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滋賀県 滋賀大仏志賀の大仏・百穴古墳群・崇福寺跡 清少納言

滋賀大仏 しがのおぼとけ
 阿弥陀如来坐像
住所:滋賀県大津市滋賀里町甲
ここは、車で行きますとなかなかわかりづらい。地元の人も知らなかった。ぐるぐる回りやっと老人に遭遇、道案内して頂き到着。


駐車場:付近にスペースがあります
交通機関
京阪電車滋賀里駅から徒歩で25分

 

山の中にどーんとあります

横から観ました。


平安初期から京都~大津間の間道として利用された旧山中越(志賀の山越)の途中、崇福寺近くにある高さ3.5m、幅2.7mで花崗岩に掘られています。石仏の高さは3.2m
13世紀(室町時代)の作と思われる。


仏さまはちょっとのふっくらしていて表情はとても穏やかです。高さ3メートルあります。往来する人々を優しく見守ったのですね。


この石仏の横を通る道は、崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へぬける旧山中越(志賀の山越)で、大津側の入り口に位置するこの場所と、山中町の西教寺門脇、京都の北白川に石仏があり、いづれも山中越えを利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています



百穴古墳群 ひゃっけんこふんぐん
滋賀大仏の近くには、古墳群があります。
百穴古墳群は、今から約1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。


これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋(横穴式石室)を土でおおったものです。


石の部屋は、死んだ人を納める場所(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。

穴の構造図


案内板からこの通路の入り口が穴のように見えます。この穴がたくさんあることから、「百穴」という名前がつけられました。


 石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、木や石の棺桶にいれられました。


また石室内には、多くの土器(土師器•須恵器)もいっしょに納められました。この中には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド•カマ•コシキ•ナベ)も含まれています。



古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られいます。しかし、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪•奈良•和歌山の一部にもありますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。


これらの特徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。
 昭和16年(い1941年)1月、国指定の史跡となりました。
      大津市教育委員会  
      平成4(1992)年3月


崇福寺跡 すうふくじあと
国の史跡に指定(歴史的風土特別保存地区)
飛鳥時代から室町時代の古墳
天智天皇が大津京の鎮護のために創立した寺で金堂跡・塔跡などが残り、かなり大きな寺であったと考えられる。


「扶桑略記」によると、崇福寺が建造されたのは天智7年(668年)とされる。
しかし延暦21年(921年)焼失。


かって延暦年間には東大寺・興福寺・法隆寺と並び16寺に選ばれるほどの規模であった。
滋賀県園城寺に属していたが山門寺門の抗争に巻き込まれ室町時代に廃寺となった。
日本書記によると嵯峨天皇が平安京から山中越えするとき立ち寄ったとされる。



ここは、清少納言(枕草子第208段で「寺は壼阪、笠置、法輪・霊山は釈迦仏の御すみなるがあはれなり、石山、粉河、滋賀」ここの滋賀がこの寺らしい。


最後迄読んでいただきありがとうございます。

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