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平賀源内記念館・旧邸・薬草園 平賀源内の生い立ち


平賀源内記念館
住所:香川県さぬき市志度587-1
☎:087-894-1684


平賀源内旧邸
住所:さぬき市志度46-1
駐車場:13台


志度寺のすぐ近隣です。


交通機関
JR「高松」駅から高徳線で30分、「志度」駅下車、徒歩10分
コトデン「築港」駅から志度線で40分、「志度」駅下車、徒歩10分


入場料
平賀源内記念館(平賀源内旧邸・薬草園含む) 一般500円、大学・高校生400円、小・中生250円


現在、【平賀源内旧邸】は土・日・祝のみ開館しているようです。


ここは見学しましたが写真は撮影しませんでした。
http://hiragagennai.com/


平賀源内(ひらが-げんない)
日本のレオナルド・ダビンチではないでしょうか


江戸時代中期の発明家として知られています。
平賀源内は讃岐・高松藩の藩士・白石茂左衛門の3男として、現在の香川県さぬき市志度にて生まれました。
白石家の先祖は、戦国時代に武田信虎に滅ぼされた信濃・佐久の平賀城主であります。 平賀玄信です。


「天狗小僧」と呼ばれて、少年時から色々なカラクリや工夫をして人を驚かせていました。今残っている一つが「御神酒天神」掛軸である。11才の時の作と言われ、顔の部分を透明にして背後に肌色と赤色を上下に塗った紙をスライドさせて、天神さんがお酒を飲んで赤くなった、という仕掛けである。顔の部分の透明板は何を使っているのか。天神さんの絵や掛軸の表装など、カラクリ以上に巧みな才に驚かされたようです。



13歳になると藩医の元で本草学を学び、儒学も勉強しました。
1748年に父が亡くなると21歳で家督を継いで高松藩の蔵番一人扶持、切米三石を務めたようですが、1752年頃(24歳頃)に長崎に遊学すると医学やオランダ語などを更に学びます。


そして、更に勉強したいと思った平賀源内は、妹・里与に婿養子を迎えさせて、家督を譲り、大坂や京都など各地で、多岐多様に師から学びました。


27歳の時には高松藩の重臣・木村季明の要請で磁針器(方位磁石)を作製しています。
1756年には江戸にできると本草学(漢方医学)や漢学を取得。


更に長崎ではヨーロッパ製の歩数計を改良した量程器(万歩計)を作ったほか、鉱山採掘
技術を学ぶと、伊豆では1761年に鉱脈を見つけています。


また、江戸では当時最大規模の物産展(博覧会)も主催すると、それを元に1300種の動
植鉱物の中から厳選した360種を収録した図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行し
世人の注目を浴びました。


やがて、高松藩から薬坊主格を受けて銀拾枚四人扶持と再雇用されています。
そして、江戸幕府の老中・田沼意次にも知られるようになり、幕命により芒硝の採取も行い、平線儀(水平を出す道具)も作りました。


このように薬草からの薬や、資源としての鉱物採掘も、秋田藩から招かれるなどもし、防
火の燃えない布「火浣布」(かかんぷ・石綿)を幕府に献上するなど、やがて発明品が増えてきます。


平賀源内は脱藩
どこかに行くたびに、高松藩の許可が必要で不便な事から、平賀源内は脱藩して
“天竺浪人”と名乗り各地を巡っています
高松藩は平賀源内を「仕官御構」(おかまい)と言う他藩への仕官禁止処分としました。


1768年には、オランダ製の寒暖計を見て、原理は判ったから簡単に作れると、日本創製
寒熱昇降記(気温計)も製造します。


1776年11月、平賀源内48歳のとき、日本初の発電器エレキテル(摩擦静電気・静電気発生装置)を完成させました。


平賀源内とエレキテル
一般的には、平賀源内がエレキテルを作ったとして知られていますが、初めて発明したと言う事ではありません。
もともと、長崎で壊れたエレキテルを持ち帰って、7年掛けて復元(修理)したとされます。


このエレキテルは、医療機器で静電気治療を行う機械でした。
なお、単なる復元ではなく、蓄電装置・摩擦装置などの構造も、外国文献とも異なる点があることから、独自の新たな考えにて改善を図りつつ完成させたと言えるでしょう。


鎖国で海外より多くの情報が入らない中、平賀源内は高価な外国製を取り寄せるのではなく、日本人でも安く作れることを証明したのです。


それから3年後の1779年、多彩な才能を持った平賀源内は大名屋敷の修理を頼まれま
したが、棟梁2人が修理計画書を盗んだと、酔っていたため勘違いして殺傷してしまいます。これには諸説あります。


多技多能で種々計画しましたが妨害などもあり、不平不満が募り、この頃には酒におぼれるようになっていたとされます。


この罪で、平賀源内は厳寒の小伝馬町の牢内に投獄され、約1ヶ月後に破傷風により獄
死しました。享年52歳。


葬儀は親交があった杉田玄白(源内が挿絵を描いています)らが行おうとしましたが、
幕府から許可が下りず、やむなく遺体も無い葬儀になったと言います。
墓は東京都台東区橋場の総泉寺跡にあります。


ウナギのかば焼きの考案
土用の丑の日にウナギを食べると言う風習も、平賀源内が発明との説もあります。
なんでも、夏の売り上げ不振に悩んだウナギ屋から相談された平賀源内が「今日は
土用の丑の日」と書き、暑い時に食べると元気になると張り紙を出したら、ウナギ
が飛ぶように売れたと言います。


破魔矢の考案
お正月の初詣で目にする縁起物の「破魔矢」を考案したのも、才能、行動、発想、すべてが型破りな平賀源内とされ、約100もの発明品を残しました。


文芸家
宝暦13年(1763)36才の時、『根南志具佐』『風流志道軒傳』を風来山人と
いうペンネームで、相次いで発刊しました。



陶芸家
13才の頃、三好喜右衛門に本草学を学んだが、喜右衛門は漢学に造詣が深いの
みならず農地開墾・池の造築改修を為し、陶磁器(小原焼)も造ったと言い、そ
れゆえ源内も製陶の知識は早くから備わっていた。


宝暦3年(1753)長崎遊学の帰途、備後鞆之津(福山市鞆)で陶土を見つけ製
陶を勧めた話は今も「源内生祠」(広島県史跡)として残っています。


画家
『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』巻之六に「蔗(しょ=さとうきび)ヲ軋(き
しり)テ漿ヲ取ル図」があり鳩渓山人自画としている。本草学においては真実に
近い描写が必要で、『物類品隲』においては 南蘋(なんぴん)派の宋紫石に絵
を描かせている。写実的な西洋画に強く惹かれたことは間違い無く、第2回目の
長崎遊学の時自らが西洋画を描き、実技を身につけたと思う。


それが神戸市博物館蔵の「西洋婦人図」である。 その西洋婦人の襟の青色は西洋の合成顔料=プルシアンブルーで、源内は『物類品隲』の中でベレインブラーウと言って取り上げ、自らも使用し、それが秋田蘭画、更には北斎の富嶽三十六景に使われる青色の先鞭をつけたのも源内であったのです。


その2年後秋田へ鉱山指導に招かれた折、角館の宿で小田野直武に西洋画の陰影
法・遠近法を教える。それがきっかけで小田野直武は江戸に出て『解体新書』の
挿絵を描き、西洋画法を身につけ、秋田の地に蘭画が広まるのである。
秋田藩主佐竹曙山の『画法綱領』と司馬江漢の『西洋画談』が共に源内の弟子で
あるところの画論から源内のそれも類推される。


南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源
内は居たのである。


起業家
秩父の金山事業及び鉄山事業は幕府の許可をもらい、多人数を動員して本格稼動
できた事業をおこしました。
しかし鉄山事業の時は休止したあと、そこから運搬のための道路・河川の改修を
利用し、製鉄に縁のあった炭焼きを大々的に事業として起こした。


豊富な森林資源を荒川通船を利用することにより低コストで江戸へ運ぶことを考えたこの事業は、源内の起業家としての面目躍如であり成功する筈であったが、資金不足から問屋に資本参加を頼み、当然利潤が少なくなり、熱意も無くなくなってしまう
のです。


鉱山家
宝暦14年(1764)秩父中津川村山中で石綿を発見したが、翌年「寒水石」をは
じめ金銀銅鉄・明礬・磁石なども見つけ、中島一族と組んで明和3年(1766)
秋、金山事業に着手する。この時の「吹初金」・「炉甘石」の実物見本と説明書
が生家へ送られている。金山事業は明和6年には休山となります。


明和8年(1771)から安永元年(1772)にかけ第2回長崎遊学の帰途、大坂に
滞在し攝津多田銀銅山(現:兵庫県猪名川町)を調査・水抜き工夫をする。また
大和吉野山から大峰山にかけての金峰山では試掘を計画します。


安永元年秋江戸に帰着、直ちに秩父の鉄山事業を進め、翌年春着手する。当初は
鉄銭鋳造の需要で順調とみえたが、「吹方熟し申さず、行はれかね」て失敗に終
わり安永3年中には休山となってしまいました。


秋田が西洋画の発祥の地(秋田蘭画)となったり、焼物にも新しい陶法を教えたりで、色々な面で大きな影響を残したことは間違いないと思われます。


やはり、レオナルド・ダビンチですね
些細な誤解からヒトを殺傷することになった。
これも全てお酒が原因だったようで、お酒はほどほどにしましょう。
私は、糖尿病でお酒は一切やめました。

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