます。


前面に 家綱の法号「厳有院殿」
寄進時「延宝9年5月8日」(1681年)
寄進者「信州松本城主 従五位下隼人正水野氏源忠直」と刻まれています。


戸田家灯篭(写真は紛失?)
戸田家から寄贈されたとされる石の灯籠が三基あります。


三基の内二基の灯籠は、水野家の灯籠と同じ場所に設置。


手水鉢(ちょうずばち)
戸田氏から寄贈されました。
本丸の庭園の北東隅辺りにあります。
(写真は紛失?)



市川量造と小林有也のレリーフ
向かって左が市川量造(いちかわりょうぞう)、右が小林有也(こばやしうなり)で、明治以降松本城の保存に功績のあった人です。
明治5年(1872)1月、松本城天守は競売に付され235両1分永(えい)150文(「永」は銭のこと)で個人が落札しました。


これを知った下横田町の副戸長(商人・自由民権家)市川量造を中心とした有志が立ち上がり、明治6年から9年まで五回の博覧会を松本城天守中心に開催し、その収益と寄付金で天守を買い戻したと伝えられています。「松本城天守を博覧会に使用したい」と筑摩県権令(ちくまけんごんれい)に宛てた市川の嘆願書、懇願書が大天守六階西側の額に展示されています。


小林有也は、泉州(大坂)伯太(はかた)藩家老の子息で、明治18年から大正3年まで松本中学校の校長を務めました。天守の傷みや傾きが顕著になり、明治34年に松本城天守閣保存会を組織して全国から約2万円の寄付金を集め、天守の明治の大修理の中心になりました。


伝説
駒つなぎの桜
松本城の天守の傍には、1本の桜が植えてあります。この桜は、1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)ごろに幼木が植えられ、現在の大きさにまで育ちました。
伝説では、加藤清正が松本城を見に来た際に、場内にあった桜の老木に馬をつなぎとめておいたとされています。



松本城抜け穴(1階部分の窪み)
松本城の天守1階部分には、深さが1m程の窪みが存在。この窪みを見た当時の人は、天守の中と城外を結ぶ抜け穴だったのではないかと考え、そこから松本城抜け穴伝説が生まれたとされています。
昭和の時代に入った際、抜け穴伝説が本当かどうか、調査が行なわれましたが、抜け穴は発見されませんでした。



梁を伸ばした伝説
松本城の天守を築城する際、屋根を支えるための重要な「梁(はり)」がおよそ15cm足りないということがわかりました。その際、普段はあまり仕事をしないひとりの大工が、100名の大工に梁の両端を引かせました。そして、大工が木づちで梁を叩いたところ、ちょうど15cm梁が伸びたため、無事に天守を建てることができた、という伝説があります。



26夜神伝説(天守の六階)
ある武士が、夜中に本丸御殿の護衛をしていたときの話です。美しいお姫様が突然現れ「二十六夜様を祀れば、城は栄えるでしょう」と告げ、天守の方へ消えていきました。武士は姫のお告げを城主に伝え、天守の6階の梁に二十六夜様を祀ったとされています。
1727年(享保12年)に松本城の本丸御殿は、火事のため焼失してしまいましたが、天守は焼けずに残っていました。これは、二十六夜様のご加護だと言い伝えられています。
松本城の天守の梁には二十六夜神伝説や、梁を伸ばした匠伝説が言い伝えられているため、観光で松本城を訪れた際に、これらの伝説を踏まえて、天守の梁をよく観察すれば、何か新しい発見があるかもしれません。



最後までご覧いただきありがとうございます。

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