ほんわか人生の旅

全国各地の観光 古典文学 映画観賞 健康

天界大僧正 徳川三代将軍に仕えた 明智光秀か?

2021年10月28日記事修正しリライトしました。
天界大僧正
天海(てんかい) 1536年?~1643年
江戸初期の僧。南光坊と称す。人物伝によると、14歳の頃から、延暦寺など諸寺を遍歴したという。1607年比叡山の探題奉行に任命,このとき、東塔の南光坊に住んでいたので,のちに南光坊天海と呼ばれた。その翌年、徳川家康に駿府に招かれ、その後三代将軍家光の時期まで仕えることになる。大僧正となり、日光東照宮を建立 し、政務にも大きな影響力を持ったといわれている。


このころ三代将軍家光は家康のことを非常に想い、自分が死んだら家康を永劫に守護したいと思い、東照宮の上の山中に自分の廟を建てている。
東照宮造営にあたった三代将軍家光公の眠る大猷院 ( たいゆういん )


天海と明智光秀の関係
日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
見晴らしの良いところです。


①徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局(光秀の姪)が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている。
この様に光秀の家系は続いている。


②日光東照宮の境内には明智家の家紋(桔梗)が多く用いられている。


➂山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
これは、京極家には秀忠の妻の妹(浅井長政の三女)が正室であることから、想像できる。


⓸明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。


⑤明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺(京都御所の隣)、江戸の正徳院に奉納され現存している。


⑥天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。
大津市坂本の滋賀院門跡の隣にある慈眼堂は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕えた知恵者で、織田信長による比叡山焼き討ち後の復興に尽力した天海大僧正(慈眼大師)の廟所として、寛永21年(1644)に建立された江戸時代初期の禅宗様を基本とする国の重要文化財に指定されている建物です。


苔むした境内には16基の石燈籠が整然と配され、墓地には歴代天台座主の墓や、桓武天皇の御骨塔、紫式部、清少納言等の供養塔の他、高島市から移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の阿弥陀如来坐像などが並んでいて、坂本の中心から少し入っただけで訪れる人も少ない静かな佇まいである。


なお、天界大僧正は日光の大猷院 ( たいゆういん )隣にある慈眼堂に葬られ、静かに眠っているはずなのでどちらが本当なのか、供養塔はどこでも建立できますしね。



「天海僧正は、人中の仏なり。恨むらくは、相知ることの遅かりつるを」


天海が家康と会ったのは65歳頃と言われているが、歴史の表舞台に経ったのはその時からで、前半生は謎に包まれている。自分の法弟である胤海が、「海師はいま何歳でおわしますか」と尋ねたところ、「氏・姓も、行年も忘れてしまった。空門に入った身には、そのようなことを知ったとて何になろうか」と受け流したという。


このように法弟にさえも氏、素姓、生年を明かさなかったということで、謎が謎を呼ぶことになったのである。室町幕府の第12代将軍足利義晴の子という説は、朝廷、幕府において以外と信じられていたらしい。上の言葉は、徳川家康が駿府城において天海と初めて対面したときに述べた言葉だそうである。


『徳川実紀』に、「常に左右に侍して顧問に預かり・・・」とあるように、家康は天海にほれこみ、その意見を重用した。江戸城に関しても場所を決定したのは天海の意見によると言う。いわば政治、軍事の顧問格だったのである。また、家康の死去に伴い葬儀の導師となり久能山に葬り、日光東照宮を主導して建てた。その数々の業績から行きながらにして伝説上の人物となり、「黒衣の宰相」と呼ばれた。


また、日光東照宮の造営に先立ち近江に東照宮を建立した。実際に私も内部を見たが日光東照宮の本殿に似ている。



ではどうして光成と天界が同一人物なのか、その説が出た理由というのが、まず、光秀の殺された状況が不自然だったということがある。前後に護衛がいた状況で、百姓が突きだした竹槍が偶然に光秀だけに刺さったということ、これはあり得ることです。


しかし、前後にいた護衛が刺されたことに気づかなかったという不思議さがありますね。また後に土の中から生首が発見され光秀と断定されたといわれていますが、真夏の泥の中に3日間もつかっていては、腐敗が進んでいて明確に首実検できたのか、という意見もある。


しかし、私としては少なくとも影武者はいたのではないかと思われるので定かでないが。
偶然が偶然を生みいまだ正確にはわかっていない。想像するとどんどんと疑問がわいてきますね。それだけ光成人気も高いこと。家康は光成の接待を受け入れていたこと。


信長は光成を疎んでいたのではないかとも思う。家康の接待にいちいち見分しあれこれ小言を言い、挙句は秀吉の配下として援軍に行けと命じ、領地は没収しまだ織田の領地でもない日本海側とか丹波の国とかに国替え、これでは怒り心頭ですよね。


ここで、家康に何とかコンタクトをとったのかな、しかし、光成がすぐ行動するとまでは思わなかったのかも。


その光秀の年齢が天海とほぼ同じだということ、また、天海の諡号の慈眼大師というのは、光秀の木造と位牌が安置されている京都の慈眼寺にちなんだものではないかという疑問もある。慈眼寺は私も参拝しています。


また、比叡山の松禅寺の石灯籠には慶長20年2月に光成が寄進したという意味の言葉が刻まれているが、慶長20年と言えば光成が亡くなってから33年も後のことである。
これも光成を慕う武将または誰かが光成の名で寄進しても何ら不思議ではないが。


これらの点から天海は実は明智光秀であり、織田信長を徳川家康と明智光秀=天海が共謀して本能寺の変をおこし、後に家康が光秀を天海として徳川家のブレーンに迎い入れたのではないかというのがこの説である。面白い説ではあるが、果たしてどうであろうか?


家康は、本能寺の変で命かながら伊賀越えをしているのであり、共謀しているなら、もう少し早い段階で逃亡の準備も整えているのではないか。


光成は近隣の武将を仲間にはしていないところも不思議、丹羽、高山右近などが有力であったはず。歴史は考えるほど面白いです。

×

非ログインユーザーとして返信する