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長崎「出島」

長崎「出島」


出島ができる少し前の1543年、ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が日本に伝わります。その6年後にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、翌年は元亀2(1571)年、ポルトガル船が入港、西洋からキリスト教が伝わり日本に広まっていく一方で、本能寺の変では織田信長が破れ、豊臣秀吉が全国統一を成し遂げました。その後江戸幕府が開かれ、中国以外との貿易は平戸に限定しました。それ以降もキリスト教布教は続いていき、1614年には危機感を感じた幕府によってついにキリスト教禁止令が発令され、信者は厳しい取締りに遭いました。
キリスト教を排除したいものの、魅力的な西洋との貿易は止めたくはない幕府。そこで考えられたのが「出島」です。町に暮らすポルトガル人を一カ所に収容し、貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組みをつくったのです。
その後、島原・天草一揆が起こり、寛永16(1639)年にポルトガル船の来航が禁止されると、当時平戸にあったオランダ商館を出島に移すことになりました。以降、幕末まで出島は日本とヨーロッパの唯一の貿易地として重要な役割を果たしました。

中島川に架かる「出島表門橋」を渡れば、そこはもう江戸時代です。
時代の流れとともにその機能も姿カタチさえもなくなった出島ですが、昭和26(1951)年から復元整備が進められています。現在、16棟の建物が復元され、当時の町並みの様子を知ることができます。
門をくぐった先にある料金所で入場料を支払い、いざ
一歩入ればたちまち異空間!オランダ商館員の住居や貿易品を保管する蔵、日本人役人の詰所など復元された16の建物がずらりと並んでいます。

カピタン部屋
カピタンと言われたオランダ商館長の住居です。
商館長をはじめ、商館医のシーボルトや日本人の役人、商館長に招かれた遊女など、さまざまな人物が滞在したという「カピタン部屋」。畳の部屋にシャンデリアなど、和洋折衷の造りが目をひきます。
商館員たちは毎日朝夕の2回、皆で食事をとるのが習慣だったといいます。
カピタンとは、人の名前ではなく、東インド会社が日本においた商館のいて最高責任者を務める商館長のことです。つまりオランダ商館長の部屋という意味で、商館長の事務所や居住地として使われていました。出島で最も大きな建物で、多くの観光客が出入りしています。また、このカピタン部屋は、日本の役人や大名が出島に訪れた際には接待の場所としても利用されていました。


ビリヤードを楽しむ人々 

畳の部屋にベット

出島の顔・旧出島神学校」。開国した後の1878年に建てられた旧出島神学校は、日本に現存している最古のキリスト教プロテスタントの神学校です。現在は出島の料金所や休憩室として利用されていて、出島への入り口・出口としての役割を果たしています。鮮やかな水色の建物で、よく見ると上の方に十字架があります。洋館+教会といったかたちの建造物で、出島のシンボルのような存在です。出島の目印になっている水色の神学校を、遠くから、十字架を含めて見てみましょう。
この神学校のポイントは、カトリックではなくプロテスタントというところです。オランダ人が出島で貿易することを許されたのは、当時危険視されていたカトリックではなく、プロテスタントだったことが大きな理由のひとつです。プロテスタントの布教活動の一環として、この神学校が建てられました。

明治36(1903)年築の「旧長崎内外クラブ」


「旧長崎内外クラブ」の先には建物は、明治11(1878)年築の、現存する日本最古のプロテスタント神学校「旧出島神学校」です。現在は「出島史料館」となっています。



海に浮かぶ人工島、出島が完成したのは寛永13(1636)年。面積約15,000平方メートルと、小さな出島。なんといっても扇形が特徴的です。
最初出島には、ポルトガル人が住んでいたのです。

ですが1639年にオランダ商館長が来航したことをきっかけに、日本はポルトガルとの貿易をやめることが決定されます。そしてポルトガル人は出島から追い出され、無人状態になった出島に、今度は東インド会社のオランダ商館が建てられました。その後出島は日蘭の架け橋として、日本に大きな影響を及ぼしました。鎖国中の日本にとってヨーロッパの学問はとても価値のあるもので、多くの日本人が蘭学を学びました。オランダ人であるシーボルトは、日本で医学教育のための鳴滝塾を開設しています。


ですが幕末に日本の開国が決まり、その後の1855年に日蘭和親条約が締結されたことにより、オランダ人は長崎の市街に出入りすることが許されることに。出島はその存在意義を失ってしまいました。


明治時代になり、出島周辺は埋め立てが進んでいきました。1883年から8年間にわたる中島河口の工事、1897年から7年間行われた港湾改良工事によって、人工島として建造された出島は、ついに「島」ではなくなってしまいました。


「出島」というかたちを失ってしまったものの、歴史的に重要な役割を果たしていた事実は変わりません。そのため、1996年になり、長崎市が巨額を投じて出島の復元事業をはじめました。


当時の生活や貿易の様子がわかる建造物の復元を第一とし、その後、地役人である日本人の生活ぶりを示す家屋や土蔵の復元、さらに街頭や家具などを整備し、町を作る短期計画が柱となり、長期的な計画としては、四方を水面で囲まれ、扇形の島として完全に復元する目標が掲げられています。この事業は容易ではありません。歴史を後世に伝える手段として、ぜひ実現してほしいものですね。


「現在の税関&入国審査の水門」
水門は、出島の一番西端に位置していた門です。輸出入の物品はこの門で改められ、ときには身体検査もされていました。貿易をしているとき以外は常に門は閉まっていて、いまでいう税関のような役割をしていたゲートです。この門を通じて日本とオランダが交流していたと思うと、感慨深い気持ちになりますね。出島へ行ったら、ぜひこの水門をくぐりましょう。

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