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山口県 萩観光 萩城・萩反射炉・世界遺産

萩城(指月公園)毛利36万石
萩市堀内1-1
☎:0838-25-1826
駐車場:あり


萩八景遊覧船で廻る  約40分
船に乗って廻ると川から城壁が見える。やはり大きい、毛利輝元の偉大さがわかります。
この川を行くと海につながっています。海岸線近くまで城壁がある。
萩城跡横の指月橋をスタートし、お城の疎水を通り、常盤島経由で橋本川本流に入り、堀内伝建地区内・平安古伝建地区内の武家屋敷群を川から眺める約40分の往復ルート。橋本川に入ると、常盤島と「釣りバカ日誌12」の舞台となった屋敷に挟まれた松並木をくぐりながら、平安古松原を横目に白壁が続く平安古重要伝統的建造物群保存地区の旧田中別邸へ。旧田中別邸先でUターンし萩八景のひとつ玉江を見ることが出来る。
船は橋の下に行くと船頭さんが「頭下げてください」船の屋根が下がってくる(柱が折れ曲がる仕組み)
案内では日本海にも出ると言っていたが、当日は海があれているようでダメだった。


ここが釣りバカ日誌のロケ地

長く続く城壁


船を下りて萩城へ  日本100名城 75番
ここには建築物はない。
萩城は関ヶ原の戦いで敗れ、完成して間もない広島城から萩へと追いやられた毛利輝元が慶
長9年(1604)~1608年(慶長13)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城で、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。

天守閣跡


幕末の1863年(文久3)藩庁が山口に移されると萩には番兵が置かれるのみとなって萩城は役割を失った。
本丸には高さ14.5mの五層の天守閣がありましたが、明治7年(1874)に天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめるのみ。


万歳橋
萩市堀内1-1(萩城跡指月公園内)ここは通行できません。
萩藩校明倫館より移築された太鼓橋
万歳橋は、萩城本丸跡にある指月公園内の志都岐山神社前の庭池に架かる石橋
もともとは藩校明倫館にあったもので、
橋は花崗岩で造られており、長さ4.05m、幅員3.15mの直橋で橋脚はなく、両岸の石垣の橋台に2本のアーチ式橋桁を渡し、その上に10箇の短冊石を横に並べています。高欄の橋柱は左右5本ずつで、中国風のデザインを施した太鼓橋です。

明治時代の萩城  (図書館より)


城下町散策

東光寺  ここには訪れていない(情報のみ)
山号:護国山
宗派:黄檗宗(おうばくしゅう)
本尊:釈迦如来
創建:元禄4年(1691年)
開基:毛利吉就
三門・総門・鐘楼・大雄宝殿(国の重要文化財)
萩藩主毛利家墓所(国の史跡)

伊藤博文旧宅
明治期の日本を確立した初代内閣総理大臣・伊藤博文
伊藤博文は、天保12年(1841)熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)の農家に生まれました。幼名は利助、のち春輔、そして“博文”と改めました。
この旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家。もとは萩藩の中間 伊藤直右衛門の居宅でしたが、安政元年(1854)に伊藤博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて伊藤家に入る。その後、博文が明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するまでの住居でした。


博文は、安政4年(1857)に木戸孝允の義弟・栗原良蔵の紹介で松下村塾に入り「なかなか周旋家になりそうな」と吉田松陰の評価を得たようです。
品川御殿山の英国公使館焼き打ちをはじめ、尊攘運動に参加。文久3年(1863)5月には、長州ファイブの一人として井上聞多(馨)らと英国に密航留学しました。


明治新政府では参与、兵庫県令などを歴任。明治4年(1871)条約改正のため、岩倉使節団の一員として欧米各国を歴訪。帰朝後、参議、工部卿などの要職を経て明治18年(1885)初代内閣総理大臣となりました(計4回内閣を組閣)
日露戦争後、初代韓国総監となり、明治42年(1909)枢密院議長として満州訪問の途上、ハルビン駅頭で朝鮮人、安重根に狙撃され、69歳でこの世を去ることになる。

旧宅に隣接する別邸
別邸は、伊藤博文が明治40年(1907)に東京府下荏原郡大井村(現:東京都品川区)に建てたもので、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向って右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大なものでした。
萩市へは往時の面影をよく残す一部の玄関、大広間、離れ座敷の3棟を移築しています。

高杉晋作誕生地
萩城下町の伊勢屋横丁と菊屋横丁の間に晋作広場があります。広場に高杉晋作の銅像が立っています。

萩反射炉   世界遺産
住所:山口県萩市椿東上ノ原
反射炉は西洋で開発された金属溶解炉。1854年佐賀藩が日本で最初に反射炉を完成させた。その後薩摩藩や水戸藩など次々反射炉を完成させたが、日本に現存する反射炉はこの萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆半島)☆紹介済み☆ 



旧集成館反射炉跡(鹿児島県:土台のみ残る)後日紹介:貴重な遺構です。国の史跡で、2015年に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として登録されました。長州藩が西洋式の鉄製大砲を鋳造するための金属溶解炉として1856年(安政3年)に建造されましたが、韮山のように実際稼働生産はされなかったそうです。
しかし、世界遺産に登録、日本の技術が世界に認められたのですね。日本の産業革命の一部です
現在残っている部分は10.5メートル、上部が二つに分かれているようにも見えますが、これは各々独立した2本の煙突になっています、一部崩壊、韮山は全ての凝っていた。
建築当時の約7割が現存するそうです。

本日のお宿


次は津和野に行きます。


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