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岐阜県 中山道 大井の宿

中山道 大井の宿
住所:恵那市大井町
中央自動車道「恵那IC」より、恵那駅方面へ約5分
0573-25-4058(恵那市観光協会)


ここは私がまだ現役の時代に単身赴任で勤務したところから30数分の所にあります。
近くには恵那峡、冬はスケート場もあります。


また栗の名産地(中津川と同様)栗きんとんがおいしい


本陣跡
門だけが残っています
建物は火災で焼失
安土桃山様式を伝える門です。



本陣資料館=金曜日は無料


中山道大井宿は、江戸から約87里(344㎞)46番目の宿場で、京都へは47里余(188㎞)のところにある。中山道と名古屋・伊勢に向かう下街道の分岐点である槙ヶ根追分に近く、中山道の旅人のほか、伊勢参り・善光寺参りや尾張商人、尾張に向かう木曽の牛馬の荷などが通り、美濃16宿中随一の繁栄を誇っていました。
全国でも9番目の盛況ぶりだったそうです。格式高い本陣の門や格子戸のある庄屋宅、うだつと黒壁の美しい旧家などが静かにたたずみ、当時のにぎわいを見せた大井宿の様子がしのばれます。
宿内には、本陣や脇本陣・問屋のほか旅籠屋・茶屋・商売屋など、天保14年(1843)の記録では家数110戸(466人)が軒を並べていた。本陣、脇本陣は大名や公家の姫君が宿泊するため門構えと玄関を備え、書院付き上段の間のある豪壮な建物であった。旅籠屋は41軒あり、寺社などの参拝費用を積み立てる講の指定宿である講宿や近江商人の定宿も多くあった。中には門構えや式台、特別な客室のある大型の旅籠屋もあって一般旅人ばかりでなく武士も利用したと思われる。草履や蓑、砂糖もち、果物などを売る茶屋は8軒あった。


 宿は東から横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という5町に分かれ、東の高札場から西に大井橋まで6庁半(710m)あった。それぞれの町は、街道が直角に曲がるいわゆる枡形によって区切られていた。大井宿ではこの直角が6ヵ所あって、中山道随一の整然とした町割りを形成していた。


宿場内には、敵の侵入を防ぐため道が直角に曲がる「桝形(ますがた)」が6ヵ所造られています。これほどたくさんあるのは中山道の宿場でここだけ。また大井宿本陣(大名などの宿泊所)は1947(昭和22)年に全焼しましたが、表門・庭園は今も残っております。


大井宿下問屋場跡
大井宿問屋場は本町(上問屋)とここ(下問屋)の2ヵ所あった。問屋場は人や荷物の継立事務を行うところで、宿役人(問屋・年寄)や下役人(人足指・馬指・書役など)が月を半分にして、上問屋と下問屋に交代して勤務していた。
 宿役人は、大井宿が幕府の命により毎日用意している人足50名と馬50頭を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたっていた。
 


平成12年に江戸時代の豪壮な庄屋古山家住宅を市が復元整備した「中山道ひしや資料館」がオープンしました。


高札場は制札ともいい徳川幕府が、農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものである。
 高札場は村のうち人通りの多い目に付きやすい場所に建て、幕府の権威を誇るように石垣や土盛りを築き、ときには矢来で囲むこともあった。そして管理の責任を藩に命じ、村人にきまりを厳しく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
 高札の書き換えは、きまりの改正や老中の交替、年号の変わるたびに行われたが、あまり頻雑であったため8代将軍吉宗以後は書き換えず、正徳元年(1711)5月付の高札が幕末まで維持された。
 そして、慶応4年(1868)明治新政府は新しい高札に掛け替えたが、明治3年に高札制度を廃止した。
 大井宿の高札場はこの坂(五妙坂)の上にあり、高さ2間(3.6m)巾2間半(4.5m)の大形のものだった。(この高札場は原寸を3/4に縮小したものです。)


わずかなところしか残っていませんが往時を感じることが出来ます。


新情報
中山道大井宿に残る「明治天皇大井行在所(あんざいしょ)」令和3年4月1日に完成
中山道大井宿の旅籠であった伊藤家は、明治13年の明治天皇巡行の際にご宿泊所となり、現在でも当時の座敷、風呂場、便所がそのままの姿で保存されています。同時に、江戸時代から明治初期にかけての町家の姿をよく残しており、建築史的にも貴重なものです。
行在所横には、大井宿本陣の北門とも、岩村城の城門であったとも言われる長屋門が、古屋家から移設され新たな見どころの一つとなっています。
住所:恵那市大井町80番地1
☎:0573-25-7101
駐車場:12台


最後までお読みいただきありがとうございました。

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