ほんわか人生の旅

全国各地の観光 古典文学 映画観賞 健康

湘南  江の島 ①

  2021年3月16日                                                                                       
 誤植がありますたの出訂正しました


江の島 ①  見所が多いので2部に編纂いたしました。


小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」下車徒歩12分
「江の島」は名勝や日本百景にも選ばれ、今も昔も人々から愛される湘南を代表する観光地。そして新婚旅行でも多くの人が行きます。
歌川広重や葛飾北斎の浮世絵にも登場し、かつては、弘法大師や日蓮上人など多くの名僧たちの修行の場。源頼朝などの鎌倉時代の武将たちには勝運の神、江戸時代には芸能・音楽・知恵の神、福徳財宝の神として弁財天信仰が広まり栄えた所です。


ところで江の島の橋がいつからあるのか調べました。
昔は、干潮時には歩いて渡ったそうです。潮が満ちると小舟か人が背負っていたそうです。ですから源頼朝他高名なお坊さんも皆歩くか小舟で渡ったのですね。
橋が出来たのは明治24年(1891年)今の江の島弁天橋です。渡し賃は往復3銭。


江の島に到着してまず対岸に車を駐車するか江の島に渡って駐車するか大いに迷ったが、渡ってからにした。駐車料金はすこし高いかな。
到着してすぐ近くの食堂へ。シラスどんぶり注文した。これは、沼図でも食したが、生シラスおいしいです。
江の島といえば「生しらす」が名物!しらすは、傷みが早く鮮度が命


それでは散策開始です。
弁財天仲見世通り

青銅製の大きな鳥居(市指定重要文化財)
まず、入って目につくのが青銅製の大きな鳥居です。
江の島弁財天信仰の象徴である青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建されました。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめています。両柱には再建に協力した寄進者の名前が記されていました。鳥居をくぐると江島神社へと続く参道で、土産物屋がずらりと並んでいます。江の島名物・たこせんべいやお団子、ソフトクリーム、しらすパンなどの食べ歩きが楽しめます。
タコせんべいは帰りのお土産にしました。


永野泉山の句碑  (写真ありません)
「住みなれて 居てもすずしや 島の月」(恵比寿屋)
「明治子に もどることしや いわひきぬ」(辺津宮参道)
島内に2つの句碑があります。
明治期の江の島俳壇の中心人物です。


赤色鳥居
鳥居をくぐると左側に「江ノ島エスカー」の乗り場があります。江の島は起伏が激しい地形なのでエスカーを利用して登るのがおすすめ。出世運を祈願したい方は、もう1つ奥の瑞心門をくぐり左の階段を上った場所にある「福石」には是非立ち寄ってください。

江の島神社

隋神門
 すごく大きい、
瑞心門の両サイドには、唐獅子が鎮座している。


神門は龍宮城を模した竜宮造の楼門です。人々が瑞々しい心でお参りできるようにという意味合いで「瑞心門」と名付けられました。壁や天井には、片岡華陽が描いた牡丹や唐獅子の絵画が飾られています。描かれた唐獅子は、ご祭神の守護と参拝者に厄災がふりかからないよう、祈願の意味が込められています。(日本三大弁財天・江島神社」より引用)

旧岩本院(岩本楼)
 江戸時代までは岩本院と言われ、弁天社の本宮をあずかった一山の総別当とも言われる由緒ある院でした。弁天信仰が盛んだった江戸時代には、勅使、将軍、大名などの宿泊所として栄えました。江の島は江戸からも近いので、参勤交代の折大名が立ち寄ったのでしょう。
また、「歌舞伎の白浪五人男に登場する弁天小僧。菊之助」は、岩本院の稚児がモデルであると言われています。

弁財天童子像建立之記
平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。
天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。
 折りしも当神社御鎮座1450年を向へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。
「弁財天童子像建立之記」刻印説明文より引用


弁財天と童子、そして龍神の像があります


福 石
関東総検校に出世した杉山和一に由縁のある石
江戸時代、幼くして失明した杉山和一。江の島弁財天の祠で21日間の断食を行い鍼の技術上達を祈願した帰りに、この福石につまずき気を失い倒れてしまいます。その時、夢に弁財天が現れ、目を覚ました時に、松葉の入った竹の筒を手にしていたといわれます。これをヒントにして杉山式管鍼術を考案し、その後、徳川綱吉の病も治して関東全域の盲人を束ねる最高位・関東総検校にまで出世しました。
この様なところから、針治療が始まったなど知りませんでした。

児玉神社
エスカー1区の脇の階段を上ると、児玉神社の説明文が表示されています。どちらかというと江の島頂上に行ってから、帰りの階段から立ちよるのが良いのかも。
明治四十五年(1912年)創建


 日露戦争で日本を勝利に導いた救国の英雄、児玉源太郎(1852年~1906年)をお祀りし、明治四十五年の創建以来、勝運の神として崇められてきました。御祭神は台湾総督在任時、善政によって現地の人々に慕われ、その縁で社殿の用材と石材は大部分が台湾からの寄進です。社殿の設計は寺社建築の第一人者、伊藤忠太博士によるもので、境内には山県有朋歌碑を始め、後藤新平や石黒忠悳の詩碑、ニ〇三高地の石などの文化財があります。


                       「児玉神社」案内説明文より引用



すこしもどり
江の島エスカー  ここで共通券購入
江島神社の入り口から運行しているエスカレーターで、起伏の激しい「江の島」散策に便利です。頭頂部まで3つのエスカレーターで上ることができます。



江島神社 辺津宮(へつみや
茅の輪をくぐり穢れをお祓い
建永元年(1206)に源実朝が鎌倉幕府の繁栄を祈って創建されました。現在の建物は延宝3年(1675)に再建されたもので、昭和51年(1976)に改修されました。本殿前には「天女と五頭龍伝説」に由来した龍を祀った江の島弁才天の龍の銭洗もあります。神社の祈祷は主にこの宮で行われます。

弁財天黄金浄水
エスカーを降りてすぐのところにあります。白龍王の彫物が真ん中に鎮座しています。
ザルが用意されているので、浄財ができます。小銭を入れて「ザラザラ」と洗って清めます。お札は乾かさなければならないので、時間に余裕のないかたはちり紙で包んで持ち帰るといいでしょう。


池の中央に賽銭箱があり、投げ入れることができます。
しかし、狙わないと賽銭箱には入りません。
弁財天の神使「白龍王」は高さ三米、相模彫 鏡碩吉氏の苦心の作で、水源には徳力製の純金の小判が秘められております。


 むかしから黄金の水は
一、健康によい
一、運が開ける
一、声がよくなる
一、美しくなる
 と称されています。


奉安殿(ほうあんでん)
辺津宮の左側に設置されている豪華絢爛な八角形八角形のお堂です。
奉安殿の中には、十五童子像、妙音弁財天、八臂弁財天などが祀られています。
勝運・音楽芸能を祈願!日本三大弁財天をお祀り
江の島の弁財天は、安芸の宮島、近江の竹生島と並び、日本三大弁財天のひとつに数えられています。県の重要文化財に指定されている八臂弁財天(はっぴべんざいてん)は、勝運守護の神様として信仰を集め、琵琶を抱えた裸弁財天の妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)が三大弁財天です。
音楽芸能の上達を願う人々からあつく信仰されています。
内部は撮影禁止です。



安芸の宮島、近江の竹生島とともに日本三弁天とされています。
欽明天皇13年(552)に岩屋(御窟)に神を祀ったのが始まりとされ、御窟を本宮といい、 奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼ばれていました。祭神は奥津宮の多紀理比売命、中津宮の市寸島比売命、辺津宮の田寸津比売命の 3神。昔は江島明神と呼ばれていたが、仏教との習合によって弁財天女とされ、江の島弁財天として信仰されるに至りました。現在、海運、漁業、交通の他、幸福・財産を招き、伎芸上達の神として信仰されています。また、深沢(鎌倉)には昔、5つの頭をもつ龍がいて悪行を重ねていましたが、天女(弁財天) が天から舞い降り、天女に恋心を抱く五頭龍を諭し、悪行をやめさせたという伝説「江島縁起」が伝わっています。縁起には天女とともに現れた島が江の島、五頭龍 が姿を変えたのが片瀬の龍口山だと書かれています。


江島神社 中津宮(なかつみや)
朱色が目を惹く社殿で美人祈願
鮮やかな朱色の社殿が目を惹く中津宮は、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀り。853年に創建、1689年に徳川綱吉により権現造りの社殿に再建され、1996年の全面改修により当時の鮮やかな朱色の社殿が再現されています。
拝殿の天井には、154枚もの四季折々の花鳥画が施され雅な趣。美しい弁天様にあやかって美人祈願のパワースポットとしても人気があり
美人守りや美人絵馬を奉納できます。

境内にある水琴窟(すいきんくつ)の音を楽しむのもお見逃しなく。


中津宮で販売している「水みくじ」はこの水琴窟で見ることが出来ます。
前石に静かにのります


水を柄杓に入れます
下の円(水門石)の中心部に水を垂らします。美しい音色を楽しむことができます。

江の島歌舞伎(手形)
尾上菊五郎さんと、尾上菊之助さんの手形です。


間宮霞軒の句碑 (写真ありません)
「さし潮の 香を抱く 島の霞かな」江島神社奉納句会を主催するなど、江の島俳壇の隆盛に寄与した間宮霞軒の句碑です

江の島サムエル・コッキング苑
四季折々の自然はもちろん、季節イベントも魅力大
明治の英国人貿易商「サムエル・コッキング」が造成した庭園。現在は藤沢市が運営しており、苑内には、四季の花々をはじめ、コッキング煉瓦造の温室遺構や藤沢市と姉妹都市の中国・昆明市(こんめいし)の色鮮やかな四阿「騁碧亭(へきへきてい)」、長野県松本市の海鼠壁(なまこかべ)が特徴の「松本館」などが点在します。


江の島シーキャンドル(展望灯台)
360度の絶景眺望
湘南のシンボル、高さ59.8メートル海抜119.6メートルの展望台。平成15年(2003)にリニューアルされました。避雷針まで入れた高さは59.8m(海抜119.6m)あり、 その斬新なスタイルは江の島の新しいシンボルとして親しまれています。高さ41.75m(海抜101.56m)のところガラス張りの展望フロア、さらにその上には屋外展望台があり、 富士山や丹沢などのワイドな眺望・富士山や伊豆半島、丹沢の山々を見渡す絶景が楽しむことが出来ます。
1階にはエントランスのほか、カフェやグッズショップ、郷土資料室などもあります。

八坂神社  
湘南を代表する夏祭り「天王祭」は八坂神社の例祭
江島神社の末社で、祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。
江の島天皇祭と言われ毎年七月中旬に斎行される。当日は島人列をなして天皇囃子を始め能神・通り・松・神・龍神・唐人・新通り囃子が古風な囃子を奏でるなか、故事により神興は江の島大橋際より真裸体の若人達にかつがれ海に入り、浮きつ沈みつし、陸・船上では夫々の囃子を奏でしあと、夫婦神である対岸に鎮座される腰越・小動神社へと神幸し、一年一度会いに行く湘南地方の夏の風物詩として華麗を極める勇壮な祭で「神奈川の祭り五十選」にも選ばれている。


 現在の社殿は江島神社御鎮座1450年記念事業の一環として平成14年に御改築された。


この神社は見落とされることがあります。

稲荷社・秋葉社
八坂神社のすぐ隣にある江島神社の末社です。お祀りされているのは、豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)です。社殿は銅葺で入母屋造りです。江の島随所にあった、秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷などの小祀を合祀したお社です。江戸時代に火事が多かったことから、このお社が祀られたと伝えられています。
               日本三大弁財天・江島神社」より引用


むすびの樹  恋人たちの縁結び
1つの根から2本の大銀杏の樹が生えています。
大銀杏の二つの幹が一つの根で結ばれているので、「むすびの樹」という名前が付けられています。この大銀杏にあやかり二つの心を一つに結んで、良縁を成就させるといいかも。
写真ありません)


宋国伝来の古碑
江島縁起によれば、元久元年(1204年)に渡った源実朝の使節良真が、慶仁禅師より、江の島に因んで授けられたと伝えられ、碑面の四辺を細線で刻画し、上方に左右から双龍形を陽刻し、大日本国江島霊迹建寺之記と篆書されていますが、碑名は磨滅して読むことができません。
 このため、元禄14年(1701年)に杉山検校の門弟、島岡検校が雨よけを寄進しました。


                   「宋国伝来の古碑」表示説明文より引用


沼田頼輔の歌碑
沼田頼輔の歌碑は基台石上50cm余りの屏風型の山石の反面を磨いて、短歌一首


さながらに生けるが如く
見まつりぬ
御神ながらも肌ゆたかなり


と彫りつけてあります。


「裸弁財天の美しさを讃えた歌碑です。」


 昭和36年11月22日、頼輔の28回忌辰を記念して建てられた、江の島唯一の歌碑であります。この歌は与謝野晶子の鎌倉大仏の美男讃歌と好一対とたたえられています。
 沼田頼輔は神奈川県愛甲郡宮ヶ瀬の農、山本喜三郎の次男で本名は頼助。のちに沼田家の養子となりました。
 「日本紋章学」の著書として知られ神奈川県史にも研究深く、県内に多くの知人と門生をもっていました。
「沼田頼輔の歌碑」表示説明文

江の島大師
本堂の赤不動は国内最大級の高さ6メートル
鹿児島市にある烏帽子山最福寺の別院で、1993年(平成5年)に創建された。烏帽子山最福寺は、高野山真言宗の僧である池口恵観によって1989年に創建された。
池口恵観は、非常に面白い経歴の人物で、高野山真言宗大僧正・伝灯大阿闍梨であり、「永田町の怪僧」というあだ名もあったりする。
円形の本堂は、美術館を思わせる石造で、国内最大級ともいわれる高さ6メートルの赤不動像を安置しています。また本堂内には左右に童子立像が並んでいるが30躯はあるのでは。
なお中国刺繍仏画が展示されています毎月、護摩行が行われており、護摩灰や、護摩の力が込められたお清め塩を手に入れることも可能だそうです。蓮の池もあり散策が楽しめます。
色々の像もあります。お地蔵様・観音様他、あまりたくさんあるので写真は省略します。

一遍上人の島井戸
 時宗(総本山は、藤沢市の遊行寺)の開祖である一遍上人が遊行をした旧跡で、飲料水に窮する島民を助けるために掘り当てたとも言われ今も水をたたえています。
 上人自筆と伝えられる「一遍成就水」の額は江島神社に残されています。また、この近所にある蓮華池は一遍上人修行の旧跡とされています。


                 「一遍上人の島井戸」の表示説明文より引用


一遍上人の島井戸は、奥津宮方面、御岩屋道通り沿い左側にあります。


山ふたつ
一つ開けたところにあります
吸い込まれるような断崖絶壁が見どころです。
江の島をちょうど二分する境となっていることから、俗に「山ふたつ」といわれています。断層に沿って浸食された海食洞が崩落したことで「山ふたつ」が出来たともいわれています。
 サムエル・コッキング宛から下りてくる階段横には、赤茶色の地層が見えます。これは関東ローム層で、箱根・富士山の火山灰が堆積したものです


木食上人行場窟
 山ふたつの谷底に、木食上人行場窟と呼ばれる洞窟があります。そのほぼ中央に高さ約1m、幅約80mに扁平石を組み合わせて石廊を築き、その上に石造阿弥陀如来に立像が設置されていました。
 木食とは、五穀(米・麦・アワ・キビ・豆)を絶ち、木の実で生活することです。この修行を木食行といい、木食行をする人たちを木食上人と言いました。


                  「木食上人行場窟」の表示説明文より引用


現在は洞窟に行くことはできないので、写真が展示してありました。

群猿奉賽像庚申塔
 多数の猿がその本尊である山王神をたたえ、祝っているという大変珍しい庚申供養塔です。花崗岩で造られ、総高143cm、塔身高86cm、幅42cmです。建立された年も寄進した人も刻まれていませんが、江戸時代後期のものと思われます。
 基壇は岩座のように造られ、塔身の基座には蛇が巻き付いているように作り出されているのは、弁財天信仰にちなんだものです。
 塔身の四面には合計36匹の神猿がそれぞれ異なった姿態で山王神の神徳に奉賽しているという構図です。
4面には「見ざる、聞かざる、言わざる」のほかに烏帽子姿で扇をかざして舞う猿や綱渡りをする猿、棒乗りをする猿など36匹の猿の姿がユーモラスに浮き彫りにされています。本尊である山王神に奉賽している様子で、庚申信仰者は無病息災や長寿を祈念して建てたものと伝わっています。
猿は古くから日枝山王神社の使者として知られています。
 「新編相模風土記稿」には、下之宮(現 辺津宮)の絵馬堂の近くに山王神社がまつられていたようですが、それに奉納する意味でこの庚申供養塔は建てられたのでしょう。


                 「群猿奉賽像庚申塔」の表示説明文より引用
御岩屋道通りの奥津宮に向かって左側にあります。奥津宮も、もう少しで到着です。


龍宮(わだつみのみや)
龍神エネルギーが集まるパワースポット
龍宮大神入口の頭上には、龍の造形物があります。
奥津宮のすぐ近く、龍神伝説発祥の地である岩屋本宮の真上に位置します。「江島縁起」に登場する龍宮大神をお祀りしており、龍神エネルギーがもっとも集まるパワースポットといわれています。

中には綺麗なお宮さんがあります。(隙間からの撮影)

力石
 江戸時代に日本一の力持ちと言われた卯之助(岩槻藩)が当神社に奉納したもの。重さ八十貫(320kg)で石には「奉納岩槻卯之助持之八拾貫」と刻まれている。弁財天の祭礼に詣でた人々の前で力競技を行なったものである。

亀石(亀甲石)
境内には、武江年表」に文化3年(1806年)弁秀堂という人が弁財天を信奉し金光明最勝王経を写経して埋めた上に置かれたとされる、石の形や紋様が亀の甲羅に似ていることからこの名が付いた「亀石」
またの名を「蔵六石」という。』と記載されていた。
鎌倉四名石の1つ亀石
大いちょうの木の下に置かれています。


以上で江の島第一部終わり

×

非ログインユーザーとして返信する