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山口県萩観光 1   松下村塾・松陰神社 世界遺産 吉田松陰の生涯

山口県萩観光  世界遺産
萩・津和野は3回訪れています。
車で行くのが良いでしょうね。最初は夜行列車で行きましたので疲れました。
車:広島方面より(山陽自動車道)防府東ICより約80分
萩市内の観光マップを持って廻ろう。
私たちは宿泊した民宿でいただいた。
やはり萩といえば松下村塾・松陰神社
は欠かせない

講義室


住所:山口県萩市椿東1537
松陰神社の境内にある瓦ぶき平家建て8畳・10畳半の2室の家で、吉田松陰が安政3年(1857)から2年半の間、下級武士や庶民の子弟を教育した私塾。 高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新期に活躍した多くの人材がこの塾から輩出されました。 2015年7月世界遺産登録(明治日本の産業革命遺産)


松陰の生い立ち
吉田松陰は天保元年(1830年)、長門国の萩で生まれました。
父は、長州藩士・杉百合之助常道で、母は滝。
元は、家禄26石の杉家二男として生まれた。
松陰は5才の時、叔父・吉田大助賢良の仮養子となり、翌年、大助の死によって吉田家を継ぐことになります。叔父の大助とは、山鹿流兵学師範として毛利家に仕えた藩士でした。家督を継いだ吉田家は、杉家よりも収入が多く家禄は57石6斗。松陰はそのまま杉家に暮らしましたが、そこはなかなか大所帯でした。
ですから、杉家は貧しい武家のため自給自足で畑を耕やさねばならず、松陰も農作業に従事しながら『四書五経』を暗唱していたと伝わっています
幕末長州藩の思想の原動力となり多くの逸材を生み出した。
叔父・吉田大助が没した時、松陰は兵学師範の家を継がねばならない運命が決まりました。
そこで「お前は兵学師範として、恥じん学問を身につけにゃあならん」と考えた玉木が、まだ5才の甥に学問を叩き込むことにしたのです。
松陰の少年時代は、5才にして終わり、その日から、彼に許されたのは漢書を読むか、何かを書くか。
あるとき、松陰は勉強中、頰に虫が止まったため払いのけました。すると玉木は血相を変えて折檻したのです。
「虫が止まって痒いというのは“私”の感情であり、学問は“公”のものじゃ。公私混同をするな。許せば長じて世の中に出た時に、私利私欲を図る者になる。」
天保9年(1838年)、こうした相当厳しい教育の成果が実り、まだ寅次郎と呼ばれていた彼は、なんと9才にして「明倫館」に出仕することになります。
ここで驚くことに、生徒として何かを習うためではなく、山鹿流兵学の教授見習いとして藩校に出向き、翌年には、叔父の後見のもと教授になった。
明倫館の跡地には現在明倫小学校があります。
当時の藩主 毛利敬親は11才の松陰が『武教全書』の講義を行っているところを見て、非常驚いたそうです。


長州藩は松下村塾の麒麟児高杉晋作・久坂玄瑞が龍虎として知られています。
19才になった松陰は、九州遊学を思い立ちます。外国との玄関口・長崎があったからです。萩しか知らなかった松陰は、このとき世界の大きさを痛感します。
アヘン戦争8年後。列強の脅威をひしひしと感じ、強い危機感を抱きました。
日本をしばしば来航するロシアの存在を知った松陰は、東北旅行をしてみたいと熱望します。
そこで松陰は脱藩、家禄を没収され、父親の監視下における「育(はぐくみ)」という処分を受けました。
嘉永6年(1854年)、黒船が来航。当時、江戸遊学中だった松陰は、当然ながらショックを受けます。
そして浪人という立場ながら、
『将及私言』
『急務状議』
という意見書を藩に提出したのです。
中身は、幕府批判。攘夷しろ(=外国船を武力で打ち払え)という内容でした。
匿名でしたがすぐばれる。藩内から批判された松陰は、江戸の藩邸に出入り禁止とされてしまいました。二度目の「猛挙」です。
ひそかに松陰は江戸を発つと、長崎に停泊中のロシア艦を目指しました。
しかし時既に遅く、船は出出航したあと。仕方なく宮部鼎蔵と共にペリーを暗殺計画を練ったものの断念。これがもし実行されたらここで日米開戦だったでしょう。
ペリー暗殺を企てたのに、安政元年(1854年)。松陰は長州藩の下級武士である金子重之助とともに、小舟に乗ってアメリカのポーハタン号へ接近。アメリカに行きたいというが断られてしまいます。このことがばれてしまい北町奉行所に捕縛される。
ここで松陰は「かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂」
松陰は、連坐して捕縛された佐久間象山と共に、自藩幽閉の処分となり萩へ移され、野山獄に収容されます。
安政元年(1855年)11月からの獄中生活では、読書と思索に没頭。入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会が組織されました。
このときの『孟子』講義をもとに、主著『講孟余話』が誕生する。
約1年間の牢獄生活。
藩は松陰の才能を認め、安政2年(1856年)末、病気保養を理由として、実家の杉家にお預けとなる。松陰は自宅の狭い一室に閉じこもり、ここでおとなしく自学自習に励でいましたが、そこへ父と兄が訪れ、「お前が獄中で行った『孟子』の講義録を読んだ。たいしたもんじゃ。これを完成させんのは惜しい。どうだ、自宅でも講義を続けてみんか?」
二人はそう言って、松陰に『孟子』の講義を委託。ここで吉田松陰による「松下村塾」です。
幕命により江戸に召喚されるまでの2年半、松陰は実質的な主宰者として後輩の育成指導をしていました。
ここで注目すべき点は松下村塾を始めたのは彼ではない、ということでしょう。
創始者は玉木文之進です。
松陰の主宰する「松下村塾」には、続々と優秀な若者が集まり始めました。
高杉晋作・久坂玄瑞・吉田玄麿・入江杉蔵・野村靖・久保清太郎・前原一誠・伊藤博文
これらの弟子に国の行く末に危機感を抱く、松陰自身の強い実学指向のもと、当時の世界情勢や国の実情について講義するのです。
一方薩摩では大久保利通が精忠組があった。
安政5年(1858年)、幕府はとんでもない失策を犯しました。
「日米修好通商条約」の勅許を得るため調停工作を行い、失敗していたのです。
尊王攘夷派と呼ばれる人々は、幕府の要求が突っぱねられたことに快哉を叫びました。
水戸藩・薩摩藩・越前藩・尾張藩の有志が、井伊直弼暗殺計画を練っているというのです。
井伊が水戸藩・薩摩藩の刺客により殺害されることを考えると、ある程度までは本当の計画です。ただし、越前藩と尾張藩まで加わっていたかどうかは不明。
いずれにせよ松陰は、居ても立ってもいられなくなりました。
当時、井伊と「井伊の赤鬼、間部の青鬼」と並び称されていたのが、老中・間部詮勝。
京都方面で、弾圧の指揮を執っていたこの間部を暗殺しようと考えたのです。
藩上層部は「学術不純にして人心を動揺す(不純な動機で学問をしていて、人々に悪影響を及ぼす)」という理由で、自宅「厳囚」処分を命じます。
それでも塾生が押しかけて危険なため、藩は野山獄に投獄することにしたのです。
松陰の暴走に止めに入ったのが高杉晋作・久坂玄瑞「天皇陛下が新将軍を承認したんじゃし、このままでは殿に迷惑をかけてしまう。【義旗一挙】は時期が悪い。気持ちはわかるけど、自重しなさんせ」桂小五郎(木戸孝允)も反対派。
「桂は無二の親友じゃと思うちょったのに、失望した。がっかりだ。皆、ぼくと意見が違う。ぼくは忠義を成し遂げたいのに、他の奴らは功業を成し遂げたいんじゃ!」


安政大獄で幕府は、大勢の逮捕者を出していました。その中には、吉田松陰の名もありました。
松陰にかけられた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだ うんぴん)との交際に関してのものと、幕府中傷文書の作成についてでした。
松陰の供述の中に【間部詮勝暗殺計画】と【伏見要駕策】が見え始めたからです。
いずれも幕府にとっては言語道断の重罪。
松陰は、伝馬町の牢獄に送られてしまうのです。
死刑が決まった時、さしもの松陰も茫然自失。さらなる二度の取り調べを受け、斬首と決まりました。
安政6年10月27日(1859年11月21日)。
松陰は命を絶たれました。
享年30歳でした。




松陰神社
維新の原動力となった吉田松陰を祀る神社で、明治40年(1907)伊藤博文らによって建立されました。

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