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三重県 久留倍古代歴史館・久留倍官衙遺跡公園(くるべかんがいいせき)・天武天皇遙拝所

久留倍古代歴史館・久留倍官衙遺跡公園(くるべかんがいいせき)・天武天皇遙拝所


住所:三重県四日市大矢知2267-8
☎:059-359-8240
☎:059-365-2277


ここを知ったのは2021.2.1(月)三重テレビの放送でした。
早速出かけました。
まず、くるべ古代歴史館へ(ここが駐車場)しかし、閉館していました。
調べずに行くとやはりだめですね。月・火は休館日
ここから徒歩で久留倍官衙遺跡へ行きました。

久留倍古代歴史館

発掘調査
一般国道1号北勢バイパスの建設にともない、その事前調査によって確認された古代の役所跡の範囲が国指定史跡久留倍官衙遺跡となりました。
遺跡は今から約1300年前の奈良時代にあった役所跡と考えられ当時の役所の姿がわかる。2006年国の史跡に指定されました。
  丘陵上部の平坦面では正殿(せいでん)・脇殿(わきでん)・東門(八脚門(はっきゃくもん))などを備える東を向く政庁(せいちょう:役所の中心)や、南を向き東西に長い大型の掘立柱建物群の遺構が確認されました。また、丘陵東斜面には稲もみが貯えられていたと考えられる倉庫群も建てられており、これらは区画溝で囲まれていることから、複数の正倉群を囲った正倉院として築かれたものと考えられます。さらに、丘陵の北東側の裾部には官衙関連施設と考えられる多くの建物も見つかるなど、次々と役所の建物が建てられていたことがわかりました。
 このような久留倍官衙遺跡は、壬申の乱や聖武天皇の東国行幸などの史実との関連も注目されており、 考古学のみならず古代史や万葉集研究にも一石を投じる重要な遺跡となりました。
壬申の乱のとき大海人皇子(後の天武天皇)朝明郡に立ち寄ったことが知られております。少し離れと所に天武天皇遙拝所がひっそりとあります。
                      四日市市役所資料より
                      四日市教育委員会


これらは律令国家の地方支配を明確に表すもので重要なものです。
朝明郡役所跡は、Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期と時代によって性格の異なる建物が建てられていました。
Ⅰ期(飛鳥時代:7世紀第3四半期=650~675年の新しいころ、つまり670年ころ?か~奈良時代:8世紀前半頃)に、正殿・脇殿・東門(八脚門)とそれを囲む塀からなる郡衙政庁が、東向きに建てられていました。郡の政治を行う中心的な建物群です。
Ⅱ期(奈良時代:8世紀中頃から後半)では、全国的にもまれな長くて大きい建物を中心とした建物群が建てられていました。
Ⅲ期(奈良時代末~平安時代前期)では、税で集められた稲をおさめる床を持つ構造の正倉が複数建てられ正倉院が形成されていました。
放送内容によると、建物の位置はそのたびに変更されたようです。
資料によるとここに昔木簡による荷札が造られ平城京に荷物が送られたようです。荷札の木簡は平城京の発掘で分かったということです。
ここはグランドオープンされたとのこと。2020.11.1




道路を渡ると丘がありその坂の上に八脚門が再建されていました
八脚門

他の建物は柱の跡に短い柱を立てて在りその広大な建物群が想像できます。


正殿後にも東屋が立っていました。

天武天皇迹太川御遥拝所跡(てんむてんのうとおがわごようはいじょ)
住所:四日市市大谷知1714
ここは少しわかりにくいです。細い道路をすこし入った村の集落のようなところです。
『日本書紀』によると、天武天皇の元年(672)に勃発した壬申の乱の際、大海人皇子は、奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡家(ぐうけ)(三重郡の役所)に進み、さらに朝明郡(あさけぐん)の迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神(あまてらすおおみかみ)に戦勝祈願したといいます。御遥拝所跡の碑が立つこの地は、江戸時代の人がその場所であると考えたところです。慶応二年(1866)に造立された石灯籠には「天武天皇呪志(のろし)の御松斉宮」とあり、近年まで松の古木が立っていました。そのためこの地が御遥拝所跡として昭和十六年(1941)に指定されました。この松もついに枯れ、それに替えて植えられた槇の木にかつての面影を偲ぶだけとなりました。
                         四日市教育委員会

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