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湘南  江の島 ②

江の島②

源頼朝寄進の石鳥居も見どころです。
養和2年(1182年)に、源頼朝により奉納された石鳥居
鎌倉幕府を開いた頼朝は政治の方策としての信仰を、大きく取り上げ、各地に社寺伽藍を創建したが、その一つとして江島神社にも数度にわたって参詣しそのつど信仰上の対象を寄進しています。
 吾妻鏡によれば「頼朝は養和2年(1182年)奥州平泉の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁才天を岩屋に勧請し、参詣の際には鳥居を寄進しました」とあります。
 現在の鳥居は平成16年(2004年)の台風で破損し、補修されたものですが、源頼朝寄進の鳥居は、これに似たものが建てられたと伝えられています。

江島神社 奥津宮(おくつみや)
岩屋本宮のご本尊を遷座していた本宮
海を守る神様といわれる一番上の姉神、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)が御祭神。岩屋(龍神伝説発祥の地)に一番近い宮で、かつて岩屋本宮に海水が入りこんでしまう4月~10月の時期には岩屋本宮のご本尊を遷座していた場所でもあり、本宮御旅所と呼ばれていました。
相模湾を臨む岩屋に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所(おたびじょ)と称され、社殿は壮麗を極めていましたが、天保12年(1841年)に焼失。翌13年に再建されたのが、現在の御社殿(入母屋造り)です。更に平成23年(2011年)に御社殿を修復致しました

八方睨みの亀
拝殿天井に、どこから見ても、こちらを睨んでいるように見える戸の絵師・酒井抱一が拝殿天井に描いた「八方睨みの亀」が描かれてる。(しかしこれはレプリカ本物は実物は社務所にて保管されています。)

龍恋の鐘 (恋人の丘) 映画「陽だまりの彼女」のロケ地


相模湾を眼下に眺めて恋愛祈願!
カップルのデートにはおすすめです。永遠の愛を誓う鐘を鳴らすことが出来ます。
(南京錠は、龍恋の鐘の入口や江の島内の店舗で購入できます)


この恋人たちの南京錠。破局が来たらどうするのかな。考えすぎか。今が幸せなんだから。知多の野間燈台にもありますが、あまり多くなると柵を外し処分されます。



天女と五頭龍(江の島生まれの伝説)
昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、村人を苦しめていました。
 子供をいけにえに取られることから、この地を子死越と呼んで恐れられていました。
 ある時、子死越前方の海上に密雲が何日にもわたってたれこめましたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現われ、雲が晴れると今まで何も無かった海上に一つの島ができていました。
 これが現在の江の島とか。
 天女の美しさに魅せられて五頭龍は、結婚を申し込むのですが、悪行が止むまではと断られてしまいました。 


 その後、心を改め結婚することができたと言われています。
 この伝説の天女が、江の島に祀られている弁財天といわれ、五頭龍が瀧口明神社として鎌倉市腰越に祀られている。
   「龍恋の鐘」の表示説明文より引用



杉山検校の墓
江戸時代の鍼師、杉山検校の墓で、一周忌の命日、元禄8年(1695)5月18日に建立されたものです。墓碑の形は笠塔婆型で市指定史跡となっています。



杉山検校は本名を杉山和一といい、慶長15年(1610)、伊勢の国に誕生しました。伊勢国安濃津(現在の三重県津市)藤堂藩士杉山権右衛門重政(元和二年高虎に被呼出200石)の嫡男で幼名は養慶、幼くして伝染病により失明した和一は家督を義弟に譲り刀を捨てて医の道に進む。有名な鍼医のもとで学びましたが実らず、江の島弁財天に21日間籠もって礼拝を続けた結果、17、8歳ごろ、江戸で開業する盲人鍼医・山瀬琢一に入門。しかし、22歳ごろ、記憶力がわるく技術も向上しなかったため、師の下を破門される。目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島弁財天の祠に詣で岩屋に篭もり生死をかけての断食修行を行なう。



神人無我の境地での帰り道、石につまづき倒れた時に手にひろった松葉の入った管から、管鍼術の着想をえたと伝えられている。そして京都にのぼり入江流鍼術などの奥儀を学び再び江戸に出て開業する。



近代日本鍼灸の中興の祖とされている杉山検校は、
 鍼の施術法の一つである管鍼(かんしん)法を創始。鍼・按摩技術の取得、教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した。そこから多くの優秀な鍼師が誕生。鍼・按摩の教育の他、「当道座」(盲人の芸能集団)の再編にも力を入れた。 
 

山田検校像
山田流筆曲の開祖、山田検校の偉業を讃え、百年忌にあたって像と碑を建てて顕彰したものです。撰文は幸田成行(露伴)、書は小野鵞堂の手により、大正6年(1917年)に建立されました。像はしばらく台座だけの時期もありましたが、平成16年(2004年)に復元されました。
銅で出来た坐像です。


江島神社(奥津宮)の奥にあるので見落としがち。



稚児ヶ淵(ちごがふち)
島の奥地、岩屋の周辺に広がる海底が大正12年(1923年)の関東大震災で1mほど隆起した岩場。



この名称の由来は、建長寺の修行僧自休が、江の島へ百ヶ日参詣の帰り、相承院の稚児白菊と出会ったのが縁で恋におちいりました。しかしその恋も実らず、ついには白菊はこの断崖から身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲恋物語からおこっています。



屏風のように連なる断崖の真下にあり、相模湾と富士山の向こうに沈む夕日が美しく「かながわの景勝50選」にも選ばれています。岩場には潮溜まりがいくつもあり海の生き物が観察できます。風が穏やかな日に水面に景色が映り込む様子は、まさに別世界のようです。


いよいよ一番奥です。


岩屋入口
奥津宮からさらに奥に行くと、岩屋にたどり着きます。岩屋は葉山層という3000万年前に砂や泥が堆積した岩の層でできています。ゴツゴツとした岩の間の岩屋橋を渡ると料金所があります。


日蓮の寝姿像
途中二またに分かれています。左奥の日蓮の寝姿像は人工的でなく、波の力で自然に形作られたものです。そして、その奥は富士山の「氷穴」につながっていると言われていました。右側の最深は江島神社の発祥の地であり、欽明天皇13年(552年)にこの地に鎮座されました。


江の島岩屋
江の島弁財天信仰の発祥の地
波の浸食によってできた海食洞窟で、弘法大師や日蓮上人が修行したといわれる場所。



1182年には、源頼朝が奥州平泉の藤原秀衡征伐を祈願したとも伝えられています。第一岩屋(奥行152メートル)と第二岩屋(奥行56メートル)があり、江の島の浮世絵や龍神伝説に関する展示を見学しつつ洞窟内を歩きます。ロウソクを受け取り進みます。ロウソクの灯が幻想的です。


江島神社発祥の地 ここが最後
この江島神社発祥の地は欽明天皇13年(552年)にこの地に鎮座されました。
他の神社の狛犬と違い、子供を抱える狛犬はとても珍しいです。(右側)

神秘の池
神秘の池に祀られている龍神が造形豊かです。そして結構空間が広いです。
混雑時以外の営業日は、途中でローソクのサービスがあります。
洞窟の途中に無料でロウソクを貸してくれるところがありました。


第一岩屋
 第一岩屋は奥行152mの洞窟になっています。水池には与謝野晶子の歌碑が展示されている他、龍神にまつわる造形物が展示されています。


奥は二手に分かれていて、「日蓮の寝姿石」、「富士山の氷穴につながっていると言われている場所」、「江島神社の発祥の場所」や弁財天に因んだ石造物が数多く展示されています。



与謝野晶子の歌碑をはじめ、いろんな龍神の像なども展示されています。イルミネーションを煌めかせた夜光虫のモデルが、さらに神秘的なムードを作り上げています。
与謝野晶子の歌碑
沖つ風 吹けば またゝく 蝋の灯に 志づく散るなり 江の島の洞


こよなく江の島を愛した歌人与謝野晶子は、歌壇、文壇にとまらず、教育、評論、社会運動等、多彩な活動により不滅の金字塔を樹立した、ニ十世紀を代表する文化人であります。



 歌集「青海波」(明治四十五年一月刊行)にあるこの歌は、明治四十四年七月に詠まれました。
 それから九十年余り、蝋の火は今なお灯され、岩屋を訪ねる人の足許を照らしております。
 書は、晶子研究の第一人者、歌人尾崎左永子女史の筆になります。
 碑は、藤沢市在住の中山成彬氏の発願により建てられ、市に寄贈されたものであります。


平成十四年 十月吉日
藤沢市長
山本捷雄「与謝野晶子の歌碑」の表示説明文より引用


弁財天に因んだ石造物
洞窟の中には、歴史を感じさせる数々の石造物が展示されています。これらの石造物は歴史的・民俗学的に、とても貴重な文化遺産になっています。

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